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千代田区   
「……麹町にねェ、さるお邸の旦那さまがあったんだよ」
「ああらそうですかねェ、三本毛が足りないなんてうかがいましたが、猿が、お邸の旦那さまんなったんですかねェ」
 (桂文楽(8) 「厩火事」)
  暉峻康隆監修,『桂文楽全集』 上巻,立風書房(1974)

地点名 この1題・登場回数 位 置 備 考 写真と撮影年
江戸城 えどじょう 紀州(青圓生01:05) など 66件26題 (圓朝1件, 東京61件, 上方4件) 千代田区千代田など 太田道灌千代田の名城.将軍綱吉戯れの「一日公方」,萬民撫育の「紀州」公といった落語や,米相場や炊飯法のうわさ話の小噺で江戸城が出てくる.「慶安太平記」,丸橋忠弥が酔態をよそおって石を投げ,江戸城の濠の深さを測る."ここで三合かしこで五合拾い集めて三升あまり",が名セリフ.幕府転覆の計画は露見して,処刑された.丸橋忠弥の墓は豊島区高田の金乗院にある.裏面に慶安四年とあったのが,何か生々しく感じた.
"お城ィおあがりンなります。大、小名、綺羅星のごとくに居ながれる。正面から出てきたのが、相州小田原の城主大久保加賀守さま"(紀州)
丸橋忠弥墓 2011
江戸城:天守閣 てんしゅかく 黒手組戸沢助六(駸々堂 (1890)) 千代田区千代田1 明暦3(1657)年の振袖火事で,江戸城天守閣は焼失した.このときの寛永天守は,五層五階のものであった.その後,再建計画があったが実現していない.加賀前田藩が寄進した御影石の天守台が今も残っている.現在も再建の動きがあり,実現すれば皇居を見はらすベストポイントになりそう.
"振袖火事で江戸中焼き払ひ その時に御本丸のお天守が落ち十万八千人の死亡者が有ったてェます"(黒手組戸沢助六)
江戸城天守台 2020
江戸城:松の廊下 まつのろうか 盃の殿様(講昭和戦前2:02) など 5件5題 (東京3件, 上方2件) 千代田区千代田1 江戸城本丸,白書院に向かう廊下.元禄14(1701)年3月14日,吉良上野介に浅野内匠頭が斬りつけた.即刻,切腹申しつけられ,平河門から芝田村邸(別項)へ.
"元禄十四年三月十四日、殿中松のお廊下において高家の吉良上野介に刃傷をいたし"(盃の殿様)
松之大廊下跡碑 2007
江戸城:大手橋 おおてばし 旗本五人男(毎日新聞 (1897)) 千代田区千代田〜大手町1 江戸城の正門にあたる.大手御門から大手橋を渡って城内に入る.現在は橋ではなく,大手濠と桔梗濠を区切る通路になっている.皇居東御苑の参観口で,一般の人も通ることができる.
"登城の折御目付が大手の橋へ立て大声に、天台真宗の外襟巻を取りませい"(旗本五人男)
大手門 2020
江戸城:桔梗 ききょう 鶴殺疾刃庖刀(角川円朝7:02) 1件1題 (圓朝1件) 千代田区千代田 桔梗門.三の丸,内桜田門(夫婦幽霊)の別名になる.太田道灌の紋が桔梗.
"城中はな桔梗からお玄関まで長い間日光に照りつけられるのは閉口じゃ"(鶴殺疾刃庖刀)
桔梗門 2007
江戸城:上覧場 じょうらんば 囃子長屋(土屋今輔:19) など 3件3題 (東京3件) 千代田区千代田 江戸城西丸,吹上御庭の北東,現在の乾門外に設けられた上覧所.天下祭の山王祭と神田祭の祭礼行列が,隔年でここに立ち寄って,将軍の上覧を得た.山王祭の行列ルートは,別項の代官町(木の葉狐)と一致する.現在も皇居の一部になので,何も見ることはできないが,説明板が置かれた.
"山車を引き出して、ご上覧場へ繰り込む間は屋台だ"(囃子長屋)
上覧所跡説明板 2023
宮城前広場 きゅうじょうまえひろば 片棒(こずえ子ども05:10) 1件1題 (東京1件) 千代田区皇居外苑 皇居前広場.東京名所.田舎から出てきた両親を案内するなら,二重橋に靖国神社に観音様.記念の自撮りを撮りましょうね.よく自転車を乗り入れている人が追い返されている.赤螺屋の大旦那の亡きがらが,月にむかって飛んでゆく.
"まず、宮城前広場を仮りのロケット発射場にします"(片棒)
二重橋 2020
皇居:楠正成の銅像 くすのきまさしげのどうぞう 養老の滝(昭和落語名作選集, 協栄出版社 (1942))など 千代田区皇居外苑1-1 皇居外苑にある有名な楠正成像.騎馬にまたがり,手綱を引き絞る躍動感あふれる姿をしている.高村光雲らの作で,住友家が1900(明治33)年に献納した.
"この方を知らなければ日本人じゃアないよ、宮城の前に銅像に建てられてる楠公だよ"(養老の滝)
楠正成像 2008
和田倉門 わだくらもん 源平盛衰記(講落語全集2:15) など 6件5題 (圓朝1件, 東京5件) 千代田区皇居外苑 → 北村辞典.江戸城三十六見付の一つ.江戸城和田倉堀.門は無いが見付の感じは残る.股ぐらのシャレでも何回も出てくる.
"股ぐらをくぐりましたよ、なにしろ馬場先の方が雑踏して"(源平盛衰記)
和田倉門跡 2011
大手町 おおてまち 官営芸者(講昭和戦前4:19) など 2件2題 (東京2件) 千代田区大手町 明治以後の地名.大蔵省,内務省,憲兵本部があった.将門首塚を粗末にしたため,大蔵省要人や進駐軍に祟りが続出した.今も平将門の怨念を伝えるエピソード.
"私は麹町区大手町一番地木下藤吉郎"(官営芸者)
将門首塚 2007
常盤橋 ときわばし 粟田口霑笛竹(角川円朝2:01) など 7件5題 (圓朝2件, 東京5件) 千代田区大手町2 → 北村辞典.川は日本橋川.今,常盤橋と呼ばれる橋の上流,常盤橋御門の石垣があるところに現存する.石垣はフリークライミングの練習場だった.旧観を復元する改修工事が進んでいる.
"常磐橋御門から道三橋の近辺を柳町といって"(粟田口霑笛竹)
常盤橋 2006
銭瓶橋 ぜにかめばし 十徳(こずえ子ども05:03) 1件1題 (東京1件) 千代田区大手町2 江戸城道三堀が日本橋川に注ぐ出口に架かっていた.橋の南北に二人の後藤が住んでいて,"五斗五斗"で一石橋の説明で登場する.一石橋からは,銭瓶橋を含む八つの橋が見えた.JRのガードに銭瓶町と書かれていたはずだが,今は見あたらない.位置はややずれるが,常盤橋そばに説明板が建てられた.奥に見えるのは,渋沢栄一の銅像.日本銀行にちなむらしい.
"日本橋、江戸橋、常盤橋、呉服橋、鍛冶橋、銭瓶橋、道三橋、それに自分の立っている橋と合わせて八つの橋が見えた"(十徳)
銭瓶橋説明板 2020
丸の内 まるのうち 妾馬(青圓生10:06) など 76件43題 (圓朝2件, 東京74件) 千代田区丸の内など → 北村辞典.江戸城のお堀の内側,今の丸の内や大手町にあたる.赤井御門守をはじめとする大名屋敷が建ちならんでいて,「妾馬」「目黒のさんま」「粗忽の使者」「松曳き」「盃の殿様」など,お大名の登場する落語に頻出する.明治に入って大名屋敷がなくなり,永楽町,八重洲町,有楽町の町名がつく.払い下げ地を岩崎弥之助が買いとったことから,三菱ヶ原とも呼ばれた.1914年に東京駅が開業し,東京を代表するオフィス街になった.三菱一号館など,往時のレンガ建築を模した町並みが再現されつつある.
"「丸之内の赤井御門守さまというお大名だ」「へェえ?」「おれが今武鑑を調べたところが,なかなかどおして…まァ、たいしたお家柄だ」"(妾馬)
丸の内オフィス街 2023
北町奉行所 きたまちぶぎょうしょ 心中時雨傘(角川円朝7:05) など 7件5題 (圓朝2件, 東京5件) 千代田区丸の内1 → 北村辞典.江戸町奉行所.落語国のお奉行は,遠山金四郎,"妖怪"鳥居甲斐守耀蔵,曲淵甲斐守,浅野備前守長称(心中時雨傘),佐々木信濃守(佐々木政談)が勤めている.東京駅八重洲口,国際観光会館前の目立つところに碑があったが,大丸が移転してきて通用口みたいな隅っこの足下に銘板としてはめ込まれた.これも.現在は,もとの奉行所の場所からは離れた,グラントウキョウノースタワー前に移設されている.
"北御町奉行浅野備前守様の呉服橋内の御番所へ、駆込み願いをするのでございます"(心中時雨傘)
北町奉行所跡碑 2009
東京駅 とうきょうえき 五人廻し(講明治大正7:46) など 50件38題 (東京50件) 千代田区丸の内1 1910年開業.中央停車場として辰野金吾がデザインした.コンコースのドーム天井には,8種の干支が浮き彫りになっている.写真の緑色の丸の中にいる.あとの4種は,「べかこ」の武雄温泉の楼門に描かれている.同じ辰野金吾の設計で,ミステリーの謎解きのよう.
"東京駅から神戸までの急行列車の上がり高をみんな貰いてえ"(五人廻し)
東京駅コンコースドーム 2013
鍛冶橋見付 かじばしみつけ 黒手組戸沢助六(駸々堂 (1890))など 千代田区丸の内3 江戸城三十六見付の一つ.江戸城外堀に架かる鍛冶橋から見附にいたる.現在の東海道新幹線のガード下あたり.門内には大名屋敷が並んでいた.鍛冶橋は,かつては警視庁の代名詞だった.
"十二月二十日の晩に鍛冶橋のお見附外でしわがれ声を張り上げて"(黒手組戸沢助六)
鍛冶橋見付跡 2020
太田道灌の銅像 おおたどうかんのどうぞう 心臓(五星大笑い:04) 1件1題 (東京1件) 千代田区丸の内3 江戸城を開いた太田道灌の銅像は市庁・都庁舎のシンボルだった.今はガラス張りの東京国際フォーラム建物の中に,狩装束で立っている.用例は,戦時供出される前の銅像を指す.
"太田道灌公の銅像でも、徳川家康公の銅像でも、市庁の玄関から姿を消します"(心臓)
太田道灌の銅像 2006
八重洲河岸 やえすがし 鶴殺疾刃庖刀(角川円朝7:02) など 2件2題 (圓朝1件, 東京1件) 千代田区丸の内1-3 → 北村辞典.馬場先堀東の河岸.オランダ人ヤン・ヨーステン拝領の土地で,これが八重洲の語源になる.八代洲河岸とも.今は八重洲というと東京駅の八重洲口側になるが,地理的には丸の内側になる.
"この時八代洲河岸の常火消の臥烟で、大阪御城代の火消人足に雇われて参る、三太に熊吉と申す両人が"(鶴殺疾刃庖刀)
ヤン・ヨーステン像 2012
有楽町駅 ゆうらくちょうえき 綴方狂室(毎日三百年3:09)など 3件3題 (東京3件) 千代田区有楽町2-9 有楽町駅の中央改札内に,木彫りの大黒様が祀られていた.説明板によると日枝神社の神木から彫られた大黒が,戦時中に駅に寄贈されたという.今は,東京国際フォーラム側へ移設され,アクリルケースに収められている.
"誰にも悩みを有楽町"(綴方狂室)
有楽大黒 2011
南町奉行所 みなみまちぶぎょうしょ 小間物屋政談(青圓生12:08) など 34件13題 (圓朝2件, 東京31件, 上方1件) 千代田区有楽町2 → 北村辞典.江戸町奉行所.落語国の御奉行は,大岡越前守忠相,筒井和泉守政憲(名人長二,幽霊長屋),小栗豊後守忠順,『耳袋』の根岸肥前守鎮衛(猫定,鹿政談)が勤めた.南町奉行も勤めた遠山左衛門尉景元は,北町奉行の方でおなじみ.再開発で銘板の位置も変わった.
"恐れながらと南のお奉行所へ訴えましたが、大岡越前守というかたで、ご案内のとおり名判官でございます"(小間物屋政談)
南町奉行所あと 2008
数寄屋橋 すきやばし 橋の結婚(講明治大正6:26) など 4件4題 (圓朝1件, 東京3件) 千代田区有楽町2 → 北村辞典.外堀に架かっていたが,首都高建設で撤去された.写真の碑には,"數寄屋橋 此処にありき 菊田一夫"の文字が刻まれている.菊田一夫は,大ヒットラジオドラマ「君の名は」の原作者で,放送時間には女湯から人が消えると言われた.数寄屋橋での再会を約束するが,会えそうで会えない真知子と春樹がすれ違う."忘却とは忘れ去ることなり"のあたり前のような名文句.
"実は食物(もの)を食べません。腹が数寄屋橋で厶います"(橋の結婚)
数寄屋橋跡 2011
帝国ホテル ていこくほてる 春の新築(講明治大正4:31) など 9件8題 (東京6件, 上方3件) 千代田区内幸町1-1 1890(明治23)年に開業した日本を代表するホテルの一つ.フランク・ロイド・ライト設計の建物は,1923年の竣工.愛知県の明治村にエントランス部分が移設され,喫茶室もある.
"また帝国ホテル、結構な者がございます"(春の新築)
帝国ホテル 2006
鹿鳴館 ろくめいかん 金の味(講明治大正2:40) 1件1題 (東京1件) 千代田区内幸町1-1 明治の外交舞台として作られた迎賓館.短命に終わったのか,教科書の上でしか意識しない.落語でも,「擬宝珠」1件しか出てこない.帝国ホテルの隣の敷地に,鹿鳴館跡を示すプレートがはめられている.写真の鹿鳴館の巨大ジオラマでは,20分に1回舞踏会が演じられる.
"それから鹿鳴館から帝国ホテル"(金の味)
鹿鳴館模型(江戸東京博物館) 2008
日比谷御門 ひびやごもん 梅若礼三郎(明文館 (1892)) 千代田区日比谷公園 江戸城三十六見付の一つ.現在の日比谷交差点のところ.枡形になっており南から入り,西へぬける構造で,門前に橋がない.日比谷公園の心字池が濠の名残で,その脇に見付の石垣が残されている.
"数寄屋河岸と云へば、ご存知の通り日比谷御門の前"(梅若礼三郎)
日比谷見付石垣 2019
日比谷公園 ひびやこうえん 片棒(騒人名作09:08) など 35件20題 (東京35件) 千代田区日比谷公園 1903年に開かれた東京を代表する都市公園.敷地内には,日比谷公会堂や日比谷図書館,日比谷野音もある.大噴水や次項の鶴の噴水,首かけ銀杏,要人接待に使われる洋食の松本楼が有名.首かけ銀杏は,道路拡張で伐られるところを,日比谷公園の設計者である本多静六が,自分の首をかけて移殖を成功させたもの.樹齢400年といわれる.
"どうしても上野か日比谷あたりの公園を借用しなければなりません"(片棒)
首かけ銀杏と松本楼 2008
日比谷公園:鶴の噴水 つるのふんすい 出来心(旺文小さん2:01) など 6件2題 (東京6件) 千代田区日比谷公園 日比谷公園内にある日本でも指折りに古い噴水.1905(明治38)年,東京美大に依頼して製作した.今も雲形池の中で,銅製の鶴の口から水が噴き出している.雪の中で凍った鶴の噴水は,ニュース映像の定番.
"鶴の噴水なぞがありまして。大きな庭だナ、それはどこのお屋敷だ?"(出来心)
鶴の噴水 2008
日比谷公園:六角堂 ろっかくどう 新聞見合(明治大正落語名人選集 7, 日外アソシエーツ (2018)) 千代田区日比谷公園1 鶴の噴水が置かれた雲形池に突きだした出っぱりに,今でも六角形のあずまやがある.「新聞見合」は,中年の親父が,年齢を隠して見合い相手の求人広告を新聞に載せる新作落語(→ 絶滅危惧落語「思ひ違ひ」).六角堂で待ち合わせると,やってきたのは自分の娘だった.
"来る日曜日、日比谷公園噴水脇六角堂にてお待ち受け下され度"(新聞見合)
六角堂 2019
霞ヶ関 かすみがせき 盃の殿様(講昭和戦前2:02) など 3件1題 (東京3件) 千代田区霞ヶ関 → 北村辞典.広重の江戸名所絵の説明.筑前黒田邸と安芸浅野邸の間,霞ヶ関坂周辺.今は,中央官庁の代名詞で,各省庁が集まっている.国際的ハッカー集団が,霞ヶ浦河川事務所をサイバー攻撃したことがある."誤爆ごめんな"と謝れるくらい日本語が達者でも間違えた.
"ここはどこじゃ。霞ヶ関にございます。こちらが黒田様のお屋敷で"(盃の殿様)
霞ヶ関坂 2009
桜田門 さくらだもん 小言幸兵衛(講文庫1:24) など 7件7題 (東京7件) 千代田区皇居外苑 → 北村辞典.外桜田御門.大名が登城する際に通る.安政7(1860)年,雪の中を井伊直弼が水戸浪士に暗殺される.井伊家の屋敷は今の国会前庭で,ごく近い.その頃の羊羹では,客に出すにしてもちと古い.
"万延元年、井伊大老が桜田門外で暗殺された年のはいかがですだと"(小言幸兵衛)
桜田門 2009
桜田堀 さくらだぼり 大島屋騒動(駸々堂 (1892)) 千代田区千代田 前項の桜田御門から半蔵門にかけての江戸城の内堀.土手の下に柳の井戸がある.「大島屋騒動」は地理の誤りが多いので,外堀と書いてあるが,この桜田堀のことだろう.たしかに水面との落差が大きい.丸橋忠弥が江戸城の堀に石を投げたところを,知恵伊豆に怪しまれたように,このあたりは警備がきびしかったのでは.
"死骸が有ッては後日(のち)の邪魔と,桜田の外堀へドブーン"(大島屋騒動)
桜田堀 2023
井伊大老首洗い井戸 いいたいろうのくびあらいいど ちから水(拾万円の夢, 実業の日本社 (1936)) 千代田区永田町1-1 桜田門外の変で殺された井伊直弼.首洗い井戸は,綱坂近くの柳の井戸だという.三宅坂に近いのは,井伊邸内の桜の井戸とお堀端の柳の井戸になる.桜の井戸は,道路端から国会前庭に移されている.名水と呼ばれたが,移設されるぐらいだから,今は水が入っているはずもない.
"三宅坂の井伊大老の首洗い井戸、泉岳寺の首洗い井戸だって……"(ちから水)
桜の井戸 2020
国会議事堂 こっかいぎじどう 金の味(講明治大正2:40) など 3件3題 (東京3件) 千代田区永田町1-7 「金の味」は,金物をなめたい変な病にとりつかれた「擬宝珠」のこと.明治25年の速記なので,現在の重厚な稲田石造り白亜の外観ではなく,まだ木造で,場所も霞ヶ関1丁目にあった.経産省別館前に説明板がある.残っている写真を見る限り,てっぺんに擬宝珠があるようには見えない.他の作品では,現在の国会議事堂を指している用例もあり,両者を合わせている.
"陸軍省、海軍省あるいはね議事堂から"(金の味)
国会議事堂 2020
山王権現 さんのうごんげん 囃子長屋(土屋今輔:19) など 18件6題 (圓朝1件, 東京17件) 千代田区永田町2 → 北村辞典.明治時代になって日枝神社と改称している.落語では,山王様で登場する.祭神は大山咋神,国常立尊など.江戸城内から移転してきた.将軍御上覧の山王祭は,江戸三大祭りの一つ.山王の地に,戦後の一時期,八百善(別項.台東区)が店を構えていたことがある.
"丸の内にご上覧場というのができて、ここで将軍がご覧になる。神田の明神様の祭礼は竹橋から繰り込む、山王様のお祭りは半蔵門から繰り込む"(囃子長屋)
日枝神社山王鳥居 2009
赤坂見付 あかさかみつけ 目黒のさんま(新風ミニ:052) など 6件6題 (東京4件, 上方2件) 千代田区永田町2-18,紀尾井町1 江戸城三十六見付の一つ.赤坂御門.紀尾井町側に石垣が残っている.埋めた外堀のせいで,赤坂見附交差点は向こうに渡るのも一苦労する.
"早朝から二十騎ばかりのお供をつれまして、赤坂御門内のお屋敷を出ます"(目黒のさんま)
赤坂見附跡 2009
弁慶橋(赤坂) べんけいばし たがや(青三木助:08) など 5件4題 (東京5件) 千代田区紀尾井町〜港区元赤坂1 もとは神田,藍染川に架かっていた弁慶橋(岩本町2-10あたり)が本家.弁慶の名前ちなみで「猫忠」に出てくる.江戸時代には架かっていなかったため,赤坂の弁慶橋を使えるのは,現代に限られる.今では,藍染川の弁慶橋よりも,こちらの方が有名になっている.擬宝珠はどこかから移設したと聞いたことがある.用例に出てくる尾上松緑は紀尾井町に住んでいた2代目のこと.町歩きをしていて,偶然,表札を見かけたことがある.
"松緑さんを『弁慶橋』なんて人もいます"(たがや)
弁慶橋 2009
弁慶堀 べんけいぼり 角田川誉の駒(明文館 (1892))など 千代田区紀尾井町〜港区元赤坂2 江戸城の外堀.赤坂見附から紀尾井坂に沿って喰違見附に至る.坂を登るにつれて次第に堀が深くなる.小泉八雲の「狢」(むじな)は,紀尾井坂上に現れた顔のない化物.この話を題材にした6代目三升家小勝の「のっぺらぼう」という速記が残っている.
"ご少壮のときは。弁慶堀、牛ヶ淵辺へお出でになり、辻切りをなされたという"(角田川誉の駒)
弁慶堀 2017
喰違見付 くいちがいみつけ お七(青圓生03:08) など 16件5題 (東京16件) 千代田区紀尾井町4,5 → 北村辞典.四谷駅南方にある江戸城三十六見付の一つ.御門がなく,稲妻型の道で防備した.標柱が立っている.首くくりの名所で,「ちきり伊勢屋」の伝次郎も,ここで死のうとする親子を助ける.
"犬に食いつかれンのが谷中の天王寺、首くくりが赤坂の喰違い、大抵昔から相場がきまってらあ"(お七)
喰違見附跡 2006
四谷見付 よつやみつけ 御慶(旺文鑑賞2:08) など 8件7題 (圓朝1件, 東京7件) 千代田区麹町6 → 北村辞典.江戸城三十六見付の一つ.四谷駅前.麹町から甲州方面への防備を果たす.新四谷見附橋東詰に見附の石垣が残っている.
"これを少し四谷御門のほうにおいでになりますと、二軒ばかり刀屋がございますんで"(御慶)
四谷見附跡 2009
麹町 こうじまち 厩火事(立文楽1:13) など 113件48題 (圓朝4件, 東京109件) 千代田区麹町,新宿区四谷 → 北村辞典.半蔵門から四谷見付を越え,新宿区に入りこむ長い町.麹町十三丁目(木の葉狐)は新宿区に分類した.麹町の名前は頻出するが,何といっても焼き物を愛する麹町のさる旦那が住んでいた.ほ里つは,享保2(1717)年創業,将軍家御用達の茶道具商.御茶壺道中も日本橋通四丁目の店に立ち寄るような格式があった.戦災にあって麹町1-3へ移転してきた.
"これにその反対をした話がある。麹町にねェ、さるお邸の旦那さまがあったんだよ"(厩火事)
麹町ほ里つ 2011
平河天神 ひらかわてんじん 残る月影(残る月影 義侠仇討, 文明林 (1900))など 千代田区平河町1-7 平河天満宮.用例の白川天神は.平河天神の誤り.太田道灌が江戸城内に勧請した天神社.その後,平川門外を経て,慶長12(1607)年に現在の土地に移転した.鎮座地の町名も,神社に由来した平河町と呼ばれている.「ちきり伊勢屋」の死期を占った白井左近の住まいが平河町になる.
"白川天神を通り過ぎまして麹町三軒家へさしかかりますると"(残る月影)
平河天神 2011
貝坂 かいざか 文七元結(青圓生07:04) 11件1題 (東京11件) 千代田区平河町2-4〜2-8あたり → 北村辞典.平河町を南に下る.「文七元結」が,ここに元結店を開いたとの説明がお決まり.文七元結自体は,寛文ごろ製造され,宝永年間には江戸で流行ったらしい.文七に踏まるな庭の蝸牛(其角).
"このお久と文七を夫婦にして、麹町貝坂へ元結屋を開いたという"(文七元結)
貝坂 2009
日本演芸資料館 にほんえんげいしりょうかん タレント議員伝(立つばめ2:04) 1件1題 (東京1件) 千代田区隼町4-1 議員になれば日本演芸資料館を作るというヨタ話が誠になった.1979年,国立演芸場内に設けられた国立演芸場資料館として実現した.2003年には,伝統芸能情報館が開館し,歌舞伎・邦楽とならんで演芸資料も移管された.1階は展示室,2階が図書閲覧室になっている.
"政治家になって、まず第一にはじめたのが(中略)ぐっとバカバカしい、日本演芸資料館を作ろうとして、国会で活躍している"(タレント議員伝)
伝統芸能情報館展示室 2019
三宅坂 みやけざか のっぺらぼう(青也沢田一矢:2) など 3件3題 (東京3件) 千代田区永田町1 堀端を北へ上る.三河田原藩三宅対馬守の上屋敷があったことによる.現在は,最高裁判所と国立劇場がならんでいる.名人圓喬らによって1905年に開かれた落語研究会は,この50年以上は国立小劇場で開催されている.
"泊まっていけてェのを無理に断って赤坂を出た。途中三宅坂から九段まではなにごともなかったが"(のっぺらぼう)
三宅坂 2012
半蔵門 はんぞうもん ちきり伊勢屋(騒人名作01:02) など 7件4題 (東京7件) 千代田区千代田 江戸城三十六見付の一つ.服部半蔵屋敷に由来する.桜田堀と半蔵堀の間にある江戸城・皇居の御門.「ちきり伊勢屋」,白井左近の屋敷がここ(あるいは平河町)にあった.堀端は桜の名所.
"よんどころなく江戸へ出て、麹町半蔵御門外へ出て、夜分辻占を致し"(ちきり伊勢屋)
半蔵門 2006
番町 ばんちょう 首屋(講明治大正3:46) など 100件47題 (圓朝14件, 東京86件) 千代田区九段北,九段南,富士見,一番町,二番町,三番町,四番町,五番町,六番町,麹町 → 北村辞典.表四番町(お里の伝),三番町(黄薔薇)等々,複雑な町割りの武家地.道に迷いやすく,"番町の番町知らず"と言われた.今の番町の町割りとはまったく違うのでさらに混乱する.与太郎が浪人者に汁粉をだまし取られる「石返し」や,試し斬り用に自分の首を売って歩く「首屋」の舞台.
"番町辺りを大きな声を出して、首の処へ風呂敷を縛り付けて「首や首や………」"(首屋)
番町の石垣  2023
御厩谷 おうまやだに 大坂屋花鳥(立名人名演10:05) など 5件3題 (圓朝1件, 東京4件) 千代田区三番町 → 北村辞典.「島鵆沖津白浪」のうち,大坂屋花鳥の廓抜けの冒頭,旗本の梅津長門の屋敷が番町の御厩谷に設定されている.三番町と四番町の間を東西に抜ける通り.東に向かってわずかに下っている.現在は,番町学園通りと呼ばれており,御厩谷の表記は見あたらない.坂下の大妻女子大のところから北に向けての坂に,御厩谷坂の名がつけられている.旺国社の馬生全集にある「番町のお厩台」も御厩谷のこと.
"梅津長門という、お旗本がございまして、四百石を、もらいまして、そしてェ、無役。お厩谷へ住んでおります"(大坂屋花鳥)
御厩谷 2023
市ヶ谷御門 いちがやごもん 月謡荻江一節(角川円朝5:03) 1件1題 (圓朝1件) 千代田区九段北4 番町から市ヶ谷への市ヶ谷見附.枡形は失われ,市ヶ谷駅前に見附石垣の石が数個置いてある.巨石の烏帽子石は,日比谷公園南東隅に移設されている.地下鉄南北線市ヶ谷駅には,博物館ばりに復元された雉子橋御門の石垣が展示されている.
"早々帰れというからぼんやりとして福永は帰りまして、市ヶ谷御門へ掛かりまする"(月謡荻江一節)
市ヶ谷見附烏帽子石 2006
千鳥が淵 ちどりがふち 蜀山人(柳家小満ん口演用「てきすと」 22, てきすとの会 (2016)) 千代田区北の丸公園1 皇居のお堀をいろどる桜の名所.手こぎボートで乗り出せる.堀の外側は戦没者墓苑,内側は御所と北の丸公園になる.ここに徳川田安家の上屋敷があった.
"千鳥が淵の角の処で、あの石垣の上が丁度、田安邸のあった処で厶います"(蜀山人)
千鳥ヶ淵 2011
代官町 だいかんちょう 木の葉狐(演芸倶楽部, 2(8) (1912))など 千代田区北の丸公園 江戸城の敷地内にあたり,代官町は通称名だった.江戸初期に代官屋敷があったことに由来する.その後は,清水家,田安家の屋敷が置かれた.明治に入って,代官町という町名になった.首都高の代官町ランプや代官山通りに名を残す.江戸時代から,半蔵門から竹橋御門に抜ける道が,諸人通行路として開放されていた.寂しい場所だったらしく,夜分にそこを通った踊りの師匠が,とっさにキツネの使いだと嘘をついて気弱な男たちをだますのが,用例の「木の葉狐」になる(→ 絶滅危惧落語「木の葉狐」).地下鉄などが利用できるので,わざわざ歩いて通るメリットは少ない.皇居一周のランナーは,ここをグルグルと回っている.
"殊に代官町辺りは夜分になると誠に淋しく毎度悪漢(わるもの)の為に悩まされた者がございました"(木の葉狐)
代官町 2023
靖国神社 やすくにじんじゃ 小言幸兵衛(青圓生02:01) など 7件3題 (東京7件) 千代田区九段北2,3 靖國神社.招魂社が改称したものなので,同じクスグリでも,古い速記では"九段なら招魂社"となっている.国家神道を代表する施設のため,首相閣僚参拝のたび,国内外で物議をかもす.境内にはサクラ開花の標本木のソメイヨシノがある.まだまだ写真のような勇ましいレリーフを見ることができる.爆弾を抱えた作江・北川・江下の3人が,廟工鎮の鉄条網を自爆突破した「爆弾三勇士」は,桂小春團治の新作落語になっている.
"この段なぞはなかなか伺えるもんじゃァない、この段だから伺うという、九段なら靖国神社がある"(小言幸兵衛)
爆弾三勇士像 2011
靖国神社:大村益次郎の銅像 おおむらますじろうのどうぞう 蔵前駕籠(立名人名演10:01) 1件1題 (東京1件) 千代田区九段北2-1 高い台座の上に上野の彰義隊を攻める大村益次郎の姿.靖国神社境内に現存する東京を代表する銅像で,1886(明治19)年の建.許可を取り撮影.
"総参謀が、九段に、……銅像になっていらっしゃいますな、大村益次郎、あのお方でございます"(蔵前駕籠)
大村益次郎の銅像 2023
招魂社 しょうこんしゃ お目見え(講明治大正7:25) など 16件12題 (東京16件) 千代田区九段北2,3 → 北村辞典.招魂社は現在の靖国神社.お盆の時期のみたままつりには,浴衣の男女がたくさん集う.「蟇の油」や「両国八景」の世界をしのばせる見世物小屋が出ていた.また,招魂社のお化け屋敷は,噺の中にも出てくる.因果物やこしらえ物の見世物はさすがにないが,ヘビを食いちぎる蛇女は必見だった.
"其ぢやア去年の招魂社の御祭の時そんな観せ物が出て居たが、お前だつたかね"(お目見え)
蛇女の見世物小屋看板 2010
招魂社:常夜燈 じょうやとう 初夢(講明治大正2:21) 1件1題 (東京1件) 千代田区九段南2 九段坂上にある招魂社の常燈明台のことだろう.明治4(1871)年の建で,東京湾からも望めたという.石垣を土台としたヘンな形.靖国神社側から道をへだてた田安門側へ移設されている.写真のように,点灯,ライトアップされる.
"あれが招魂社、そのわきに常夜燈がございましょう"(初夢)
常燈明台 2006
世継稲荷 よつぎいなり 狂歌家主(弘文柳枝:14) 1件1題 (東京1件) 千代田区九段北1-14 狐つき(大文館,新落語全集(1932))にも登場する.戦災にあった築土明神境内が移転してきて,境内末社のような位置になっている.戦後の社殿は建てかえられ,高いビルに囲まれて全く様変わりしている.代々世継ぎを示すダイダイの巨木が社を見おろすように立っている.用例の「狂歌家主」の五十稲荷は,解説にある世継稲荷とするよりも,小川町の五十稲荷(別項)の方ではないか.
"六日が六毘沙六地蔵で、五日が五十稲荷……縁日屋だな、まるで"(狂歌家主)
世継稲荷 2023
九段坂 くだんざか 素人人力(講明治大正7:17) など 41件27題 (圓朝7件, 東京34件) 千代田区九段北1 → 北村辞典.靖国通りを西へ,靖国神社の大鳥居へと上る.今よりもずっと急坂で,坂下に荷車の後押しがたむろしていたという.
"こないだ九段坂の上で車屋に、モシ五拾銭あげるから私を乗つけて九段を馳け降りて見ないか"(素人人力)
九段坂 2012
牛ヶ淵 うしがふち 暦ずき(角川円朝4:20) など 3件3題 (圓朝1件, 東京2件) 千代田区北の丸公園 → 北村辞典.江戸城内堀.十二支の出る地名として登場する.九段坂を登り,田安門へ至るあたりから見おろせる.遠目に九段会館(軍人会館)が見える.もとの建物を生かして建てかえられ,屋上から牛ヶ渕を見おろすことができる.
"初め牛ヶ淵へ行って、虎ノ門へ出て"(暦ずき)
牛ヶ淵 2008
竹橋御門 たけばしごもん 鋳掛屋松五郎(短)(柳家小満ん口演用「てきすと」<拾遺> 6, てきすとの会 (2021)) 千代田区一ツ橋1 江戸城三十六見付の一つ.竹橋の名は,最初にかけられた橋が竹でできていたからと伝える.枡形や石垣の多くは撤去されていて,竹橋からまっすぐに皇居東御苑の入口である北桔橋へと通じている.正面に見えるのは,毎日新聞社が入るパレスサイドビル.
"お屋敷を出まして、竹橋御門から真っ直ぐに"(鋳掛屋松五郎(短))
竹橋御門跡 2023
雉子橋御門 きじばしごもん 暦ずき(角川円朝4:20) 1件1題 (圓朝1件) 千代田区一ツ橋2 こちらも,十二支の出る地名として登場する.江戸城三十六見付の一つ.外堀に架かる雉子橋を渡ると見付になっていた.見付の屈曲を解消したため,現在の雉子橋は江戸時代よりも東に架かっている.発掘された雉子橋御門の石を,打ち込みハギの技法によって組み直し,地下鉄南北線市ヶ谷駅構内に展示してある.
"それから雉子橋御門や何かをまわりまして"(暦ずき)
雉子橋見付の石垣 2020
平河門 ひらかわもん 夫婦幽霊(円朝芝居噺 夫婦幽霊, 講談社 (2007)) 千代田区千代田 江戸城三十六見付の一つ.平川御門.古典落語には出てこなかった.普段は開かず,犯罪者等を通すため,不浄門と呼ばれた.
"平河門のあたりで右に折れ"(夫婦幽霊)
平川門 2007
神田見付 かんだみつけ 水戸光圀卿(小野彦三郎 (1894))など 千代田区大手町1〜内神田1 現在の神田橋のところにあった江戸城三十六見付の一つ.ここから北へ行くと,筋違御門を経て御成街道につながる.将軍寛永寺参詣のルートにあたる.高速道路のランプの下に,見付の石垣が残っているのが見える.
"数寄屋河岸を真っ直ぐに神田の見付から富阪へおいでになった時分"(水戸光圀卿)
神田橋御門石垣 2019
護持院ヶ原 ごじいんがわら 首提灯(筑摩古典03:14) など 13件11題 (圓朝2件, 東京11件) 千代田区神田錦町1〜3 → 北村辞典.錦町一帯に広がる護持院跡地の火除地.四番ヶ原まであった.試し斬りの名所で,なまくら刀で毎晩殴りに来られてはたまらない.
"護持院ヶ原で非人が薦を着て寝ておった。一刀ォのもとに斬り捨てたな"(首提灯)
ごじいんがはら跡石柱 2008
五十稲荷 ごとういなり 狐つき(大文館,新落語全集(1932)) 千代田区神田小川町3-9 「狐つき」の稲荷づくし.足利戸田家屋敷神で,5,10の日に織物市が立ったことにより,"ごとういなり"と呼ぶ.かつては,五十の縁日といってにぎわった.現在の五十稲荷は,神保町の真裏なのに全く異空間の雰囲気がある.
"小川町の五十稲荷なんと、きたしにあ、高襟(はいから)がいくらもくらあ"(狐つき)
五十稲荷 2006
一ツ橋見付 ひとつばしみつけ 倭歌敷嶋譚(金桜堂 (1889)) 千代田区大手町1〜神田錦町3 江戸城三十六見付の一つ.丸太の一本橋だったことが,一ツ橋の名の由来という.橋の上から,見付の石垣を見ることができる.門外は護持院ヶ原,門内には幕府精米所である御舂屋と徳川一橋家の上屋敷があった.東京商科大学の後身,一橋大学も郊外に移転してしまい,渋沢栄一が名づけた如水会館を残すばかり.
"鎌倉河岸からいくらもございません見附を入ると直ぐでございます"(倭歌敷嶋譚)
一ツ橋見付石垣 2019
爼橋 まないたばし 英国孝子ジョージ・スミスの伝(角川円朝6:05) など 8件7題 (圓朝2件, 東京6件) 千代田区神田神保町〜九段南1 → 北村辞典.日本橋川に架かる.難読でもあり,気になる由来がはっきりしない橋名.江戸時代は東へ抜ける道路はなく行き止まりだった.その後,拡幅された靖国通りとなる.かつては市電,今は地下に都営新宿線が通る.
"下りかかった時は構わないでうっちゃって置いてその車が爼橋まで下ってから、いったん空車にして、後で少しばかりの荷をつけて上げた方がよろしい"(英国孝子ジョージ・スミスの伝)
爼橋 2012
日比谷の大神宮 ひびやのだいじんぐう 按摩の幸次(文芸倶楽部, 29(5) (1923))など 千代田区富士見2-4 東京大神宮.1880(明治13)年,伊勢神宮の遙拝殿として日比谷(有楽町1)に創建された.関東大震災後,現在の飯田町に移転した.戦後,東京大神宮と改称している.速記に,婚礼はこことあるように,神前結婚式をはじめた神社として知られる.左手に見える建物が結婚式場.
"婚礼は日比谷の大神宮が宜いだらう"(按摩の幸次)
東京大神宮 2023
飯田町 いいだまち 心中時雨傘(角川円朝7:05) など 9件7題 (圓朝3件, 東京6件) 千代田区九段南,九段北,富士見 → 北村辞典.小石川御門の内側,武家屋敷がたちならぶ.そのせいなのだろうか,人の悪いが飯田町と言い習わされた.国鉄の貨物駅の時期が長く,最後まで紙の物流基地の役割を果たしていた.跡地の再開発後も,名残のようにレールが敷かれている.
"北の御町奉行は飯田町黐の木横丁にお屋敷があって、三千五百石のお録高でいらっしゃる浅野備前守様"(心中時雨傘)
飯田町 2021
牛込見付 うしごめみつけ 珠数つなぎ(講談雑誌, 9(9) (1923))など 千代田区富士見2 江戸城三十六見付の一つ.御門は明治のはじめに撤去されたが,飯田橋駅西口を出たところに見付の石垣がそびえる.切り通しの線路の右手は江戸城外堀で,牛込堀に面したボートハウス(旧東京水上倶楽部)がカフェを営業している.
"あれから、牛込御門を越えて大曲りから江戸川にかかり富坂とまゐりました"(珠数つなぎ)
牛込見付 2023
黐木坂 もちのきざか 怪談小夜衣(大川屋書店 (1916)) 千代田区九段北1〜富士見1 九段の和洋学院とフィリピン大使館の間を西に登る坂.今は冬青木坂(もちのきざか)と呼ばれている.坂上の青山辰之介の屋敷にモチノキが植えられていたことによる名だという.明治になってからは,鉄道事業に力を尽くした天下の雨敬こと雨宮敬次郎の屋敷になっている.「心中時雨傘」に出てくる黐の木横丁も,このあたりにあったのだろう.
"飯田町黐木坂下に大層なる御屋敷を構へ、御家来も数多あります"(怪談小夜衣)
冬青木坂 2023
堀留 ほりどめ 黒手組戸沢助六(駸々堂 (1890))など 千代田区飯田橋2・西神田3 江戸初期に,現在の小石川橋と堀留橋の間の江戸城外堀を埋めたてて,あたらにお茶の水方面に開鑿した神田川とつなげた.今はふたたび小石川橋まで水路がつながっている.高松藩大名屋敷の発掘調査で,土留め工事の様子が見つかっている.もう1件の用例は,『百花園』に載った「天和政談」になる.
"飯田町掘留の夢の市郎兵衛と云ふ屋敷稼業侠客の家"(黒手組戸沢助六)
堀留橋 2023
小石川見付 こいしかわみつけ 薬種屋政談(上・初稿)(柳家小満ん口演用「てきすと」<拾遺> 7, (2022)) 千代田区飯田橋3 江戸城三十六見付の一つ.現在の小石川橋のところになる.明治5年に撤去された枡形の石垣は,日本橋川に架かる常盤橋の建造に使われた.今は何も残っていないが,やや離れたJRガード脇の空き地に,飯田町土地区画整理事業の竣工記念と書かれた碑があり,そのそばに汽車の動輪らしいものと,石垣の切り接ぎっぽい巨石が何の説明もなく置かれている.
"小石川見附を出て水戸様の百軒長屋の前を通って、どんどんという橋がある"(薬種屋政談(上・初稿))
小石川御門そばの巨石 2023
三崎町 みさきちょう 嘘つき村(大空SP05:16) 1件1題 (東京1件) 千代田区三崎町 水道橋の南側.江戸時代は武家地で,明治になって三崎町となった.三崎稲荷(狐つき,新落語集,大文館(1932))がある.谷中の三崎(さんさき)とは唱えがちがう.
"三崎町の原に大名と旗本の大喧嘩があるって"(嘘つき村)
三崎稲荷 2009
水道橋 すいどうばし 敵討札所の霊験(角川円朝2:03) など 5件5題 (圓朝2件, 東京3件) 千代田区〜文京区 → 北村辞典.今の水道橋に示されたレリーフのように,神田川に水道懸樋が渡されていた.水道橋駅のやや東,猿楽町2から文京区本郷1に架かっていた.びっくりしたことに,線路側には神田川に沿って桟道のようなものが付いている.
"これから極楽水を出まして、あれから壱岐殿坂の下へ出てまいり、水道橋を渡って小川町へ来て"(敵討札所の霊験)
水道橋跡 2009
胸突坂 むねつきざか 霧陰伊香保湯煙(角川円朝2:02) 1件1題 (圓朝1件) 千代田区神田駿河台1-1〜1-3 → 北村辞典.明大通りを山の上ホテルの方へと西に向けて上る急坂.特に表示はない.
"旧幕の折には駿河台胸突坂にいまして、二千五百石頂戴致した小栗上野介という人の妾の子でござりまする"(霧陰伊香保湯煙)
胸突坂 2011
小川町 おがわまち 操競女学校-お里の伝(角川円朝3:06) など 38件28題 (圓朝6件, 東京32件) 千代田区神田小川町あたり → 北村辞典.小川町の交差点で一番目立つのは,坊主頭の顔のワイシャツだろうが,武家の町らしい老舗も多い.顔のワイシャツの左手,1軒おいた檜書店は,京都で創業し,戦災を受けながらも今も謡本の専門書店として存在感を示している.小山弓具点も,江戸時代から続く和弓専門店.
"小川町で表御番医師を勤めました長尾全庵さま方へやったが、少しも手掛かりが知れないからすぐに下げて"(操競女学校-お里の伝)
小川町 2020
駿河台 するがだい 塩原多助一代記(角川円朝5:01) など 21件17題 (圓朝4件, 東京17件) 千代田区神田駿河台1〜4 → 北村辞典.大久保彦左衛門屋敷跡碑は杏雲堂病院の前庭にある.ニコライ堂は,明治期に駿河台の上に建てられた正教会の大聖堂.国重文.日本に正教を伝道したロシア人聖ニコライの名がついている.ニコライ堂と湯島聖堂を避けて,聖橋は神田川に対して斜めに架かっている.
"雨がポツリポツリと降ってまいりますから、駿河台を下りて昌平橋へ掛かりました"(塩原多助一代記)
駿河台 2009
明治法律学校 めいじほうりつがっこう 松竹梅(講明治大正5:12) 1件1題 (東京1件) 千代田区神田駿河台1 明治大学の前身.開学の地は有楽町で,明治法律学校は1881〜1903年の名称.今も明大法学部は,日本指折りの学府.旧刑事博物館は薄暗く,その展示物の内容とあいまって実に不気味だった.いまは,生活具,考古学資料とともに,明治大学博物館にまとめられている.微笑みをたたえるニュルンベルクの鉄の処女やギロチン,獄門台などの処刑具,拷問具は,日本でここだけの展示という.
"明治法律学校を勉強しておりますうちに、伯父は病死しましたから"(松竹梅)
明治大学博物館刑事展示グッズ 2020
ニコライ堂:鐘 かね 野晒し(騒人名作11:14) など 5件1題 (東京5件) 千代田区神田駿河台4 ニコライ堂の鐘は,圓遊系の「野ざらし」に出てくる.今も12時になるとグワーンというロシアの音色を響かせている.
"ニコライの鐘はぐヮんじゥぐヮんじゥときましょう?"(野晒し)
ニコライ堂の鐘 2009
太田姫稲荷 おおたひめいなり 塩原多助一代記(角川円朝5:01) など 2件2題 (圓朝2件) 千代田区神田駿河台4 → 北村辞典.織田姫稲荷とあるのは,太田姫稲荷が正しい.太田道灌が勧請した稲荷社.淡路坂上にあったが,神田駿河台1-2に移転している.旧地である聖橋南東詰のムクの木に,元宮の木札がついている.
"日の暮れるまであっちこっちとうろうろ歩いて、駿河台の織田姫稲荷の所へ参りますと、もう腹が減って歩けません"(塩原多助一代記)
太田姫稲荷元宮 2023
淡路坂 あわじざか 蜀山人(柳家小満ん口演用「てきすと」 22, てきすとの会 (2016)) 千代田区神田駿河台2,神田淡路町2 御茶ノ水駅から,線路に沿って昌平橋の方へ下る坂.文化9年,蜀山人は坂上に家をもった.蜀山人終焉の地(文政6年)と岩崎弥之助邸跡を示す説明板がある.
"駿河台の淡路坂の処に、念願の家を拝領致しまして、ここを<杏花園>と名付けました"(蜀山人)
淡路坂 2019
杉野兵曹長の銅像 すぎのへいそうちょうのどうぞう 縮みあがり(名人名演 落語全集 6, 立風書房 (1982)) 千代田区神田須田町1-25 万世橋駅前の広場にあった銅像は,東京名所だった.台座の上に廣瀬中佐,根方に杉野兵曹長の像.旅順口爆破作戦の途中,杉野は船底で行方不明になる."杉野はいずこ"は,捜索にあたった廣瀬中佐の名文句.万世橋駅跡の交通博物館が閉館後,レンガ造りの商業施設になっている.その中に,駅のジオラマが展示されていた.
"まるで万世橋に立っている杉野兵曹長みたような恰好だな"(縮みあがり)
廣瀬中佐・杉野兵曹長像 2019
須田町 すだちょう 遠山政談(青圓生06:05) など 13件9題 (圓朝7件, 東京6件) 千代田区神田須田町1 → 北村辞典.多町に隣接しており,こちらにも青物市がたった.交差点北の廣瀬中佐の銅像と生地の竹田(大分県)は別項.「黄金餅」の道中付け.今の須田町には,写真の甘味竹むら(都選定歴史的建造物),あんこう鍋の伊勢源(都選定歴史的建造物),すき焼きのぼたん,蕎麦のまつやと,名店が並んでいる.
"石町を出まして、あれから須田町、昌平橋、明神坂上がって本郷三丁目へ"(遠山政談)
お汁粉竹むら 2006
藪蕎麦 やぶそば 蕎麦の殿様(立名人名演04:10) 1件1題 (東京1件) 千代田区神田淡路町2-10 1880(明治13)年創業の蕎麦屋.団子坂の薮蕎麦(松と藤芸妓の替紋)の分家.小腹にいれるか,それともせいろ2まぁぁぁぁいか.2013年に出火して,写真の建物は建てかえられたが,営業再開している.
"ただいまは"藪"という名のついた蕎麦屋さんがたくさんございまする。あれはご存知のとおりご本家は須田町で"(蕎麦の殿様)
神田の薮 2005
小柳町 こやなぎちょう 三方一両損(三一談志5:08) など 14件5題 (圓朝2件, 東京12件) 千代田区神田須田町1,2 → 北村辞典.「三方一両損」,大工の熊五郎の住まい.竪大工町と小柳町で,人気を二分している.
"神田小柳町大工の吉五郎としてあらぁ。この野郎が落としたに違えねえや"(三方一両損)
神田浜町日本橋北之図(尾張屋板江戸切絵図) 2020
万惣 まんそう 千両みかん(青正蔵1:09) など 6件1題 (東京6件) 千代田区須田町1-16 弘化3(1846)年創業の果物商.多町周辺の青果問屋の一つ.夏場に1個千両のみかんを商うと,「千両みかん」で名前が挙げられることもある.フルーツパーラーも併設し,ホットケーキは70年の歴史を誇った.2012年に,惜しくも閉店した.隣は落語研究会が開かれた神田の立花亭だった.
"みかんが今あるのは、多町の万惣って家ィ行ったかい?"(千両みかん)
万惣ホットケーキ 2006
多町 たちょう 位牌屋(講明治大正3:44) など 21件5題 (東京21件) 千代田区神田多町あたり → 北村辞典.青物問屋がならんでいた.「位牌屋」の芋の買いだし,真夏のミカンの掘りだしが多町の市場になる.写真の碑は神田須田町1-10にあったが,千代田区が預かった後,神田須田町1-8に場所を移して建て直された.
"買出しはどちらで?ェェ、多町です"(位牌屋)
神田青果市場発祥之地碑 2012
豊島屋 としまや 業平文治漂流奇談(角川円朝3:02) 1件1題 (圓朝1件) 千代田区内神田1,2 → 北村辞典.鎌倉河岸の酒屋.慶長元(1596)年の創業.今は猿楽町1-5に移転している.雛祭りの白酒が江戸中の人気を得た.今も白酒は季節ものとして頒布される.
"何か土産を持って行きてえが何がいいだろう、本所は酒がよくねえから鎌倉河岸の豊島屋で酒をかたうま買って行こう"(業平文治漂流奇談)
豊島屋の白酒 2006
龍閑町 りゅうかんちょう わら人形(青正蔵1:08) など 4件2題 (東京4件) 千代田区内神田3 → 北村辞典.「藁人形」で西念をだましたお熊の糠屋に設定される.千代田区と中央区の境をなす龍閑川の西端に,龍閑橋(新作「橋の上の男」)が架かっていた.1950年,埋め立てにより廃止となる.1926年に作られた鉄筋コンクリートトラス橋の一部が,本石町4-1の公園に残っている.
"もとは、神田の、竜閑町で、糠屋の娘"(わら人形)
龍閑橋 2011
今川橋 いまがわばし 三井の大黒(青三木助:09) など 16件2題 (東京16件) 千代田区鍛冶町1 → 北村辞典.龍閑川に架かっていたが,戦後埋め立てられた.大通りであり,「黄金餅」の道中で渡る.今川橋の碑は,1976年に企業がたてたもの.
"今川橋のすぐ近く、あの辺がちょうど八丁堀にあたるそうでして"(三井の大黒)
今川橋のあとどころ 2007
竪大工町 たてだいくちょう 三方一両損(筑摩古典05:05) など 40件10題 (圓朝1件, 東京39件) 千代田区内神田3 → 北村辞典.神田駅のすぐ西.大工職が住居した.「大工調べ」「三方一両損」「子別れ」に「粗忽の使者」の留っこ.堅大工町との誤植がひどく多い.
"神田竪大工町大工吉五郎、同じく白壁町左官金太郎、付添人一同控えおるか"(三方一両損)
神田浜町日本橋北之図(尾張屋板江戸切絵図) 2020
徳力 とくりき 一文惜しみ(青圓生10:08) など 3件2題 (東京3件) 千代田区鍛冶町2-9 創業は享保12(1727)年といわれる金地金商.幕府御用もつとめ,同業のまとめ役だった.今も貴金属全般のトップブランド.「一文惜しみ」に出てくる徳力屋万右衛門は悪役,ぷらちな奴.
"三河町で、徳力屋万右衛門という質屋がある。いろは倉で、倉が七戸前もあるという"(一文惜しみ)
徳力 2011
白壁町 しらかべちょう 三方一両損(講昭和戦前5:26) など 23件2題 (東京23件) 千代田区神田鍛冶町2,内神田3 → 北村辞典.神田駅の東.左官職が住居した.「三方一両損」,左官の金太郎の住まい.あとは「居残り佐平次」のタンカ,親父は神田白壁町でかなりの暮らしをしていましたが,生まれついての悪性で,抜け詣りからぐれだして…….
"神田の白壁町の左官の金太郎という者だといったら、金太郎だ、金太郎にしては赤くねえ、まだ茹でねえな"(三方一両損)
神田浜町日本橋北之図(尾張屋板江戸切絵図) 2020
紺屋町 こんやちょう 紺屋高尾(青圓生09:04) など 15件7題 (圓朝1件, 東京14件) 千代田区神田紺屋町あたり → 北村辞典.白壁町よりさらに東.こうやちょうとも.紺屋職人が住居した.「紺屋高尾」の親方の家もここで,女郎買い指南の先生が住むお玉が池も近い.
"神田紺屋町という、軒を並べて染物屋さんが商売をしている"(紺屋高尾)
神田紺屋町(広重名所江戸百景) 2020
お玉ヶ池 おたまがいけ 佃祭(筑摩古典03:07) など 34件12題 (圓朝1件, 東京33件) 千代田区岩本町2,神田東松下町 → 北村辞典.二人の男から懸想されたお玉が入水したという.箱根のお玉ヶ池にも似た話が伝わる.池が埋められた後も,お玉ヶ池で通った.女郎買いの得意な武内蘭石先生,『人形佐七』(横溝正史)や北辰一刀流千葉周作の道場がここ.池跡を示すものに繁栄お玉稲荷がある.
"あたしは神田お玉ヶ池におります、小間物渡世をしております次郎兵衛と申しますもの"(佃祭)
北辰一刀流千葉周作墓 2005
橋本町 はしもとちょう 首提灯(講昭和戦前4:30) など 9件6題 (圓朝1件, 東京8件) 千代田区東神田1,2 → 北村辞典.胴切りされた足の方が奉公する蒟蒻屋があった.
"足の方はどこへ行ってるんだい。あいつはね、橋本町の蒟蒻屋へ行ってるんだがね"(首提灯)
神田浜町日本橋北之図(尾張屋板江戸切絵図) 2020
和泉橋 いずみばし 遠山政談(集英圓生3:12) など 7件6題 (圓朝3件, 東京4件) 千代田区岩本町3〜神田佐久間町 → 北村辞典.現存.神田川に架かる.北に伊勢津藩藤堂和泉守の上屋敷(神田和泉町)があったことによる.
"広小路から御徒町、あれから右へ切れまして松永町から和泉橋へ出ましたのが今の時間でいう二十三時ごろ"(遠山政談)
和泉橋 2011
柳原 やなぎわら 世辞屋(角川円朝4:32) など 68件35題 (圓朝4件, 東京64件) 千代田区神田須田町2,岩本町3,東神田2 → 北村辞典.神田川,和泉橋あたりの南岸の地名.南詰に説明板がある.土手に古着屋が軒をならべており,柳原物と呼ばれるいかものが多かった.「三方一両損」で財布を拾い,「御神酒徳利」の番頭義父が大道易者をやっている.
"君は大層よい衣服を買うたな、どこで買うた、ナニ柳原で八十五銭、安いの"(世辞屋)
柳原の土手柳森神社 2010
秋葉原駅 あきはばらえき 綴方狂室(毎日三百年3:09) 1件1題 (東京1件) 千代田区外神田1 かつては全国でも珍しい立体交差の駅だった.読みは"あきはばら"だが,略称は"アキバ".元の秋葉っ原を引きずっている.はるか昔のことだが,長い階段の踊り場にバナナの叩き売りが出ていた.今はミルクスタンドが懐かしい.20種以上もの牛乳のビラが下がっている.
"彼女はとうに秋葉原"(綴方狂室)
秋葉原駅 2012
万世橋 まんせいばし かぼちゃ屋(青小さん2:07) など 32件19題 (圓朝5件, 東京27件) 千代田区外神田1〜神田須田町2 筋違橋の取り壊しの翌年,1873(明治6)年に架橋された石橋.2つのアーチがあり,眼鏡橋(お七など)や,よろずよばしと呼ばれた.慢性の馬鹿で須田町のクスグリ(かぼちゃ屋)は,もう通じないだろう.万世橋際で目立っている肉の万世の方が,とおりが良さそう.旅のお供には,カツ倍量の弐万かつサンドがおすすめ.
"「おめえの馬鹿は慢性の馬鹿だ」「その先が須田町だ」"(かぼちゃ屋)
万世橋 2009
筋違橋 すじかいばし 塩原多助一代記(角川円朝5:01) など 2件2題 (圓朝1件, 東京1件) 千代田区外神田1-1〜神田須田町1-25 筋違御門が置かれていたところに架かる.川は神田川.「黄金餅」のルートになっているように,江戸を南北に貫くメインストリート.須田町へのルートに対して斜めになっていた.1873(明治6)年,万世橋に取ってかわられる.今は旧万世橋駅の煉瓦塀がたちはだかる.
"筋違橋内戸田能登守の家来野沢原作"(塩原多助一代記)
筋違橋跡煉瓦塀 2006
昌平橋 しょうへいばし 遠山政談(青圓生06:05) など 13件9題 (圓朝7件, 東京6件) 千代田区神田淡路町2〜外神田 → 北村辞典.神田川に架かる.昌平坂学問所に由来する.「遠山政談」という落語で,妊娠した女を俵に詰めて背負い,須田町から本郷と歩き回って,和泉橋で捨てる道中にあたる.写真左手の万世橋駅跡は,マーチエキュート神田万世橋という商業施設としてリニューアルされた.
"石町を出まして、あれから須田町、昌平橋、明神坂上がって本郷三丁目へ"(遠山政談)
昌平橋 2012
神田川(鰻) かんだがわ 素人鰻(講明治大正2:04) など 13件5題 (東京13件) 千代田区外神田2-5 → 北村辞典.明神下の鰻屋.文化2(1805)年の創業以来のタレを受け継ぎ,火事などの時には壺を持って逃げるという.「素人鰻」の金が修業したお店.
"これは神田川の金と申す鰻割きの職人である。酒を飲まンと猫のようなやつであるが"(素人鰻)
神田川の鰻重 2006
神田明神 かんだみょうじん 百川(青圓生04:05) など 57件29題 (圓朝2件, 東京54件, 上方1件) 千代田区外神田2-16 → 北村辞典.神田神社.江戸初期の元和年間に,芝崎(大手町)から移転してきた.将軍の崇敬も篤い,江戸の総鎮守.明治政府が祭神の平将門を追い出し,大己貴命,少彦名命とする.江戸っ子は将門の方だけに参拝したという.江戸三大祭の一つ,神田祭で知られる.
"山王の祭、神田祭とくると、これァ天下祭と名付けまして、将軍家がご上覧になったという"(百川)
神田明神 2009
神田明神:男坂 おとこざか 鶴殺疾刃庖刀(角川円朝7:02) 1件1題 (圓朝1件) 千代田区外神田2 神田明神から東へ下る石段.この下がいわゆる明神下になる.1986年の写真では,石段途中の左側に開花楼の看板が見える.開花楼(夢の株式)は,明治初年に開業した名料亭だった.
"明神の男坂下の角から二、三軒目に玩具屋がござりました"(鶴殺疾刃庖刀)
男坂と開花楼 1986
相生町 あいおいちょう 盆々唄(柳家小満ん口演用「てきすと」 7, てきすとの会 (2015))など 1件1題 (東京1件) 千代田区神田相生町あたり → 北村辞典.神田相生町.現在も,秋葉原駅の北に線路をはさむかたちで,相生町が残っている.「ぼんぼん唄」は,迷子の女の子の家が,唄の文句から本所の相生町にあるとわかる,ミステリー風の落語.相生町といっても本所と神田にあると,推理を働かせる場面になる.JRガードに行ってみたが,残念ながら明神坂架道橋と名づけらていた.歩道の両側には,練塀をおもわせる図柄が描かれている.
"相生町てえのは、神田にもあります"(盆々唄)
相生町模擬練塀 2023
練塀小路 ねりべいこうじ 雁風呂(青圓生06:04) など 2件2題 (東京2件) 千代田区外神田4,神田練塀町 小笠原左京太夫の中屋敷南東,練塀町に名を残す.「天衣紛上野初花」,"とんだところへ北村大膳","練塀小路にかくれのねえ この河内山は御直参だぜ".名セリフが続出する.
"江戸では小路と申します。式部小路とか、練塀小路だとか言って"(雁風呂)
東都下谷絵図(尾張屋板江戸切絵図) 2020
黒焼屋 くろやきや 薬違ひ(騒人名作10:22) など 5件3題 (圓朝1件, 東京4件) 千代田区外神田3 → 北村辞典.黒焼屋の建物は,広小路のビル群の中にあってよく目立った.瓦葺き平屋建てで総元祖黒焼の看板が掲げられていた.ここには何軒も黒焼屋があったが,今は1軒だけ.建てかえられて,現在も営業中.店頭には標本瓶に入った炭のような黒焼が置かれている.黒焼とは,動植物を蒸し焼きにして薬効を閉じ込めたもの(お店では薬効をうたえないのかもしれないが).特にイモリの黒焼は,媚薬として知られる.「いもりの黒焼」の上方版は,恋しい人ではなく近くの米俵にイモリの黒焼をかけてしまったため,米俵が男を追いかけてくる.東京版(薬違い)は,間違えてヤモリの黒焼を使ったため,大家がやってくる.写真は,特別に見せていただいたイモリの黒焼.
"御成街道に黒焼屋さんが二軒列んで居て、両方とも本家元祖としてあるがどっちが本家だか元祖だか分りません"(薬違ひ)
いもりの黒焼 2018

掲載 060519/最終更新 230901

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