地点名 |
出典と登場回数 |
位 置 |
備 考 |
写真と撮影年 |
八丁川岸 |
はっちょうがし |
多助, 太助伝 全1件1題 |
児玉郡上里町八町河原 |
八町河原.烏川の渡船で五料へ至る三国街道の一部になる.
"榎木戸村から八丁川岸、それより五料と申す所に日光一の関所がございます"(塩原多助一代記) |
水除けの突堤 |
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1998 |
榎木戸(本庄) |
えのきど |
多助 全1件1題 |
本庄市か |
「塩原多助一代記」では本庄付近,「八景隅田川」に出てくる榎木戸は三郷付近に読める.どちらも不明.本庄の方は,「塩原多助一代記」の点取りに出てくる掃木戸(傍示堂)と字面が似ており,その読み違いではないか.
"御堂坂と申す所より榎木戸村から八丁川岸、それより五料と申す所に日光一の関所がございます"(塩原多助一代記) |
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本庄 |
ほんじょう |
皿山, 多助, 草三 など (他 東京2件) 全7件6題 |
本庄市 |
中山道本庄宿.本庄市中央1-6にあった田村本陣の門だけが中央1-2に移設された.本庄にはもう1つ内田本陣が銀座2-2にあった.
"本庄宿の手前に御堂坂と申す所より榎木戸村から八丁川岸"(塩原多助一代記) |
本庄宿 田村本陣表門 |
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1998 |
本庄:開善寺 |
かいぜんじ |
皿山 全1件1題 |
本庄市中央2-7 |
臨済宗妙心寺派畳秀山開善寺.本庄城主小笠原信嶺が開基で,墓がある.
"私は本庄宿の海禅寺へ寄って一寸玄道という者に会って、それから又美濃まで是非行きますから御一緒にまいろう"(菊模様皿山奇談) |
開善寺 |
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1998 |
本庄:普寛の墓 |
ふかんのはか |
草三 全1件1題 |
本庄市 |
普寛上人は,享保16(1731)年,秩父大滝に生まれた.窮民の救済に努め,御嶽講を広めた.享和元(1801)年,秩父へ戻る途中,本庄で没した.普寛上人の霊場は,1922年道路拡張により高台(中央3-4)に移転した.
"本庄宿に普寛さまのお墓がございまして、今度新規にお墓ができあがり、私もお賽銭箱を建立いたしました"(安中草三) |
普寛上人墓 |
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1998 |
本庄:台町 |
だいまち |
草三 (他 東京1件) 全3件2題 |
本庄市東台 |
現在は東台という町名になっている.写真のポスターにはしっかり台町と書かれている.
"一里でも先へ踏み出さんと小坂を登り、本庄宿の台町へ差しかかる折りは、ますます降りが強くなりました"(安中草三) |
東台 |
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1998 |
御堂坂 |
みどうざか |
多助, 太助伝 全1件1題 |
本庄市日の出3,4 |
本庄宿東側の中山道の坂.「塩原太助伝」の見堂坂(けんどうざか)のルビは誤り.
"本庄宿の手前に御堂坂と申す所より榎木戸村から八丁川岸、それより五料と申す所に日光一の関所がございます"(塩原多助一代記) |
御堂坂 |
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1998 |
掃木戸 |
ほうきど |
太助伝 |
本庄市傍示堂 |
傍示堂(ぼうじどう).中山道に面する.「塩原太助伝」のみに出てくる地名で,口演作品には出てこない.境界点である"傍示"に堂があったらしい.
"翌廿三日播羅村、石原村、久下村、本庄手前、見堂坂、掃木戸村"(塩原太助伝) |
中山道と五料道との分岐点 |
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1998 |
中瀬 |
なかせ |
引窓, 多助, 太助伝 全2件2題 |
深谷市中瀬 |
中山道から北へ別れ,境へと向かう間道.写真の道標には"なかせ道"とあり,移築されたもの.
"久下村より中瀬に出て、渡しを越えて、ようよう堺という所まで来ますと、七つ下りになりまして、足が疲れて歩かれません"(塩原多助一代記) |
中瀬河岸跡 |
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1998 |
中瀬の渡 |
なかせのわたし |
引窓, 多助, 太助伝 全2件2題 |
深谷市中瀬〜群馬県太田市 |
利根川の渡し.対岸には世良田の東照宮がある.
"丁度宝暦十年の頃、武州中瀬の渡しから伊勢崎へかかるわきに横堀村と云う村がございました"(雨夜の引窓) |
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深谷 |
ふかや |
緑林, 八景 (他 東京3件) 全7件4題 |
深谷市 |
中山道深谷宿.熊谷との間は10km以上ある.「猫の茶碗」は.熊谷との間の石原が舞台になる.宿場の東西入口に常夜燈があり,写真は東側のもの.
"上州廻りをして、深谷と熊谷の間で茶店を出していると"(緑林門松竹) |
見通し燈籠 |
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1998 |
原の郷 |
はらのごう |
新助市五郎(原の郷の捕り物)(三一正蔵芝居噺:09) 全1件1題 |
深谷市原郷,常盤町あたり |
原文に"八っ丁縄手"とある松並木道.見返り松は深谷宿を出はずれた,現在の国道旧道交差点近くにあった老松.
"深谷本庄の間原の郷八っ丁縄手という所へ来ると"(新助市五郎(原の郷の捕り物)) |
みかへり松碑 |
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1998 |
播羅 |
ばんら |
太助伝 |
熊谷市幡羅町など |
幡羅(はたら)が正しい.幡羅町に名を残す.「和名抄」以来の古い地域名.
"翌廿三日播羅村、石原村、久下村、本庄手前、見堂坂、掃木戸村"(塩原太助伝) |
幡羅町工業団地 |
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1998 |
石原 |
いしわら |
皿山, 高麗の茶碗, 太助伝 (他 東京2件) 全4件2題 |
熊谷市石原 |
『円朝全集』には,橘家圓喬(4)が演じる「高麗の茶碗」(猫の茶碗)が載っている.圓朝作の落語ではないため,"はなしの名どころ"の方にも掲載している.石原の道標3基は,石原交差点から西の小公園に移設された.
"ここはお爺さん何かえ、矢張り熊谷だろうね。へえ熊谷の少し上になりまして、石原という町続きで御座います"(高麗の茶碗) |
石原村銘のある道標 |
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2008 |
熊谷 |
くまがや |
多助, 草三, 高麗の茶碗 など (他 東京16件) 全21件15題 |
熊谷市 |
熊谷は中山道屈指の宿場.空襲で市内のおもな旧跡は焼けた.熊谷には,2ヶ所に権八地蔵がある.白井権八の殺人を見届けた地蔵が言葉を発した.
"前には熊谷より前橋へ出ますには本庄宿の手前に御堂坂と申す所より"(塩原多助一代記) |
熊谷 権八地蔵 |
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1997 |
熊谷:本町 |
ほんまち |
高麗の茶碗 (他 東京2件) 全3件1題 |
熊谷市本町 |
竹井本陣は星川に至る敷地を持つ大規模のものだったが,戦災等で焼失した.
"向こうに火の見の見えるあれが熊谷寺の所で、あれから本町と云って全くの熊谷で御座います"(高麗の茶碗) |
熊谷宿本陣跡碑 |
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1999 |
熊谷:熊谷寺 |
ゆうこくじ |
高麗の茶碗 全1件1題 |
熊谷市仲町43 |
浄土宗蓮生山熊谷寺.敦盛を討った熊谷直実が草庵を結んだ地という.数年前訪れたときは,確か,署名した上で参拝した.今は正当な理由で申請しないと立ち入りできない.
"向こうに火の見の見えるあれが熊谷寺の所で、あれから本町と云って全くの熊谷で御座います"(高麗の茶碗) |
熊谷寺 熊谷直実墓 |
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1993 |
久下 |
くげ |
多助, 草三, 太助伝 全2件2題 |
熊谷市久下 |
熊谷に続く久下の長土手が通っていた.こちらにも権八地蔵がある.白井権八が「わしは言わぬが,ぬしも言うな」と話しかけられたのはどちらだろうか.
"その頃は女は手形がなければ通られぬとて、久下村より中瀬に出て、渡しを越えて"(塩原多助一代記) |
久下 権八地蔵 |
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1997 |
行田 |
ぎょうだ |
皿山, 草三 (他 東京1件) 全3件3題 |
行田市 |
忍の行田.水城の町をうたっている.復元された三層櫓は郷土博物館になっている.行田の代名詞である足袋は,今でも500万足生産という.そんなに履きつぶすのかねぇ.
"私アもとは忍の行田の在で生れた者でありやすが、少さい時分に両親が亡くなってしまい、知る人に連れられてこの美作国へ参って、何処と云って身も定まりやしねえで居ました"(菊模様皿山奇談) |
忍城址三階櫓 |
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2008 |
羽生 |
はにゅう |
累ヶ淵(中公圓生3:01) など 全2件1題 |
羽生市 |
圓朝原作には登場しない.水海道の羽生と埼玉県の羽生とは異なるという圓生(6)の説明.田山花袋「田舎教師」のモデルとなった小林秀三の墓が,駅前の建福寺にある.享年21.
"いま埼玉県に羽生市というところがございます。このもっと先へ行きますと館林へ出ます"(真景累ヶ淵) |
故小林秀三君之墓 |
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2008 |
吹上 |
ふきあげ |
草三 全1件1題 |
鴻巣市 |
旧北足立郡吹上町.中山道の立場.中山道はここで大きく西へ曲がり,熊谷堤へ続く.
"熊ヶ谷の蔦屋で昼食をいたし、それから吹上へ掛かり、吹上からいたして遅くなったが、今晩は鴻巣泊まりという心組みで"(安中草三) |
吹上神社と中山道 |
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1998 |
箕田 |
みた |
草三 全1件1題 |
鴻巣市箕田 |
箕田(みだ).渡辺綱の出生地.箕田碑は箕田源氏,渡辺綱の顕彰のため江戸中期に建てられた.
"箕田村の手前に忍の行田と館林へ曲がる所の分かれみちがあります"(安中草三) |
箕田碑 |
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1998 |
箕田:観音堂 |
かんのんどう |
草三 全1件1題 |
鴻巣市箕田 |
箕田観音.吹張山平等寺.渡辺綱の開基になる.六孫王源経基公が所持した観音像を収めるという.享保9(1724)年の燈籠がある.
"箕田村という所に、渡辺の綱の守本尊の観音堂がございます"(安中草三) |
観音堂 |
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1998 |
吉見 |
よしみ |
草三 全1件1題 |
比企郡吉見町 |
吉見百穴は,古墳時代後期の横穴古墳.見学有料.付近には戦時期の地下工場や,崖を人工的にうがって作った巌窟ホテル跡があり,とかく穴に縁があるところ.
"私は吉見村の者でございます、これから半道少々はいりますと、宅はじきでございます"(安中草三) |
吉見百穴 |
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1997 |
鴻巣 |
こうのす |
皿山, 多助, 草三, 太助伝 (他 東京2件) 全5件4題 |
鴻巣市 |
中山道の宿場.江戸期から人形職人が集まった街区は,現在の町名も人形という.
"ようようのことで中仙道の大宮宿泊まり、翌四日は鴻巣の田本が昼食です"(塩原多助一代記) |
鴻巣人形町 |
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1998 |
鴻巣:勝願寺 |
しょうがんじ |
八景 (他 東京2件) 全3件2題 |
鴻巣市本町8-2 |
十八檀林の一つ.山門などは再建されたものだが,名刹をうかがわせる規模のもの.関東郡代伊奈忠治など伊奈氏の墓や,ここで急死した仙石権兵衛の墓がある.
"浄土宗で鴻の巣の勝願寺の末寺ではございますが大寺でございます"(八景隅田川) |
勝願寺仁王門 |
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1998 |
桶川 |
おけがわ |
皿山, 多助, 後日譚(岩波) など (他 東京2件) 全5件5題 |
桶川市 |
中山道の宿場.府川本陣遺構,明治天皇行在所,南北木戸の碑がある.桶川は,怪談噺「時雨の笠森」の舞台になる.
"鴻の巣、桶川と中仙道を下りましたが、足弱の連れで道もはかどりません"(塩原多助一代記) |
桶川宿北木戸址 |
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2008 |
上尾 |
あげお |
太助伝 (他 東京2件) 全2件1題 |
上尾市 |
中山道上尾宿.「おさん茂兵衛」,小間物屋の茂兵衛と上尾のおさんの出会いの場が上尾宿になる.
"廿二日、上尾、桶川、鴻ノ巣、田本中喰"(塩原太助伝) |
氷川鍬神社水盤 |
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2008 |
加茂宮 |
かものみや |
多助, 太助伝 全1件1題 |
さいたま市北区宮原町あたり |
加茂神社を鎮守とする中山道の立場.加茂神社の祭神は,上賀茂神社の別雷神になる.
"かれこれ一町余りも追いかけて、加茂宮村という所から西へ別れて加村まで三町ばかり"(塩原多助一代記) |
加茂神社 |
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1997 |
天神橋 |
てんじんばし |
多助, 太助伝 全1件1題 |
さいたま市北区宮原町あたり |
加茂宮のうち.天神橋の名を彫った折れた石柱が横たわっていた.
"足弱の連れで道もはかどりませんので、天神橋へ掛かりますと日はトップリ暮れ、足は疲れました"(塩原多助一代記) |
天神橋バス停 |
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1997 |
加村 |
かむら |
多助, 太助伝 全1件1題 |
さいたま市北区日進町,櫛引町 |
上加村,下加村から成る.写真には上加村の銘が見える.
"加茂宮村という所から西へ別れて加村まで三町ばかり追いかけました"(塩原多助一代記) |
加村道祖神 |
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1997 |
大成 |
おおなり |
太助伝 |
さいたま市北区大成あたり |
東側を中山道が通るため加村に続いて「塩原太助伝」に記載されたが,本編では出てこない.大成駅は,鉄道博物館駅に改称している.
"先、大宮ノ方大成村とあり"(塩原太助伝) |
埼玉新都市交通 大成駅 |
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1998 |
大宮 |
おおみや |
皿山, 多助, 孝子, 下新田 など (他 東京7件) 全10件9題 |
さいたま市大宮区 |
もとは氷川神社の門前町.言うまでもなく埼玉県第一の商都.合併して"さいたま市"と書くのも,まだ少し違和感がある.
"だんだん大宮の宿を離れて、桶川を通り過ぎ、鴻の巣の手前の左は桑畠で、右手の方は杉山の林になっております所までまいりました"(菊模様皿山奇談) |
武蔵国一宮碑 |
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2008 |
栗原 |
くりはら |
太助伝 |
さいたま市大宮区宮町1 |
大宮宿本陣の栗原を指すだろう.
"九月廿一日、大宮、栗原に泊"(塩原太助伝) |
栗原家 |
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1998 |
蕨 |
わらび |
蝦夷錦 (他 東京2件) 全3件3題 |
蕨市 |
中山道蕨宿.板橋から戸田の渡しを越えた最初の宿場.他の例は「お紺殺し」と「雪てん」になる.「雪てん」では蕨駅を指す.蕨城址碑は,『大漢和辞典』を編んだ諸橋轍次の撰.
"早く出られればいいが、矢っ張り遅くなるから、蕨泊まりとしていい、川さえ越せばもういいから"(蝦夷錦故郷之家土産) |
蕨城址碑 |
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2008 |
川口 |
かわぐち |
江島屋 (他 東京4件) 全5件4題 |
川口市 |
善光寺は河川改修で堤防内に取り残された.右側は減りつつある川口鋳物工場.
"あのなに鳩ヶ谷あたり、遠いな、なになに、川口という所のナニ、名主のナニ、岡田権右衛門方へ縁付けました"(鏡ヶ池操松影) |
川口善光寺を望む |
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1997 |
鳩ヶ谷 |
はとがや |
乳房榎, 江島屋, 一雅 全3件3題 |
川口市 |
旧鳩ヶ谷市.本郷と幸手を結ぶ日光御成道の宿場.日本で二番目に小さい市だったが,川口市に編入されて鳩ヶ谷の地名は消滅した.「怪談乳房榎」で真与太郎を預けようとする先が鳩ヶ谷になる.
"妹の縁付いておる先の親類とかなんとか申して、じき近在で鳩ヶ谷という所で大尽でございます"(怪談乳房榎) |
鳩ヶ谷の町並み |
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2000 |
岩槻 |
いわつき |
後日譚, 八景, 鶴殺, 初島 など (他 東京16件) 全21件7題 |
さいたま市岩槻区 |
落語では「たらちね」,「ねぎまの殿様」の岩槻ネギで登場する.用例も,「ねぎまの殿様」で殿様がアツアツのねぎま鍋を食べたところ,ネギの芯が飛び出して驚く場面とそっくり.もう一つの岩槻名産は人形で,人形店もならんでいる.岩槻人形博物館には,岩槻の雛人形の製法や,江戸期からの人形が展示されている.伝統的なひな壇飾りは見あたらなかったが,写真のようなアニメとコラボしたカワイイ系の人形が展示されていた.
"岩槻葱の心まで煮えているのを御存じなく、上歯と下歯でがりっとお噛み遊ばしたから堪りません"(塩原多助後日譚) |
岩槻ひな人形 |
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2023 |
粕壁 |
かすかべ |
緑林, 小雀長吉, 上野 (他 東京3件) 全6件4題 |
春日部市 |
粕壁宿だった市域が広がって,今は春日部と書く.田村商店は,粕壁宿仲町に残る代表的な商家で,店の前に建つ道標は天保5(1834)年のもの.
"思い切って今夜の内に粕壁までのそうとここまで来たがお前に会おうとは思わなかった"(小雀長吉) |
田村本店と道標 |
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2024 |
宝珠花 |
ほうしゅばな |
伊香保, 孝子 全2件2題 |
春日部市西宝珠花,千葉県野田市東宝珠花 |
5月の大凧あげが有名.江戸川両岸に宝珠花河岸がある.
"といっておるうちに船が出ました。また、宝珠鼻へ着くと乗り込むものもあり、これから関宿へ"(霧陰伊香保湯煙) |
西宝珠花 |
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1999 |
幸手 |
さって |
牡丹, 牡丹(覚書), 上野 (他 東京6件) 全10件4題 |
幸手市 |
「牡丹燈籠」,お峰殺しの場面.幸手の買い出しの帰りに伴蔵はお峰を殺害する.
"おみねに好きな衣類を買って遣るからといふので、幸手へまいり、呉服屋で反物を買い、ここの料理屋でも一杯やって両人連れ立ち、もう帰ろう"(怪談牡丹燈籠) |
明治天皇幸手行在所跡 |
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2012 |
権現堂 |
ごんげんどう |
荻江 全1件1題 |
幸手市権現堂 |
寛永4(1627)年に権現堂堤が切れたことを取り上げている.川は権現堂川(現在の中川).堤は桜と菜の花が彩る.
"もと猿楽町にお屋敷がございました頃、あなた権現堂がきれまして、九段の下まで水がまいりました"(月謡荻江一節) |
権現堂堤 |
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1999 |
新利根大利根 |
しんとねおおとね |
牡丹, 牡丹(覚書), 引窓 全5件2題 |
幸手市 |
「牡丹燈籠」のお峰殺しは,幸手栗橋間の夜の土手での惨劇.権現堂川あたりだろう.
"向こうは往来が三つ叉になっておりまして、かたへは新利根大利根の流れにて、折しも空はどんよりと雨もよう、幽かに見ゆる田舎家の盆燈籠の火もはや消えなんとし"(怪談牡丹燈籠) |
権現堂川 |
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2008 |
栗橋 |
くりはし |
牡丹, 伊香保, 孝子, 上野 など (他 東京5件) 全12件5題 |
久喜市栗橋中央など |
旧北葛飾郡栗橋町.日光街道栗橋宿.駅前に静御前の墓がある.近年頑丈な鞘堂に入れられてしまった.「牡丹燈籠 栗橋宿」,お露の幽霊から金をせしめた伴蔵が,栗橋に引っ込み,荒物屋を開く.
"伴蔵おみねはこれをしおに、何分怖くて居られぬとて、栗橋在は伴蔵の生まれ故郷のことなれば、中仙道栗橋へ引越しました"(怪談牡丹燈籠) |
静御前墓 |
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2023 |
榎木戸(三郷) |
えのきど |
八景 全1件1題 |
三郷市か |
流山への渡しの手前という.不明.
"千住へ出て、榎木戸から流山へ出て、流山から野中へ往って"(八景隅田川) |
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川越 |
かわごえ |
初島 (他 東京39件) 全41件20題 |
川越市 |
登場のほとんどが東京落語で,川越の芋(「大工調べ」),「宿屋の仇討」,「猫の茶碗」の用例.川越城内に位置する三芳野神社は,童謡"通りゃんせ"に歌われる天神様の細道のモデルと言われる.三遊亭圓生(6)には,『通りゃんせ−天神さまへの道』(KABA書房 (1981))と題するレアな絵本がある.
"それから武州の岩槻、川越と打ちまわして、だんだんに相模近く来て、箱根を打ちこし、翌日は府中で初日という"(敵討霞初島) |
三芳野神社参道 |
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2011 |
所沢 |
ところざわ |
雪月花 (他 東京6件) 全7件2題 |
所沢市 |
落語の方でも,将棋指しの"所沢の藤吉"の用例がある.福泉藤吉(天保8年没)と大矢東吉(明治25年没)の2人が知られている.所沢は高層マンションが林立して,古い町並みを駆逐している.写真の商家は軒先を銅張りにした独特のつくり.
"所沢の藤吉さんの親類だそうで。道理で昨夜あいつは娼妓倒しにした"(雪月花一題ばなし−夜桜) |
所沢の商家 |
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2011 |
扇町屋 |
おうぎまちや |
熱海 (他 東京2件) 全3件2題 |
入間市扇町屋 |
日光脇往還と青梅街道の結節点.八王子の先として登場する.神奈川県の橋本とはかなり離れている.扇町屋3-3に道標2基と地蔵がある.
"八王子先扇町屋まで御用があって参り、遅くなりまして、橋本へ泊まろうというので参ったのでございます"(熱海土産温泉利書) |
上町道標 |
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1998 |
入間郡 |
いるまぐん |
今朝春三組盃 全1件1題 |
入間郡 |
圓朝原作には出てこない.
"自体女のいゝところへ、入間郡の水がしみ"(今朝春三組盃) |
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飯能 |
はんのう |
多助 (他 東京3件) 全4件3題 |
飯能市 |
青梅飯能で産した紬の用例.天覧山の名は,1883年に明治天皇が陸軍演習を閲兵指揮したことに由来する.
"きたない着物は南部でできた表に、青梅飯能辺でできました裏を付けますと一対の夫婦で"(塩原多助一代記) |
天覧山より飯能市街を望む |
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1998 |
秩父 |
ちちぶ |
熱海, 皿山, 多助, 太助伝 (他 東京6件) 全9件9題 |
秩父市 |
秩父地方,秩父市街,秩父銘仙の用例.秩父から甲府へ抜けるのは,雁坂峠越えになろう.6基の曳山屋台が巡行する秩父夜祭は12月3日に行われる.秩父まつり会館に屋台が展示されている.
"うん成程、秩父へ出て。それからこ甲府へ逃げたんで。秩父越しをいたして甲府の方へ八州が追っかけたのか"(菊模様皿山奇談) |
秩父夜祭 屋台 |
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1999 |