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中央区   
「どォ…れ……はい、おいで、いずれから?」
「浮世小路の百川から参(めえ)りまして……」
「おゥおゥ、百川から」
「魚河岸(かし)の若(わけ)え方が、今朝がけに四、五人来(き)られやして、先生にちょッくらおいでを願(ねげ)えてえちうでがす」
 (三遊亭圓生(6) 「百川」)
  飯島友治編,『古典落語』 第二巻,筑摩書房(1968)

地点名 この1題・登場回数 位 置 備 考 写真と撮影年
浅草見付 あさくさみつけ 業平文治漂流奇談(角川円朝3:02) など 25件11題 (圓朝4件, 東京21件) 中央区日本橋馬喰町2 → 北村辞典.浅草橋南詰にあった江戸城三十六見付の一つ.浅草橋北西詰に碑しか残っていない.頻出する地名だが,「業平文治」との喧嘩で,向こう見ずの亥太郎が浅草見附の武具を奪う豪放な場面が印象に残る.
"ただいま見附はございませんが、その頃は立派なもので、見張所には幕を張り、鉄砲が十挺、鎗が十本ぐらい立て並べてありまして"(業平文治漂流奇談)
浅草見附跡碑 2021
裏河岸 うらがし お藤松五郎(青圓生05:05) など 24件9題 (圓朝1件, 東京23件) 中央区東日本橋2 → 北村辞典.柳橋の西,下柳原同朋町の日本橋川沿いのこと.船宿や芸者置屋が多く,まさに「お藤松五郎」や「船徳」の世界.
"年が十九、両国の裏河岸におっかさんとふたァり、世帯を持っております"(お藤松五郎)
神田浜町日本橋北之図(尾張屋板江戸切絵図) 2020
広小路(両国) ひろこうじ 一眼国(青正蔵1:01) など 50件21題 (圓朝3件, 東京47件) 中央区東日本橋2 → 北村辞典.両国橋の東西の火除地.特に西側は水茶屋,見世物小屋(一眼国)などが立ち並ぶ繁華街だった.両国の夕涼み,軒を並べし茶屋の数,団扇店揚弓場,そのほか数多の諸あきんど,川の中ではスケテン馬鹿囃子,うろうろ舟に影芝居(大津絵両国).
"江戸の時分には、両国の広小路、これが随一の盛り場所"(一眼国)
両国広小路碑 2021
西両国 にしりょうごく 鬼娘(文芸倶楽部, 26(2) (1920))など 中央区東日本橋2 両国は両国橋東西のことではあるが,どちらかというと両国橋の西側を指した.戦後の落語速記でも,両国とだけ出てくる用例が224件に対して,西両国とあるのは2件に過ぎない.一方,橋の東側を向こう両国とした例は27件ある.つまり,墨田区側は,向こう両国と示して特定したことになる.「鬼娘」は,慶応年間に流行った見世物で,振袖を着た娘が振り向くと鬼の顔かたちをしていた.この前半部は,「両国八景」と呼ばれる噺で,水茶屋,掛け小屋芝居,豆蔵,砂文字,大道講釈などのにぎわいが描かれる.
"是が有名の両国の並び茶屋や、芝居は東両国に垢離場、又西両国には村右衛門の芝居"(鬼娘)
両国の雑踏(江戸東京博物館) 2021
両国橋 りょうごくばし たがや(講明治大正4:16) など 139件57題 (圓朝7件, 東京132件) 中央区東日本橋2〜両国1 → 北村辞典.武蔵国と下総国を結ぶので両国橋とは耳タコのトリビア.現在の両国橋よりはやや下流に架かっていた.鋳掛松が,熱暑の橋の上から荷を投げ捨てる.川開きの人混みの中,橋の上でたが屋の首が飛ぶ.煤竹かついだ大高源吾は其角と出会う.♪笹や笹々笹や笹 笹はいらぬか煤竹を.日の恩や忽ちくだく厚氷(大高源吾).句碑は東南詰に立っている.明治の鉄橋は,南高橋に移設されて現存する.
"両国橋手前へやってきまして、あッ、いけねえ、川開きだ、えれえことをしちゃったなァ"(たがや)
南高橋 2006
四ツ目屋 よつめや 四ッ目屋(立艶笑文庫2:05) など 4件4題 (東京4件) 中央区東日本橋2-13 → 北村辞典.米沢町にあった性具・媚薬店.張り形の小噺や,長命丸(子ほめ)など.思いつくまま,兜形,りんの玉,帆柱丸,女悦丸...四ツ目の紋が目印.
"よく流行っておりましたのが、「四ッ目屋」で(中略)俗に"薬研堀の四ッ目屋""(四ッ目屋)
     
鳥安 とりやす 欲しい物覚帳(講明治大正4:05) 1件1題 (東京1件) 中央区東日本橋2-11 → 北村辞典.合鴨のすき焼き一品で売る鳥料理店.明治5年の創業で盛業中.いかにも老舗然とした建物は建てかえられた.「気養い」に食べたつもり飲んだつもりだったが,ついに訪問した.割り下で煮るすき焼きではなく,鋳物の鍋で合鴨のいろいろな部位を焼くように調理する.店の入口脇に百本杭(墨田区)の朽ち木が飾ってある.
"焼鳥はどうも米沢町の鳥安に限るね"(欲しい物覚帳)
鳥安 合鴨のすき焼き 2007
薬研堀 やげんぼり 紫檀楼古木(講明治大正3:31) など 19件14題 (圓朝2件, 東京17件) 中央区東日本橋1,2 → 北村辞典.両国橋南にあった矢之御蔵への堀割.お不動さんと七色唐辛子に名を残す.今もやげん堀の七味のお店がある.薬研堀不動の狭い境内には,講談発祥記念之碑が見つかる.安政年間に建てられ,震災で失われた「太平記場起原之碑」を寺と講談協会が1984年に建て直したとある.
"通り掛かりました両国薬研堀。左側をちょいと見ますと茅葺門の極小さな門が側(かたはら)にあつて"(紫檀楼古木)
講談発祥記念之碑 2009
生稲 いくいね 月謡荻江一節(角川円朝5:03) など 2件2題 (圓朝1件, 東京1件) 中央区東日本橋1-11 → 北村辞典.隅田川沿い,矢の倉(「たぬき娘」など)にあった料亭.東日本橋のビル内で営業していたが,生心庵として千代田区猿楽町に移転した.パリの万国博覧会にも出店したと言っていた.
"深川八幡の裏門通りコチ屋と申して芸人などが御膳を食べる粋な料理屋で、只今なら生稲というような"(月謡荻江一節)
生稲(矢の倉) 1987
郡代屋敷 ぐんだいやしき 田舎芝居(講明治大正5:15) など 3件3題 (東京3件) 中央区日本橋馬喰町12 → 北村辞典.関東郡代の伊奈家の役宅.関八州の天領を支配した.文化3(1806)年以降,郡代制が廃され,馬喰町御用屋敷が正式名称となる.浅草橋の南西詰に銘板がある.
"関八州にて芝居をすると、ことごとく召し捕りになって(中略)馬喰町の郡代屋敷からみんな貰い下げたものでござります"(田舎芝居)
郡代屋敷銘板 2011
馬喰町 ばくろちょう お神酒徳利(青圓生08:02) など 65件34題 (圓朝8件, 東京57件) 中央区日本橋馬喰町1,2 → 北村辞典.町内に初音の馬場があり,大きな火の見櫓がシンボルだった.旅籠がならんでおり公事,商用,遊山に利用された.「宿屋の富」「勘定板」「よいよいそば」「塩原多助」に,「御神酒徳利」の苅豆屋もここにあった.
"馬喰町三丁目に、刈豆屋吉左衛門という旅籠屋がございます"(お神酒徳利)
馬喰町火の見模型 2018
鍵屋 かぎや たが屋(三一談志1:09) など 26件5題 (圓朝1件, 東京25件) 中央区日本橋横山町 → 北村辞典.江戸の花火の草分け.江戸川区東小松川2に移転して,事務所が現存する.♪上がる流星ほし下り 玉屋が取持つ縁かいな.玉屋のかけ声の方が人気が上.なぜか鍵屋と呼ばぬ錠なし.
"お稲荷様のお使い姫がご存じのお狐様だ。その狐が鍵を持っているところから、屋号を鍵屋にしたという"(たが屋)
鍵屋の半纏 2021
橘町 たちばなちょう 三井の大黒(青三木助:09) など 31件12題 (圓朝3件, 東京28件) 中央区日本橋3 → 北村辞典.流れ者の甚五郎を預かる棟梁の家が橘町に設定される.「山崎屋」の店もここ.甚五郎の大黒は三井家に秘蔵されるという話も読んだことがある.
"八丁堀から橘町といいますと目と鼻というほどじゃァありませんが、男の足で少ゥし急ぎゃァ訳ァありません"(三井の大黒)
神田浜町日本橋北之図(尾張屋板江戸切絵図) 2020
伝馬町の牢 てんまちょうのろう 後の業平文治(角川円朝3:03) など 15件11題 (圓朝7件, 東京8件) 中央区日本橋小伝馬町 → 北村辞典.石出帯刀役宅.伝馬町の牢屋敷.身分によって異なる牢があった.明治に入り市ヶ谷の監獄(別項)へ移転した.今は十思公園内にある処刑された吉田松陰碑や,隣接して身延別院,大安楽寺などの寺院がある.
"友之助の罪状がきまって、小伝馬町の牢屋の裏門を立ち出で、大門通から江戸橋へ掛かってまいりました"(後の業平文治)
伝馬町の牢あと吉田松陰碑 2008
田所町 たどころちょう 明烏(立文楽1:01) など 17件5題 (東京17件) 中央区日本橋堀留町2 → 北村辞典.「明烏」の日向屋時次郎の店がここに設定される.堀留の東,長谷川町の北になる.呉服問屋が多かった.すぐ北の通旅籠町には,「蛙茶番」のふんどしをあつらえた大丸呉服店があった.
"あたくしは、田所町三丁目の日向屋半兵衛の伜、時次郎と申します"(明烏)
神田浜町日本橋北之図(尾張屋板江戸切絵図) 2020
和田平 わだへい 王子の狐(立名人名演03:19) など 4件3題 (東京4件) 中央区日本橋堀留町2 → 北村辞典.田所町にあった鰻店.はるか以前に閉店していたが,直系の和田安がその名を継いで,新宿ヒルトンホテル地下の本店などで営業中.鰻重の蓋に"創業百余年"とあるのは,こちらが明治18年創業ということなのだろう.講談の「寛永三馬術」にも,登場人物の度々平の洒落で出てくる.
"霊岸島の"大黒屋"、明神下の"神田川"または"和田平""(王子の狐)
和田平新宿店 2010
椙森稲荷 すぎのもりいなり 宿屋の富(講昭和戦前5:21) など 14件4題 (東京14件) 中央区日本橋堀留町1-4 椙森神社.富興行が行われ,「宿屋の富」や「富久」などで登場する.境内に富塚がある.椙森新道は神社の南側で,「髪結新三」の白子屋の店がここ.
"ちょうど正午の刻にこの札を突きます。杉の森のお稲荷様で"(宿屋の富)
椙森神社富塚 2006
長谷川町 はせがわちょう 天災(講昭和戦前6:02) など 46件9題 (圓朝2件, 東京44件) 中央区日本橋堀留町2 → 北村辞典.長谷川町には,「天災」の紅羅坊名丸先生と「派手彦」の坂東お彦の稽古場がある.三光新道は長谷川町の内.
"長谷川町の新道に紅羅坊名丸という心学の先生、そこへ行って話を聞いてきたら、いくらか心が柔らかになるだろう"(天災)
神田浜町日本橋北之図(尾張屋板江戸切絵図) 2020
三光新道 さんこうじんみち 百川(青圓生04:05) など 11件2題 (東京11件) 中央区日本橋堀留町2-1 → 北村辞典.ご存知「百川」の歌女文字先生のお住まい.今でも三光稲荷(木の葉狐)と東西両入口のレトロな看板は健在.路地の片側がビルに建て直され,だいぶ広々とした雰囲気になってしまった.
"長谷川町の三光新道に常磐津の歌女文字ッてのがあるから、そいつを呼んでこい"(百川)
三光新道 2009
玄冶店 げんやだな お富・与三郎“稲荷堀の雨”(旺国馬生2:11) など 17件13題 (東京17件) 中央区日本橋人形町2 → 北村辞典.御典医の岡本玄冶の拝領地に由来する路地.「切られ与三」,源氏店妾宅の場."しがねえ恋の情けが仇","粋な黒塀見越しの松に".玄冶店由来碑が立っている.背後の老舗陶器店がパン屋になっちゃぁ締まらない.と書いたのだが,今はもっと悲惨な状況.傘立ての台に使われてしまい,郷土愛のかけらも感じられない.
"ふたり共生死の間をくぐって、玄治店でもって再会を致しまして"(お富・与三郎“稲荷堀の雨”)
玄冶店碑 2012
末広亭 すえひろてい 武士の情(青圓生07:06) など 5件5題 (東京5件) 中央区日本橋人形町3 人形町末広.人形町にあった畳敷きの寄席.六代目圓生が,ここの独演会でネタおろしを続けた.日本橋の夜間人口の減少などにより,1970年に廃業した.記念碑がビルの片隅,床面に埋め込まれている.
"日本橋の人形町でございますが、末広亭という寄席(せき)がございまして"(武士の情)
寄席 人形町末広跡碑 2009
うぶけ屋 うぶけや 首提灯(桂枝雀爆笑コレクション, 筑摩書房(2006)) 中央区日本橋人形町3-9 木造の店構えもゆかしい刃物店.うぶ毛も抜ける毛抜き,うぶ毛も剃れるカミソリが評判を呼んだ.
"本家うぶけ屋のんでっさかい、痛いことござりません"(首提灯)
うぶけやの毛抜き 2006
笹巻 ささまき 封文小堀水茎(やまと新聞 付録 (1894)) 中央区人形町2 笹巻き毛抜き寿司の発祥は,元禄年間,竈河岸だった.笹巻けぬきすし(小川町2-12)は,江戸でもっとも古い寿司屋になる.竈河岸の笹巻きは,明治年間の文章にも登場する.小川町に移った今も,江戸前の味を守っており,塩と酢の強く効いた鮨を笹で巻いてある.久々に試したら,随分食べやすく感じたが,それでも類いまれな味わい.
"竈河岸で笹巻を買て来て呉んねへ、二重ばかり詰めて貰つてなア"(封文小堀水茎)
笹巻けぬきすし 2006
人形町 にんぎょうちょう くしゃみ講釈(三一上方2:30) など 44件25題 (東京39件, 上方5件) 中央区日本橋人形町 → 北村辞典.人形町通り.操り芝居の人形師が住んでいたことからついたとされる.操り人形にクジラのヒゲが使われたことから,人形町1-6にクジラのモニュメントが置かれている.1933年に人形町という町名ができた.からくり櫓は,1時間に1回,落語家の人形が現れて解説をはじめると,棒手振りや浜町芸者が動き出す.
"見る影姿が人形町ホイ、今日で命が尾張町"(くしゃみ講釈)
人形町からくり櫓 2021
かねまん かねまん らくだ(落語のいき, 小学館 (2009)) 中央区日本橋人形町1-16 東京で最初のふぐ料理店という.八代目文楽がひいきにして,若き円鏡(橘家圓蔵(9))が使いに行ったというマクラ.売り物はトラフグだが,夏場はショウサイフグのさい鍋を供する.「梅若礼三郎」で,水垢離をとった後の茶屋酒の場面で出てくる江戸前のふぐ.山盛りの白髪ネギの下に野菜,豆腐とふぐ.甘めの醤油だしでさっと煮る.
"たけっ、人形町のかねまんへ行ってな、河豚買ってこい"(らくだ)
かねまんのさい鍋 2011
葺屋町 ふきやちょう 淀五郎(講昭和戦前6:26) など 28件11題 (圓朝3件, 東京25件) 中央区日本橋人形町3 → 北村辞典.江戸歌舞伎市村座があった.隣の堺町の中村座とともに天保期に猿若町へ移転した.「五人廻し」では,旧吉原の説明で出てくる.寄席大ろじ(今戸の狐)もあった.
"太鼓の打出し、人がぞろぞろぞろぞろ。ヒョイと気が付いて見ると、その頃葺屋町に市村座というのがある"(淀五郎)
神田浜町日本橋北之図(尾張屋板江戸切絵図) 2020
中村座 なかむらざ 月謡荻江一節(角川円朝5:03) など 15件4題 (圓朝2件, 東京13件) 中央区日本橋人形町3 → 北村辞典.堺町にあった芝居小屋.天保12年に焼失し,翌年猿若町に移った.初代の「中村仲蔵」は定九郎の役を工夫し,「淀五郎」に忠臣蔵の判官切腹の指導をする.
"堺町の中村座で由良之助を沢村長十郎がいたしました"(月謡荻江一節)
中村座(江戸東京博物館) 2021
葭町 よしちょう 親子茶屋(創元米朝2:06) など 74件41題 (圓朝13件, 東京59件, 上方2件) 中央区日本橋人形町2,3 → 北村辞典.堀江六軒町.芳町と書く例も多い.芸者ばかりでなく,陰間茶屋で有名だった.「親子茶屋」では,残念だが堅物親父では若衆に身を沈められない.千束屋(「百川」「化物使い」など)は葭町に実在した桂庵.
"わしの体を一時、芳町か柳橋……買いますか、これ"(親子茶屋)
神田浜町日本橋北之図(尾張屋板江戸切絵図) 2020
元吉原 もとよしわら 五人廻し(講明治大正7:46) など 16件8題 (圓朝2件, 東京14件) 中央区日本橋人形町2, 3,日本橋富沢町あたり 元和3(1617)年,おせっかいの庄司甚右衛門が幕府に願って葭原改め吉原を開いたは,「五人廻し」の兄いの御託.落語の舞台となるのは,もっぱら新吉原.元吉原を示す銘板が人形町通り,甘酒横丁そばに建てられている.庄司甚右衛門の墓は深川雲光院にある.
"もとは一面の葭茅繁つた原だといふので葭原といつたのを、縁起商売だからてえんで吉源(きちげん)と書いて吉原と読ましたんだ"(五人廻し)
庄司甚右衛門墓 2011
久松町警察 ひさまつちょうけいさつ たぬき娘(講明治大正5:38) など 2件2題 (東京2件) 中央区日本橋久松町 1874年に創立した日本で最も古い警察署の一つ.手前の碑は,"小川橋の由来"と題する.ピストル強盗清水定吉を捕縛して亡くなった,久松警察署小川巡査にちなむもの.ピストル強盗は「転宅」に出てくる.用例の「たぬき娘」は,タヌキとあだ名された圓左の創作.芝居で出会った娘が,実は食わせ者の狸娘だった.
"今ねヱ彼の女があげられました、久松町警察へ"(たぬき娘)
小川橋の由来碑と久松警察署 2009
間部河岸 まなべがし 夢金(青圓生07:08) など 9件2題 (東京9件) 中央区東日本橋1,2,日本橋浜町1,2 → 北村辞典.新大橋−両国橋間の大川右岸.侍を中洲(別項)に置き去りにして,欲の熊蔵は間部河岸に船をつける.助けた娘の商家は本町に設定される.
"船を間部の河岸へつけて、お嬢さまのうちを聞いてみると、本町へん"(夢金)
間部河岸あたり 2011
明治座 めいじざ 武助馬(講明治大正4:22) など 15件8題 (圓朝1件, 東京14件) 中央区日本橋浜町2-31 → 北村辞典.明治6(1873)年,喜昇座として久松町に開場した劇場.1885年に千歳座となる.千歳座は,「黄薔薇」や「王子の幇間」などに登場する.1893年に明治座と改称する.現在地とやや場所が違っているが,歌舞伎,新国劇,新派,俳優座長の公演などのお芝居がかかった.敷地の東南角に笠間稲荷社が祀られている.
"明治座とかいう大劇場などには、七日なれば七日の稽古という者がある"(武助馬)
明治座笠間稲荷 2011
清正公(浜町) せいしょうこう 清正公酒屋(三一談志1:04) など 8件3題 (東京8件) 中央区浜町2-59 → 北村辞典.浜町の清正公さま.肥後熊本細川越中守の屋敷内にあった.浜町公園に食い込むように清正公寺として現存する.「清正公酒屋」ではここに祈願して,子供を授かった.
"すぐに浜町へ人をやり、熊本へもはるばる代参を立てるという始末だ"(清正公酒屋)
浜町の清正公 2006
浜町 はまちょう 世辞屋(角川円朝4:32) など 45件24題 (圓朝9件, 東京36件) 中央区日本橋浜町1〜3 → 北村辞典.大川端の武家地が明治に入り浜町となる.待合や妾宅で登場する.今は,料亭らしい料亭は,人形町駅そばの濱田家一軒になってしまった.1887年,芸妓から待合の主人となった花井お梅が,箱屋の峯吉を殺した事件は,映画化や劇化されている.♪浮いた浮いたと浜町河岸に(明治一代女).
"アノ私はね、浜町の待合茶屋でございますがね、何うも私は生まれつきお世辞がないんですよ"(世辞屋)
料亭濱田家 2021
新大橋 しんおおはし 縁切榎(角川円朝4:05) など 35件18題 (圓朝5件, 東京30件) 中央区日本橋浜町〜江東区新大橋 → 北村辞典.元禄6(1694)年に架けられた隅田川で3番目に古い橋.大橋(両国橋)に対して新大橋と名づけられた.今の橋よりも200m以上南の位置にあたる.鉄橋時代の銘板が江東区の八名川小学校に,橋の一部が明治村に保存されている.
"これから大橋を渡って西六間堀の秋葉の原へはいると、ずうっと板塀になっております"(縁切榎)
新大橋(明治村) 2006
三ツ俣 みつまた 反魂香(青正蔵1:10) など 5件3題 (東京5件) 中央区日本橋中洲あたり → 北村辞典.箱崎の中洲あたりで,大川が二手に分流する.月の名所.仙台伊達公,高尾太夫を三ツ股でつるし斬りにした.高尾稲荷は日本橋箱崎町10にあり,流れ着いた高尾の? しゃりこうべがご神体.
"拙者に操を立っていて威に従わん……それがもとで、三股川で、ついにお手打ちにあいなった"(反魂香)
高尾稲荷 2006
水天宮(日本橋) すいてんぐう 安産(講明治大正6:40) など 29件19題 (東京29件) 中央区日本橋蛎殻町2-4 → 北村辞典.安徳天皇,建礼門院,二位の尼が御祭神.水難転じて安産の神様.今も,安産の祈願し,腹帯を求める人たちで賑わっている.芝赤羽久留米藩の屋敷神だった水天宮(おかめ団子)が,明治5(1872)年,人形町の地に移転してきた.
"水天宮様戌の年戌の月戌の日の御札"(安産)
水天宮 2006
思案橋 しあんばし 橋の結婚(講明治大正6:26) など 2件2題 (東京2件) 中央区日本橋小網町 → 北村辞典.川は東堀留川.元吉原へ行こか戻ろか,思案をしたことによる.何も残っていない.
"私は考えておるわけで、思案橋でございます"(橋の結婚)
神田浜町日本橋北之図(尾張屋板江戸切絵図) 2020
親父橋 おやじばし 髪結新三(中公圓生2:05) など 12件8題 (東京12件) 中央区日本橋小網町 → 北村辞典.小網町の北,東堀留川に架かっていた.元吉原をひらいた庄司甚内が"親父"だという.親父橋交番が最近まであった.
"人形町から曲ったところには親父橋"(髪結新三)
神田浜町日本橋北之図(尾張屋板江戸切絵図) 2020
照降町 てりふりちょう 坊主の遊び(弘文志ん生3:03) など 10件7題 (圓朝3件, 東京7件) 中央区日本橋小舟町,日本橋小網町 → 北村辞典.別項,荒布橋と親父橋の間の俗称.傘屋と下駄屋が並んでいて,"照れ"振れ"と言い合っていたことからついたという.「坊主の遊び」で剃刀をあつらえたのは,名古屋という打刃物屋.照降町に実在した.
"雨の降ってるときにいるような物と、天気のときに履く物があって、あすこを照降町ってえますがねェ"(坊主の遊び)
神田浜町日本橋北之図(尾張屋板江戸切絵図) 2020
猿屋(楊子) さるや 猿後家(三一上方1:01) など 3件1題 (上方3件) 中央区日本橋小網町18 さるや.小網町の房楊枝屋.宝永元(1704)年の創業.いまも黒文字を扱っている.さる後家さんのお店では出入り禁止とか.
"この小楊子はどこのじゃとおっしゃったら、東京の猿屋といいかけた"(猿後家)
さるやの楊枝 2006
荒布橋 あらめばし 月謡荻江一節(角川円朝5:03) など 3件3題 (圓朝1件, 東京2件) 中央区日本橋本町1〜日本橋小舟町 → 北村辞典.おもしろい名の橋なので,橋づくしにも登場する.海藻を商ったことに由来するという.川は西堀留川で,江戸橋北詰そば.堀も橋もない.
"住吉町から逃げ出して照降町へ掛かって、荒布橋へかかりますと"(月謡荻江一節)
神田浜町日本橋北之図(尾張屋板江戸切絵図) 2020
按針町 あんじんちょう 死神 (別オチ)(柳家小満ん口演用「てきすと」 7, てきすとの会 (2015)) 中央区日本橋本町1,室町1 三浦按針ことウイリアムス・アダムスが屋敷を拝領したことによる町名.日本橋北詰を東に行ったあたりになる.宝石店の店先に,三浦按針屋敷跡碑が立っており,今も按針通りの名が残っている.三浦按針は,徳川家康に迎えられ,二代秀忠の通商顧問となった.夫妻の墓は相模国の安針塚にある.石燈籠もそこにあったもの.
"あたくしは日本橋按針町の越前屋四郎兵衛と申します、紙問屋の若い者で厶います"(死神 (別オチ))
安針町銘の石燈籠 2016
弁松 べんまつ 子別れ(講明治大正7:50) など 10件3題 (東京10件) 中央区日本橋本町2-4 → 北村辞典.弁当,仕出しの老舗.嘉永3(1780)年,魚河岸そば按針町で創業した.現在は本店が本町に移り,デパートにも売り場がある.江戸前の甘く濃い味付け.「赤飯の女郎買い」の折詰の中身(きんとん,蒲鉾,卵焼き,信田巻,甘煮)が,今でもそのままだった.
"折は弁松の弁当と来てらア、大家は違ったもんだなア"(子別れ)
弁松の折詰 2006
宝田恵比寿神社 たからだえびすじんじゃ 蛙茶番(柳家小満ん口演用「てきすと」 27, てきすとの会 (2018)) 日本橋本町3-10 日本橋七福神の一つ,運慶作と伝える恵比寿神を祀る.かつて江戸城宝田村に鎮座し,宝田村の総鎮守だった.10月にべったら市が盛大に開かれる.
"今でも日本橋の、宝田恵比寿神社周辺には、このべったら市が立ちまして("(蛙茶番)
宝田恵比寿神社 2020
石町新道 こくちょうじんみち 神仏論(講明治大正4:38) など 2件2題 (東京2件) 中央区日本橋室町4, 日本橋本町4 → 北村辞典.室町4丁目を東に入る新道.時の鐘があったため,鐘つき堂新道の名がついていた.鐘は伝馬町牢跡の十思公園に移設して保存されている.石町の鐘はオランダまで聞こえ.隣接した外国人用宿泊所の長崎屋のうがち.
"新刀と古刀のめききのできる、石町の新道に骨董道具の商売をしております"(神仏論)
石町の鐘つき堂新道銘板 2020
石町の鐘 こくちょうのかね 仇娘好八丈(新日本古典文学大系明治編 7, 岩波書店 (2006))など 中央区日本橋室町4, 日本橋本町4 本石町三丁目にあった時の鐘.二代将軍秀忠の時代,寛永3年に設置されたと言われる.昭和になって,十思公園(日本橋小伝馬町5)に移設されている.官設の時の鐘は,江戸市内の各所にあった.今見ることができるのは,この石町や浅草弁天山,新宿天龍寺だろう.今聞けるのは,上野寛永寺の時の鐘になる.
"当人がのろけて居ります内に 石町の八ツの鐘がボーンと聞える"(仇娘好八丈)
石町の鐘 2020
白旗稲荷 しらはたいなり 木の葉狐(立名人名演07:02) など 2件2題 (圓朝1件, 東京1件) 中央区日本橋本石町 → 北村辞典.「橋の結婚」に出てくる乞食橋(白旗橋)の南詰にあった.北村辞典では失われたとあるが,本石町4-5に,日本橋本石町町内会館とともにある.
"今川橋の白旗稲荷へまいりまして、それから人形町の三光稲荷へまいりまして、深川万年橋の柾木稲荷へまいりまして"(木の葉狐)
白旗稲荷 2010
本町 ほんちょう 鰍沢雪の夜噺(角川円朝7:08) など 91件37題 (圓朝5件, 東京84件, 上方2件) 中央区日本橋本石町,室町,本町 → 北村辞典.北から本銀町,本石町,本町,室町(むろまち)がほぼ南北に並ぶ.住居表示後は西から本石町,室町,本町で,全く対応していないので紛らわしい.本町は薬種問屋街で,今も製薬会社が多く見られる.「鰍沢」の伝三郎,赤螺屋や「帯久」のお店,「皿屋」の若旦那,「三軒長屋」の寄合が開かれた亀の尾などなど.
"相手は本町の薬屋の息子さんで、二人とも助かりまして品川溜へ預けられて"(鰍沢雪の夜噺)
神田浜町日本橋北之図(尾張屋板江戸切絵図) 2020
鰯屋 いわしや 昔の詐偽(講明治大正4:25) 1件1題 (東京1件) 中央区 → 北村辞典.本町の薬問屋.「人参騙り」という鰯屋を騙った詐欺の噺.本郷2-39に医療機器製造販売として屋号が受け継がれている.
"本町の鰯屋の若い者でございます"(昔の詐偽)
本郷いわしや 2006
十軒店 じっけんだな 人形買い(青圓生10:01) など 17件14題 (圓朝1件, 東京16件) 中央区日本橋室町3,4 → 北村辞典.十軒店には人形店が軒を並べていた.写真は,最後まで残っていた1軒.「人形買い」に行くのは十軒店だが,「道具屋」の首の抜けるお雛さまはこことは限らない.
"ふたァりで十軒店ィ来る。人形屋の店が、ずらッと並んでおりまして、それぞれ景気をつけている"(人形買い)
十軒店人形店 1987
亀の尾 かめのお 三軒長屋(講明治大正3:16) など 16件3題 (圓朝1件, 東京15件) 中央区日本橋室町2 → 北村辞典.「三軒長屋」で鳶頭の寄り合いが開かれた貸席.浮世小路の百川は,この近く.
"何処へ往きました。亀の尾の寄合からまだ帰つて来ねエんですか"(三軒長屋)
     
浮世小路 うきよこうじ 百川(講明治大正6:07) など 19件4題 (東京19件) 中央区日本橋室町2 → 北村辞典.「百川」の店があった.中央通りから室町2丁目を東に入る路地がほぼそれ.東京の「菊江仏壇」でも,大阪と同じ浮世小路を採用している.
"浮世小路に百川という料理屋を出しました"(百川)
神田浜町日本橋北之図(尾張屋板江戸切絵図) 2020
福徳稲荷 ふくとくいなり 百川(青圓生04:05) など 2件1題 (東京2件) 中央区日本橋室町2-5あたり → 北村辞典.「百川」の店舗の説明.浮世小路の奥,鰹節の老舗にんべんのそば.倉稲魂命を祀る福徳神社が,日本橋室町2-4のビル屋上にあったが,2014年にビルの中の森のような社殿に建てかえられた.
"名倉屋という旅館がございますが、福徳稲荷という、そばにお稲荷様がありました。ま、その辺が、昔百川のあった跡だということをうかがいました"(百川)
福徳神社 2020
越後屋 えちごや 大黒(講明治大正2:23) など 11件9題 (圓朝1件, 東京10件) 中央区日本橋室町1 → 北村辞典.駿河町の三井呉服店.現金掛値なしがキャッチフレーズだった.現在の三越百貨店(三越伊勢丹ホールディングス).甚五郎に大黒様をあつらえた.写真は,2006年に期間限定で設けられた越後屋を模した情報ステーション.
"先年主人八郎右衛門が御目にかゝりし節、御手附金を差上げ願い置きましたる大黒"(大黒)
三井越後屋ステーション 2006
一石橋 いちこくばし 十徳(弘文柳枝:16) など 5件3題 (東京5件) 中央区日本橋本石町1〜八重洲1 → 北村辞典.橋のそばに金座の後藤と呉服所の後藤が住んでいた.五斗と五斗で一石というしゃれ.如く如くなら「十徳」.常盤橋,日本橋,江戸橋,呉服橋,鍛冶橋,銭瓶橋,道三橋と一石橋,合わせて7つの橋が見えることから,八つ見橋の別名がついている.南西詰めに,安政4年建の迷子知らせ石がある.一時期,無粋な金網で囲われていた.
"昔は一石橋というのではない。あれは八見橋という"(十徳)
一石橋迷子知らせ石 2020
日本橋(橋) にほんばし 紫檀楼古木(講明治大正3:31) など 15件11題 (東京15件) 中央区日本橋室町1〜日本橋1 → 北村辞典.川は日本橋川.南西詰めには高札場跡がある.頭上を覆う高速道路にかかる銘板は徳川慶喜の筆になる.車道の真ん中に道路元標が埋めこまれている.レプリカは橋詰に展示される.五街道,日本の道の原点でありながら最悪の景観.
"ちょうど日本橋のただ中に至りますと"(紫檀楼古木)
日本国道路元標 2009
魚河岸 うおがし 目黒のさんま(青圓生12:13) など 78件24題 (東京73件, 上方5件) 中央区日本橋室町1あたり → 北村辞典.日本橋下流北側にあった江戸の魚河岸.関東大震災で築地に移転した.「目黒のさんま」の秋刀魚の特注に,魚河岸連中は「百川」に今朝がけから寄り合いをする.記念の乙姫像は,北詰東側に静かに座っている.
"いずれから取り寄せた?日本橋魚河岸にござります"(目黒のさんま)
魚河岸乙姫像 2008
黒江屋 くろえや 片棒(騒人名作09:08) など 4件1題 (東京4件) 中央区日本橋1-2 元禄年間創業の老舗.紀州の黒江塗を扱うようになり,今は漆器専門店となっている.本町から幕末に日本橋に移転した.ショーウインドウに日本橋の擬宝珠を展示していた.用例にある"木屋"も,日本橋の漆器店だった.宮内庁御用達の漆器で精進落としをされたら,赤螺屋の主人も浮かばれまい.
"木屋か黒江屋へ誂えまして、本塗角切三組の重箱ですな"(片棒)
黒江屋蔵 日本橋擬宝珠 2009
栄太楼 えいたろう 霧陰伊香保湯煙(角川円朝2:02) など 3件3題 (圓朝1件, 東京2件) 中央区日本橋1-2 → 北村辞典.榮太樓総本舗.安政4(1857)年,日本橋西河岸で創業した.梅ぼ志飴などの榮太樓飴や,ワサビ餡の玉だれがオリジナル商品.梅ぼ志飴は梅干し味ではなく,"大火事あるべえ悟れ善兵衛"という小噺(読み違い,三遊亭圓左(1))に出てくる有平糖.用例のように,蒸し菓子(主なし)も扱っていたのか.
"あれはもう何もございませんよ、主は無い、主なしの榮太樓"(霧陰伊香保湯煙)
榮太樓飴 2009
西河岸地蔵 にしがしじぞう 比翼写真(新作落語十八番, 三芳屋 (1919)) 中央区八重洲1-2 日本橋の西,日本橋河畔南岸を西河岸と呼び,土蔵がならんでいた.ここに日限延命地蔵を祀る西河岸地蔵寺がある.泉鏡花の「日本橋」の登場人物,芸者のお千代を花柳章太郎が演じた際に奉納した図額を収める.
"一所に詣る西河岸のお地蔵様が縁結び"(比翼写真)
西河岸地蔵 2020
白木屋 しろきや 鼻利源兵衛(騒人名作02:01) など 14件10題 (圓朝2件, 東京12件) 中央区日本橋1-4 → 北村辞典.呉服商.東急百貨店の本店だったが,1999年に閉店した.白木屋火事(1932)でのズロースの一件は,ずいぶんと潤色されて聞かされた.考えてみれば,和装にノーパンは当たり前の気がする.フロア1階に,300年余り湧き続けた白木の名水があった.跡地はオフィスビル,COREDO日本橋(芯がないとはずいぶん皮肉なネーミング)になった.白木の名水をしのぶべくビル外に置かれた水辺もなくなってしまった.今は,殺風景なビルの裏手に写真の碑があるのみ.そこで,東急本店の写真を,ありし日の水辺の写真に差し替えた.
"日本橋通り一丁目の白木屋の筋向、奥行十三間、袖土蔵付で、奥から店まで百八十五畳敷けると云ふ大きな家が空いて居た"(鼻利源兵衛)
名水白木屋の井戸碑 2011
山本山 やまもとやま 長屋の花見(青小さん1:02) など 9件1題 (東京9件) 中央区日本橋2-5 元禄3(1690)年の創業の茶・海苔店.代々山本嘉兵衛を名のり,6代目は玉露を発明した.日本橋の目抜きの場所に本店がある."日本橋の山本"も山本山に合わせた.下から読んだら"まやともまや"だと,悪ガキは言い合ったもの.すぱみらすぱみらまやともまやこん.
"どこの酒がいいッたって、やっぱり日本橋の山本山"(長屋の花見)
山本山海苔屋の茶漬け 2011
中橋 なかばし 金明竹(青圓生13:01) など 58件17題 (圓朝4件, 東京54件) 中央区日本橋3,京橋1あたり → 北村辞典.京橋と日本橋の間にあった橋だが,早くに堀が埋められ,地域名として中橋の名が残っている.仲買い加賀屋佐吉(金明竹),医師尾台良玄(代脈),本屋の金蔵(品川心中),噺家三笑亭可楽(今戸の狐)の居所.
"私(わてエ)は、中橋の、加賀屋佐吉方から、使いに参じました者でございますがなア"(金明竹)
八丁堀霊岸嶋日本橋南之絵図(尾張屋板江戸切絵図) 2020
翁稲荷 おきないなり 蝦夷錦古郷之家土産(角川円朝3:09) など 2件2題 (圓朝1件, 東京1件) 中央区日本橋1 → 北村辞典.日本橋元四日市町,江戸橋広小路にあった稲荷.かつては非常に流行った神さまだという.日枝神社境内に明徳稲荷と合祀されている小社があるが,それだろう.
"深川三十三間堂の三右衛門、四日市翁稲荷のうしろに新四郎という者がおり"(蝦夷錦古郷之家土産)
翁稲荷 2006
海運橋 かいうんばし 心の眼(講明治大正5:13) など 2件2題 (東京2件) 中央区日本橋1-20〜日本橋兜町3 → 北村辞典.楓川(現在の首都高都心環状線)の,もっとも日本橋川寄りの橋.今,橋はない.別名の海賊橋(富久,三一談志1:18),将監橋は,海賊奉行向井将監の屋敷があったことによる.かなと漢字の海運橋柱が2本残っている.
"ここが海運橋だ(中略)盲人が渡ッても落ちないように手摺りができておりますナ"(心の眼)
海運橋碑 2006
坂本公園 さかもとこうえん 酢豆腐(講明治大正6:49) など 3件1題 (東京3件) 中央区日本橋兜町14 → 北村辞典.懐具合が馬鹿に寂しい喩えで登場する.1889年に開園した東京最初の市街地小公園.四阿もあった名園だが,震災,戦災で壊滅した.今でも坂本町公園として現存し,オフィス街の土地柄で,週末は閑散としている.
"何だい坂本公園てえのは。淋しいよ"(酢豆腐)
坂本町公園 2006
第一銀行 だいいちぎんこう 心眼(角川円朝4:04) など2件2題 (圓朝1件, 東京1件) 中央区日本橋兜町4あたり 海運橋東詰.橋のたもとの第一国立銀行は,絵葉書の題材になる.国立銀行といっても,日本銀行と違って,民間による経営.設立順にナンバーがつけられた.いまは,新潟の第四銀行が有名.第一国立銀行は,1873年の創立で,渋沢栄一が初代頭取を勤めた.後に第一銀行,第一勧業銀行,みずほ銀行と移り変わる.
"「へええ、あれは」「第一の銀行よ」「なるほど噂には聞いておりましたが、りっぱなもんですね」"(心眼)
銀行発祥の地銘板 2011
茅場町薬師 かやばちょうやくし 心眼(角川円朝4:04) など 18件6題 (圓朝2件, 東京16件) 中央区日本橋茅場町1-5 → 北村辞典.天台宗智泉院.神仏分離で日枝神社の裏手の別敷地になり,本尊薬師如来も川崎にあるという.「心眼」の梅喜が日参し,そのご利益で眼があく.境内に寄席の宮松(「名人くらべ」など)があった.天保12年の水盤だけが名残り.
"またいいお医者に出会うこともあろうから、夫婦で茅場町の薬師さまへ信心をして"(心眼)
茅場町の薬師境内 2006
福田会 ふくでんかい 三題話(百花園, 8-29 (1889-90)) 中央区日本橋茅場町1 1879(明治12)年,仏教諸宗派により,孤児や貧窮児童の養護を活動内容とする福田会育児院が設立された.宮家の支援があった.現在も,社会福祉法人として活動している.用例の三題噺では,寄付先に福田会の名があげられている.速記の時点の本拠は日本橋で,のちに広尾に移転している.福田会育児院諸霊塔は,湯島の麟祥院墓地で見つけた.
"初日の上り高を慈恵医院中日を福田会"(三題話:梅見・洋行・め組の喧嘩)
福田会育児院諸霊塔 2019
鎧橋 よろいばし 心眼(角川円朝4:04) など 12件8題 (圓朝3件, 東京9件) 中央区日本橋小網町〜日本橋茅場町1 → 北村辞典.日本橋川にかかり,兜町と小網町を結ぶ.現存.もとは鎧の渡(「名人くらべ」など)だった.兜に鎧はつきもの.
"あれは。橋だ、鎧橋というのだ。へええ立派な物ですねどうも"(心眼)
鎧橋 2009
小網町 こあみちょう 宮戸川(講明治大正1:48) など 27件12題 (圓朝5件, 東京22件) 中央区日本橋小網町 → 北村辞典.「宮戸川」の半七の家が小網町にある.霊岸島の叔父さんの家までは,駆けてゆけばすぐ.こぢんまりした小網稲荷(小網神社)が,小網町の名の由来になる.
"婆さんヤ、小網町の半七が来たよ"(宮戸川)
小網稲荷 2011
蛎殻町取引所 かきがらちょうとりひきじょ 辻八卦(新風現代:23) 1件1題 (東京1件) 中央区日本橋蛎殻町1-12 「辻八卦」で,八卦見が客の人相から職業を当てる.上方の演出では,蛎殻町の代わりに堂島の男になる.ソウバかすがあって,しゃくり顔が特徴.噺の取引所は,穀物や粗糖の先物取引を行う現在の東京穀物商品取引所のことだろう.道路の反対側に明治期の洋風建築の写真が掲げられている.初代頭取は,相場師の糸平こと田中平八で,向島の木母寺に天下之糸平の超巨碑がある.
"日本橋蛎殻町取引所の若い者だてえから。なんだったら、顔がしゃくり顔だってさ"(辻八卦)
東京穀物商品取引所 2009
釜屋 かまや こび茶(角川円朝7:12) 1件1題 (圓朝1件) 中央区日本橋小網町6 → 北村辞典.小網町のもぐさ屋.近江の出身で,万治2(1659)年の創業になる.江州柏原の亀屋(別項)が個人商店なのに対して,東の釜屋はテレビコマーシャルも打つ会社組織.
"釜屋の騒動というのが流行りました。小網町の釜屋はお灸に用ゆるもぐさを売ります"(こび茶)
釜屋 2009
稲荷堀 とうかんぼり 髪結新三(中公圓生2:05) など 5件2題 (東京5件) 中央区日本橋小網町,日本橋蛎殻町1 → 北村辞典.蛎殻町と小網町の間,酒井雅楽頭中屋敷を北に入る入堀.今,堀はない.かわった読みは,稲荷(とうか)の転訛.雨中,切られ与三郎が坊主の富を刺し殺す悪事の発端が,稲荷堀になる.
"稲荷堀を二人、相合傘で歩いてくる"(髪結新三)
とうかん堀通り 2009
永代橋 えいたいばし 永代橋(青圓生11:20) など 77件33題 (圓朝9件, 東京68件) 中央区日本橋箱崎町〜佐賀1 → 北村辞典.隅田川に架かる最も下流の橋.元禄年間に架橋された.「永代橋」は,文化4(1807)年に落ち,多数の死者を出した事故をふまえた落語.事故供養塔は,目黒に移った海福寺にある.二文の橋銭を取ったので,身投げが払うのは一文だけ.
"江戸時代に、もっとも大きな出来事として残っておりますのは、永代橋が落ちたという事件です"(永代橋)
永代橋事故供養塔 2009
湊橋 みなとばし 操古木堀江汲分(百花園, 28-40 (1890))など 中央区日本橋箱崎町〜新川1 日本橋川の下流,霊岸島新堀に架かる橋.箱崎から霊岸島へ渡す.締め出しを食べた「宮戸川」のお花が,霊岸島の叔父さんの家に押しかけるには,この橋を渡ることになる.
"今湊橋をわたる途端に抱への鳶、佐吉に出会ひまして"(操古木堀江汲分)
湊橋 2020
新川 しんかわ 長者番付(旺文小さん1:08) など 17件12題 (圓朝3件, 東京14件) 中央区新川1 → 北村辞典.酒問屋街.新川新堀とセットで出てくる.新川は河村瑞賢が開鑿したという運河で,瑞賢屋敷もあった.新堀は日本橋川の下流を掘り広げたもの.新川之跡碑は新川1-29先の小公園内にある.
"造り酒屋が聞いてあきれらァ。てめえみてえな家は江戸の新川新堀に来てみやがれ、軒並み並んでらァ"(長者番付)
新川之跡碑 2006
亀島橋 かめしまばし 英国孝子ジョージ・スミスの伝(角川円朝6:05) 1件1題 (圓朝1件) 中央区八丁堀1〜新川2 → 北村辞典.越前堀(亀島川)に架かる.これを渡ると霊岸島に入る.
"饂飩屋は亀島橋を渡って、二丁目三十番地の裏長屋へ入るから"(英国孝子ジョージ・スミスの伝)
亀島橋 2011
霊岸島 れいがんじま 宮戸川(講明治大正1:48) など 18件7題 (圓朝5件, 東京11件, 上方2件) 中央区新川1,2 → 北村辞典.明暦の大火後に深川へ移転した霊巌寺(別項)に由来する.今も新川1,2丁目は島状になっている.真ん中を新川が貫いていた.霊巌島之碑は,新川1-12の越前堀児童公園内にある.
"内へ這入れませんから、霊岸島の伯父さんの処まで行かうと思つて居ますが"(宮戸川)
霊巌島之碑 2006
田宮稲荷 たみやいなり 狐つき(大文館, 新落語全集(1932)) 新川2-25 市内の稲荷がずらりと出てくる「狐つき」という落語に,越前堀の田宮稲荷として登場する.俳優,市川左団次の土地であったという.田宮稲荷は,田宮家のあった新宿区にもある.緑濃い境内は,とてもいい雰囲気だった.
"その他越前堀の田宮稲荷、赤坂の豊川稲荷"(狐つき)
田宮稲荷 2009
高橋 たかばし 英国孝子ジョージ・スミスの伝(角川円朝6:05) 1件1題 (圓朝1件) 中央区八丁堀3〜新川2 越前堀(亀島川)の河口部,八丁堀と霊岸島を結ぶ.現存する.深川の高橋とは別のもの.1882(明治15)年に印象的なデザインの鉄橋に架けかえられ,東京名所となった.
"川口町からただいまの高橋の袂へかかりますと、はいておりました下駄を、がくりと踏みかえす途端に横鼻緒が緩みました"(英国孝子ジョージ・スミスの伝)
高橋 2011
鉄砲洲 てっぽうず 吉住万蔵(青圓生11:22) など 14件12題 (圓朝5件, 東京9件) 中央区湊,明石町 → 北村辞典.八丁堀の先,佃島に対面する埋立地.居留地で登場する.鉄砲洲稲荷内の富士は,狭いところに押し込められており,実際の登山の醍醐味があった.
"これは明治元年(中略)築地鉄砲洲に居留地というものができました。その時に新島原という廓が築地へできました"(吉住万蔵)
鉄砲洲稲荷富士 2006
新島原 しんしまばら 吉住万蔵(青圓生11:22) など 2件1題 (東京2件) 中央区新富1,2 → 北村辞典.圓生の「吉住万蔵」で詳しく語られるとおり,本多壱岐守(隠岐守が正しい),井伊掃部頭屋敷が,大富町となり,外国人居留地発足と同時に,明治元(1868)年,新島原の廓となる.明治4(1871)年に廃止された.吉住万蔵の住まいはすぐ北の浅蜊河岸(別項:竹葉)に設定される.
"ご機嫌取りに、廓の斡旋までもしようというわけで……新島原というものをここで許されました"(吉住万蔵)
     
新富座 しんとみざ 黄薔薇(角川円朝6:03) など 20件17題 (圓朝3件, 東京17件) 中央区新富2 → 北村辞典.新島原の遊廓の跡,明治5(1872)年に猿若町の守田座(別項)が新富町に移転した.1875(明治8)年に新富座と改称する.「武助馬」にも出てくるが,せいぜい時代は震災前までに限られる.新富2-6に区の銘板が立っている.
"年中常綺羅で、芝居は新富座と千歳座の替り目を看て"(黄薔薇)
新富座跡銘板 2006
合引橋 あいびきばし 三題話(百花園, 8-29 (1889-90)) 中央区新富2〜築地1 築地川が直角に曲がるところにかかっていた橋.新富座はすぐそばにあり,用例にあるように役者の往来も多かったろう.その後,楓川が開削され,T字型になった川に対して,Y字型の三吉橋が1929年に架けられた.現在,川は首都高に利用されており,三つ又の橋であることに変わりはない.架橋時のような鈴蘭灯が配されており,説明板には,三島由紀夫の「橋づくし」の文章が引用されている.
"門弟を連れぶらぶら合引橋を越えて来ると"(三題話:車夫・地震・團洲の勧進帳)
三吉橋 2020
八丁堀 はっちょうぼり 佐々木政談(青圓生11:13) など 64件40題 (圓朝7件, 東京56件, 上方1件) 中央区日本橋茅場町,八丁堀 → 北村辞典.堀としての八丁堀は,京橋川の末,現在の八丁堀4丁目を流れていた.地図でも,いかにも川の跡のように見える.八丁堀には,与力,同心屋敷がならんでいた.岡崎町(名人くらべ),玉子屋新道(猫定)など八丁堀を冠する地名は別だてとした.
"江戸は八丁堀にお屋敷がありまして八丁堀の旦那がた、巻き羽織に雪駄履き、姿を見た者が、ぶるッとふるえあがったというほど"(佐々木政談)
八丁堀説明板 2021
ての字 てのじ 仇娘好八丈(新日本古典文学大系明治編 7, 岩波書店 (2008)) 中央区八丁堀4あたりか 紀伊国屋文左衛門の住まいがあった場所(本文では本八丁堀一丁目)という.紀文の居宅は本八丁堀三丁目一帯と言われている.ての字は店名.現在,港区西新橋3-19に,鰻屋のての字本店があるが,それのことか.創業文政10年の鰻屋だが,高級店と言うよりは,手軽にウナギを食わせるスタイルだった.かつて八丁堀に店があったかどうか未詳.
"元は本八丁堀一丁目のての字の処でございました"(仇娘好八丈)
ての字本店 2011
京橋 きょうばし 阿武松(青圓生08:05) など 44件30題 (圓朝4件, 東京40件) 中央区京橋3〜銀座2 → 北村辞典.京橋川に架かっていた.日本橋とともに「擬宝珠」がついていた.欄干は頭痛よけの験と伝える.ただしなめるものではない.京橋は橋名というより地域名で,五郎兵衛町(小間物屋政談),観世新道(阿武松),因幡町(札所の霊験)などが落語に登場する.
"村の者が相撲取りになれというんで、京橋の武隈文右衛門という親方に弟子入りしまして"(阿武松)
明治期大正期京橋親柱 2006
小満津 こまつ 鰻の幇間(筑摩特選1:06) など 2件1題 (東京2件) 中央区 「鰻の幇間」に出てくる鰻の名店.京橋にあった.この名を引き継いで,中野区本町6-45で営業している.予約のみの扱いで,国産物を提供する.民家のような小柄な店構え.立名人名演07:14の「鰻の幇間」に出てくる銀座の小松もここのことだろう.
"神田川、でなきゃちょっと銀座のほうで、小満津かどっか"(鰻の幇間)
小満津の鰻重 2009
大根河岸 だいこんがし 厩火事(騒人名作07:18) など 9件6題 (東京9件) 中央区京橋3 → 北村辞典.京橋北詰の西側の京橋川ぞい.かつて,大根河岸と呼ばれた青物市場があり,記念碑がたっている.三遊亭圓朝のパトロンだった藤浦三周以来,圓朝の名跡を預かる.
"詰まらねえ喧嘩だなア。魚河岸婆に大根河岸野郎"(厩火事)
京橋大根河岸青物市場蹟碑 2006
銀座 ぎんざ 円タク(講昭和戦前2:13) など 138件109題 (圓朝6件, 東京129件, 上方3件) 中央区銀座1〜4 → 北村辞典.新両替町.寛政12(1800)年,蛎殻町(日本橋人形町1)に移転するまで銀座があったことによる.今は京橋から新橋まで8丁目まである.かつては御幸通りまでで,銀座5丁目は紙の上だった.
"久しぶりで銀ブラと洒落たのさ。たまには銀座も、ぶらついて見なければ、人に話ができないからね"(円タク)
銀座 2006
丸八 まるはち 野晒し(騒人名作11:14) など 12件4題 (東京12件) 中央区銀座 銀座の生薬屋.「野ざらし」で,八五郎の住まいは腰障子に丸に八の字とはカラいクスグリ.ほぼ同じ位置に丸八碁盤店がある.うかがったところ,ご主人は丸八の流れだと言っていた.銀座店は2011年に閉店してしまった.
"丸八ったって間違えて銀座へ行っちゃアいけねえよ"(野晒し)
丸八碁盤店 2006
銀座の地蔵 ぎんざのじぞう 呪ひの魂(サンデー毎日,18(8)(1939)) 中央区銀座 用例は子ども時代の「ざんぎりお滝」が,銀座の地蔵縁日で迷子をよそおって,善良な老夫婦をだます場面になる.このお地蔵様かどうか確かではないが,三越百貨店の屋上に祀ってある銀座出世地蔵をあげる.1876年の『郵便報知新聞』に,文久元年に地中より掘りだした地蔵尊が,銀座三丁目に安置されておりとあり,当時から地蔵尊の夜店の縁日はにぎわっていた.別の説明では,明治のはじめに三十間堀から出土し,銀座4-3に祀ったところ,参詣人が増え,7,18,29日を縁日として露店が出たとある.震災,戦災を経て,銀座の美松から三越の屋上に安置され,すでに50年になる.
"てうどその晩銀座のお地蔵さまの縁日で、縁日商人が混つてをります"(呪ひの魂)
銀座出世地蔵 2023
木村屋 きむらや 湯屋番(旺文小さん2:02) など 2件2題 (東京2件) 中央区銀座4-5 明治2(1869)年創業の木村屋總本店.兜に香を焚いて討ち死にした木村重成を銀座の木村家と間違えるくすぐり."あそこのへそパンがうまい".酒種あんパンにへそをつけ,中に桜の塩漬けを入れた新工夫を,山岡鉄舟が宮中に献上した.銀座本店の喫茶では,こしあんのへそパンと粒あんパンに飲み物のあんぱんセットがある.写真のストラップは,餡とパンとの間にあいた隙間,てかったこしあん,パン生地の発泡の様子,芸が細かい.
"木村ッてえなあ、あの銀座のパン屋だろう"(湯屋番)
木村家のへそぱん 2011
白牡丹 はくぼたん 小間物屋政談(集英圓生2:07) など 2件2題 (東京2件) 中央区銀座5-8 寛政2(1790)年,尾張町で創業の小間物屋.白牡丹は,お白粉の代名詞的な銘柄だった.和装小物を扱っていたが,いつの間にか店舗がなくなっている.
"ちゃんと店のあったところもございます。「白牡丹」とか、あるいは本郷には「兼安」なんという"(小間物屋政談)
白牡丹 1985
歌舞伎座 かぶきざ 世辞屋(角川円朝4:32) など 41件37題 (圓朝4件, 東京36件, 上方1件) 中央区銀座4-12 → 北村辞典.1889(明治22)年,木挽町に開場した劇場.戦後建てかえられて現存する.破風入りの堂々とした建物だったが,2010年4月から建てかえのため一時閉場した.2013年4月,ビルを従え,装いも新たに開場した.噺家も過去数名が独演会や追善興行を行っている.改良座(恵方詣など)の別称は別項になる.
"わっしは歌舞伎座付きの茶屋で武田屋の兼吉てえもんです"(世辞屋)
歌舞伎座 2013
采女ヶ原 うねめがはら 猫定(青圓生08:10) など 5件3題 (東京5件) 中央区銀座5 → 北村辞典.築地川に架かる万年橋そばの火除地.周囲は武家屋敷ばかりで,夜分は寂しかったのだろう.「猫定」の定吉が,雨中竹槍で刺し殺される.
"今の新橋演舞場のある、あのあたり一面が原でございまして、采女が原と言いました"(猫定)
築地八丁堀日本橋南之図(尾張屋板江戸切絵図) 2020
新橋演舞場 しんばしえんぶじょう きゃいのう(講昭和戦前1:17) など 6件3題 (東京6件) 中央区銀座6-18 1925年,西の歌舞練場に対して作られた新橋芸者技芸向上のための劇場.西の都をどりに対して,東をどりは東京の春の風物詩.新橋芸者が総出で演じる.現在は,松竹の公演が主.用例の「きゃいのう」は,柳家金語楼が得意とした.割ぜりふの"きゃいのう"のひと言しかセリフのない大部屋役者の滑稽を描く.写真右手の黒板塀は,料亭金田中.
"今日は新橋の演舞場に行くからね、昨日三越からできてきたあの仕立卸しの"(きゃいのう)
新橋演舞場 2011
守田座 もりたざ 淀五郎(青圓生01:03) など 12件5題 (圓朝1件, 東京11件) 中央区銀座6 → 北村辞典.木挽町五丁目の歌舞伎芝居小屋.「淀五郎」のように明らかに木挽町を指す場合,森田座が正しい.猿若町に移り,河原崎座(森田座).維新後は新富町の守田座.
"この森田座に、市川団蔵という人が座頭で、団蔵というのは名家でございまして"(淀五郎)
12代目守田勘弥奉納石燈籠 2020
竹葉 ちくよう 鰻の幇間(青圓生14:11) など 8件5題 (東京8件) 中央区銀座8-14 → 北村辞典.慶応2(1866)年創業の鰻料理の名店で,浅蜊河岸にあった.震災で被災後,銀座に移転した.土地柄,芝居の弁当を納めたりする.鰻のほか,鯛茶漬けも有名.銀座のほかにも店舗がある.ミシュランガイドの星獲得で話題になった.
"竹葉とかあるいはまた、大和田か、神田川なぞ"(鰻の幇間)
竹葉亭 鯛茶漬け 2009
竹川町 たけかわちょう 佐々木政談(青圓生11:13) など 10件2題 (東京10件) 中央区銀座7あたり 東京系の「佐々木政談」で,お奉行ごっこをしていた四郎吉の家が竹川町になる.上方系では,東横堀際の松屋表町で演じられる.
"新橋竹川町、高田屋綱五郎伜四郎吉。家主太兵衛"(佐々木政談)
築地八丁堀日本橋南之図(尾張屋板江戸切絵図) 2020
資生堂 しせいどう 銀ぶら(東京, 1(2) (1924)) 中央区銀座8-8 「銀ぶら」は,柳家三語楼(1)演じる銀座スケッチ落語.銀座の夜店や店舗の様子が描かれる.資生堂薬局では,1902年,日本ではじめてソーダファウンテンと称する飲料販売を行った.現在も同じ場所で資生堂パーラーとして営業している.1階がケーキなどの物販,2階から上が喫茶,レストラン,バーとなっている.開業当時の名物だったソーダ水やアイスクリームを今も提供している.資生堂化粧品の店は7丁目にある.西隣にあった千疋屋は,近年銀座5丁目に移転してしまった.
"向ふ側へ移りまして、千疋屋の前から資生堂や亀屋の前を通つて京橋まで"(銀ぶら)
資生堂パーラークリームソーダ 2023
穀豊稲荷 こくほういなり 狐つき(大文館, 新落語全集(1932)) 中央区銀座8-4 「狐つき」の稲荷づくしで登場する.鎮座地の八官町(熱海土産温泉利書)にちなみ八官稲荷と改称している.ビル内,ガラス張りのお宮がある.お稲荷さんなのに,なぜか神明づくり.
"八官町の穀豊には煉瓦地の美麗なのや、お向こうの交換局からぞろぞろくる"(狐つき)
八官稲荷 2006
土橋 どばし 黄金餅(弘文志ん生2:01) など 13件4題 (圓朝2件, 東京11件) 中央区銀座8〜港区新橋1 → 北村辞典.汐留川に架かる.首都高土橋ランプのところ.堀,橋ともにない.「黄金餅」の道中付けで,ここを抜ければ兼房町から久保町となる.
"土橋から、新し橋の通りをまっすぐに、愛宕下ィ出まして"(黄金餅)
土橋交差点 2011
浜離宮 はまりきゅう 粟田口霑笛竹(角川円朝2:01) など 3件3題 (圓朝2件, 東京1件) 中央区浜離宮庭園 御浜御殿.登場するのはお浜2件と離宮1件.将軍の鷹狩り場だった.明治に入って宮内庁所管の浜離宮となる.今は都の庭園で,浜離宮恩賜庭園として公開されている.入園有料.汐入の庭園,鴨場,馬場,三百年の松などが見どころ.新銭座鴨場に,新銭座(梅若七兵衛,かつぎやなど)の名を残す.
"永代橋を越して御浜沖へ出て、あれから田町の雁木へ船をつけまして"(粟田口霑笛竹)
浜離宮潮入り 2011
波除稲荷 なみよけいなり 小猿七之助(三一談志4:06) 1件1題 (東京1件) 中央区築地6-20 築地の先っぽ,旧築地市場に面したところに現存する.土地柄,魚河岸,食材関係の碑が多く見られる.巨大な雌雄の獅子頭を展示していた.
"ただ遠く、築地の波除け稲荷のお灯明が、チラッチラッと揺れてるぐらいなもんで"(小猿七之助)
波除稲荷 2006
小田原町 おだわらちょう 恋路の闇(扇拍子, 東京堂(1897)) など 2件2題 (圓朝2件) 中央区築地6,7 南小田原町.圓朝の「政談月の鏡」の舞台としては,築地の海際.小田原町,本郷町,柳原町が登場するが,いずれも代地だろう.小田原橋跡が残っている.
"娘があれば淫売でも働かせる様な小田原町辺の事、当今(いま)では随分立派でございますが"(恋路の闇)
築地八丁堀日本橋南之図(尾張屋板江戸切絵図) 2020
築地本願寺 つきじほんがんじ 小猿七之助(三一談志4:06) 1件1題 (東京1件) 中央区築地3-17 浄土真宗本願寺派本願寺築地別院.関東大震災後,現在のようなインド様式の石造りで建て替えられた.2014年に重文指定された.境内の端っこには,画家酒井抱一や眼科医土生玄碩の墓がある.講談「男の花道」は,三世中村歌右衛門の眼を治療した若い眼科医の危機を,歌右衛門が芝居小屋から駆けつけ報恩する話.土生玄碩をモデルとする.
"まずお弔いの会場なんですけれども、築地本願寺、東京ドーム"(片棒・改)
築地本願寺 2006
明石町 あかしちょう 佃祭(柳家小満ん口演用「てきすと」 21, てきすとの会 (2016))など 中央区明石町 江戸時代からあった町名だが,明治に入って武家地を合わせ,町域が広がった.明石町は,外国人居留地にあてられた.明石小学校の隅に,居留地のレンガが展示してある.遠くに見えるのは,聖路加病院の鐘楼.このあたり,西洋式学校の発祥を記念する碑が多く,なかには指紋研究発祥の地碑もあった.1880年にヘンリー・フォールズが研究成果を発表したとある.快楽亭ブラックが,指紋トリックの探偵小説を発表したのは1892年のことで,日本の警察が指紋を捜査に取り入れたのは,遅れること1911年になってからだった.
"大名屋敷の土地を合わせて、これを築地明石町として、ここを外国人居留地と致しました"(佃祭)
居留地レンガ 2023
塩瀬 しおぜ 一目上り(柳家小満ん口演用「てきすと」 17, てきすとの会 (2016)) 中央区明石町7-14 老舗菓子舗.徳川家康とともに江戸に下ってきた.本店は,あまり便利とはいえない,築地明石町にある.焼き印の押された定番の塩瀬饅頭や季節の生菓子のほかに,豆大福も売っていた.用例のような,塩あんの大福も扱うことがあるのだろうか.
"へえェ、大福があるンですか、塩瀬の塩大福とくると旨えからねえ"(一目上り)
塩瀬の豆大福 2020
寒さ橋 さむさばし 政談月の鏡(角川円朝2:05) 1件1題 (圓朝1件) 中央区築地7〜明石町 → 北村辞典.築地の海べりに突き出すように架かっていた.今はない.いかにも冬場の潮風に凍えそうな名前.そんな晩に似合う,水炊きが名物の料亭治作の店がある.
"お前さんはよく毎日寒さ橋へお出なさる、この寒いのに名さえ寒さ橋てえんだからさぞお寒かろう"(政談月の鏡)
築地八丁堀日本橋南之図(尾張屋板江戸切絵図) 2020
勝鬨橋 かちどきばし 巌流島(偕成少年02:10) 1件1題 (東京1件) 中央区築地6〜勝どき1 かちどきの渡しに代わり,1930年に架橋された.大型船舶が通れるように跳ね上げ機構がついている.そのため,接合部に立っている脇を大型車が通ると,たしかに激しく揺れた.今は開閉されることはない.ニュース映画か何かで,開閉シーンを見た気がするが,記憶があいまい.
"永代、相生、佃、勝鬨などのうつくしい橋がかかっております"(巌流島)
勝鬨橋の接合部 2011
佃の渡 つくだのわたし 佃祭(講明治大正3:33) など 12件1題 (東京12件) 中央区明石町〜佃1 → 北村辞典.隅田川に最後まで残っていた渡し.この渡し船が転覆してしまい,「佃祭」の奥さんは,一世一代の焼き餅を焼く.佃大橋の架橋により,1964年に廃止された.同じ形の碑が,隅田川の両岸,佃島と湊3-18にある.
"そこで急ぎ足に船場にまいりましたところ"(佃祭)
佃島渡船碑 2009
佃島 つくだじま 佃島(講明治大正5:32) など 43件17題 (圓朝4件, 東京39件) 中央区佃1-1〜10 → 北村辞典.摂津佃村からの移住民が無人島に作った漁村.住吉明神の祭りは,「佃祭」の舞台となる.生粋の佃煮を製し,江戸時代創業の佃煮店も残っている.最後まで江戸の風が吹いていたところ.写真の中の船には,佃島漁業協同組合の文字が見える.佃島を舞台とする落語は「佃祭」が有名だが,「佃島」と題する珍しい落語もある(→ 絶滅危惧落語「佃島」).
"何だ篦棒め………此処は佃島だ"(佃島)
佃島船だまり 2009
石川島 いしかわじま 黄薔薇(角川円朝6:03) など 12件9題 (圓朝5件, 東京5件, 上方2件) 中央区佃1, 2 → 北村辞典.佃島の北西の島.囚人の更生施設,人足寄場が設けられた.佃の寄場の用例も多く,後の石川島監獄の用例も石川島に合した.その後の,石川島造船所,石川島播磨重工業も移転してしまい,IHIの社名になっている.
"思う奥さんと密夫をしたのだから仕方がない、石川島へ行って泥をおかつぎ"(黄薔薇)
石川島燈明台 2023
月島 つきしま 海水浴(長屋討論会:07) 1件1題 (東京1件) 中央区月島 1887〜1892年にかけて,佃島の南西を埋め立てて作られた造成地.当然ながら,築島を意味する.埋め立てがさらに進んだ今では海に面しているとは言えないが,いちばん近場の海水浴地として戦後の新作落語に登場する.大通りを南北につなぐ細い路地が何本も通っており,下町の風情を残す.庭の代わりに軒先に鉢植えを置き,物干しが路地に面している.通りには名物のもんじゃ焼きの店が建ちならび,客があふれている.もんじゃ焼きは,駄菓子屋で子どもたちも食べられた安価なおやつ.薄く溶いた小麦粉を鉄板で焼き,小さなヘラではがしながら食べる.観光客目当てなのか,具だくさんで,ごちそう化していた.
"どうだ、海水浴へ行かねえか。月島か。そんな処ぢゃァねえ"(海水浴)
月島の路地 2023
相生橋 あいおいばし 巌流島(柳家小満ん口演用「てきすと」 13, てきすとの会 (2016)) 中央区佃2・3〜江東区越中島2 隅田川派川に架かる橋の説明.埋め立てによってできた月島への通行のため,1903年にはじめて架けられた.ここまで隅田川の橋に入れてしまうと,永代橋がかわいそう.奥に見えるのは,商船学校(現東京海洋大)に置かれている明治丸(国重文).日本最古,唯一の鉄製帆船で,明治天皇が東北・北海道巡幸で乗船された.
"左が相生橋に晴海橋と、こんな処だろうと思います"(巌流島)
相生橋 2019
晴海橋 はるみばし 巌流島(柳家小満ん口演用「てきすと」 13, てきすとの会 (2016)) 中央区晴海1〜江東区豊洲3 春海橋と書くのが正しい.晴海運河に架かる.隅田川に架かる橋の説明.もはやここまで来ると,とても川とは言いがたい.サビの浮いた味のある橋は,東京都港湾局晴海線の鉄道橋の名残り.1989年まで現役だった.
"左が相生橋に晴海橋と、こんな処だろうと思います"(巌流島)
春海橋と晴海鉄道橋 2019

掲載 061020/最終更新 230901

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