港区 | ||
坂を上がって飯倉片町その頃おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂をおりまして十番へ出て、大黒坂を上がって、麻布絶口釜無村の木蓮寺ィ来たときにはずいぶんみんなくたびれた…… (古今亭志ん生(5) 「黄金餅」) 川戸定吉・桃原弘編,『五代目 古今亭志ん生全集』 第二巻,弘文出版(1977) |
地点名 | この1題・登場回数 | 位 置 | 備 考 | 写真と撮影年 | |||
西麻布 | にしあざぶ | 砂漠のバー止まり木(砂漠のバー止まり木, 講談社(2008)) | 港区西麻布 | 古典落語には出ようがないおしゃれな町.長谷寺(港区西麻布2-21)に,箱屋峰吉殺しで知られる花井お梅(戒球院梅顔玉英大姉)の墓がある.塔婆立てに新内各派の文字が見えるところから,新内にもなっているらしい. "すごくお洒落なバーですよ。六本木とか西麻布にあるバーみたい"(砂漠のバー止まり木) |
長谷寺 花井お梅墓 | 2005 | |
百人町 | ひゃくにんまち | 八景隅田川(角川円朝7:01) など 2件2題 (圓朝1件, 東京1件) | 港区北青山3,南青山3,4 | → 北村辞典.新宿の女郎白糸のもとに通った鈴木主水の屋敷があった.「木乃伊取り」の瞽女唄に出てくる.ところ青山百人町(ひゃくにんちょう)に 鈴木主水という侍は 女房持ちにて二人の子供.子供二人のあるその中に今日も明日とも女郎買いばかり. "ところ青山百人町の鈴木主水という侍はというのとは実に雲泥の相違で、ああ恐れ入った"(八景隅田川) |
白糸塚 | 2020 | |
青山墓地 | あおやまぼち | 幽霊タクシー(普通名作5:08) など 4件3題 (圓朝1件, 東京3件) | 港区南青山2 | 美濃郡上藩青山大膳下屋敷の跡地.青山は落語には無縁で,ここもとりたてて大事な地名ではない.青山墓地には,犬養毅首相,志賀直哉,吉井勇,中村歌右衛門ら,多数の著名人の墓がある.忠犬ハチ公は,主人の上野栄三郎東大教授の墓の脇に眠っている. "お客さん、青、青山の墓地とおっしゃいますけど、お住居はどちらでしょう"(幽霊タクシー) |
ハチ公の祠 | 2006 | |
乃木神社 | のぎじんじゃ | 加藤清正(文芸倶楽部, 29(2) (1923)) | 港区赤坂8-11 | 明治天皇の大葬の日に殉死した乃木希典(のぎまれすけ)将軍を祀る神社.乃木邸に隣接して,1923年に創建された.乃木希典は,日清戦争の旅順攻略の軍功で知られる軍人.旧乃木邸とレンガ造りの廐がある乃木公園は,一般公開されている. "兎に角乃木将軍は乃木神社と崇められました"(加藤清正) |
乃木神社 | 2019 | |
青山掃除町 | あおやまそうじまち | 金玉医者(立名人名演02:11) など 3件2題 (東京3件) | 港区赤坂7 | 御掃除之者町.すべて「金玉医者」につかみこんだ「乞食の産」の小噺の例. "このごろ青山掃除町を通りかかると、乞食が産をしておったが"(金玉医者) |
今井谷六本木赤坂絵図(尾張屋板江戸切絵図) | 2020 | |
河内山宗俊の墓 | こうちやまそうしゅんのはか | ゆで卵子(玄文珍日本:02) 1件1題 (東京1件) | 港区北青山2-10 | 「天保六花撰」,宗俊こと河内山宗春は実在の人物.講談や芝居のように痛快に強請ったわけではない.文政6(1823)年に獄死した.墓は青山の高徳寺にある. "北町四丁目の寺に河内山宗俊の墓が残っているのを見まして"(ゆで卵子) |
河内山宗春の墓 | 2005 | |
青山練兵場 | あおやまれんぺいじょう | 阿七(講明治大正1:33) など 4件4題 (東京4件) | 港区北青山1,新宿区霞岳町 | 1889(明治22)年の設立.明治末期に代々木練兵場(別項)へ移転した.現在の神宮外苑になる.明治天皇が着座する場所だった御観兵榎と碑が,北青山1-7にある. "六道の辻などというと、今は練兵場になって"(阿七) |
御観兵榎 | 2006 | |
豊川稲荷 | とよかわいなり | 木の葉狐(立名人名演07:02) など 3件3題 (東京3件) | 港区赤坂4-1 | → 北村辞典.三河西大平大岡越前守の屋敷神だった.豊川稲荷の東京出店になる.現在は元赤坂1-4へ移転している.噺家色物連の本殿破風錺金具の奉納額があがっていた.かなりマニアックだが,"豊川稲荷の藤田さん 表で狐が待ってます".柳亭痴楽の物まねを談志がしている. "わたくしは神に仕えます使い姫、赤坂の豊川さまの使い姫でございます"(木の葉狐) |
豊川稲荷噺家色物連奉納額 | 2006 | |
威徳寺 | いとくじ | 堀田屋騒動(本草堂散録, 相模書房 (2010)) | 港区赤坂4-1 | 古典落語には出てこない地名.赤坂不動.赤坂の町を歩いていると,突然真っ赤な山門が現れる.坂を上ると不動堂にいたる.小ぶりながらも400年の歴史ある古刹.境内を通り抜けに使う人がやたらと多かった. "赤坂一ツ木の威徳寺前、ここに富屋という赤坂では一流の料亭がありまして"(堀田屋騒動) |
赤坂不動尊 | 2010 | |
虎屋 | とらや | 白銅(講明治大正7:45) など 2件1題 (東京2件) | 港区赤坂4-9 | 用例は黒川さん.赤坂を本店とする和菓子屋,虎屋黒川.発祥は室町時代の京都になる.デパートなどどこでも求められるが,トラ模様の千里の風というは羊羹は,本店限定品.羊羹だけでなく,蒸籠入り虎屋饅頭も進物に最適. "あの黒川さん所の家の角で、虎がうなされるてえんだが"(白銅) |
虎屋饅頭 | 2006 | |
赤坂の日朝さま | あかさかのにっちょうさま | 景清(立文楽1:08) など 12件1題 (東京12件) | 港区赤坂5-2 | → 北村辞典.日蓮宗円通寺.円通寺の項目と合わせた.修業のため盲目になりかけ,その後快復した日朝は眼の守護として知られる.日朝木像は戦災で失われた.寺に訊く時は日朝,日澄違いに気をつけないと混乱する.少なくとも今は目の守護はしていない.身延の日朝堂(別項)では目薬を頒布する.眼を患った「景清」の定次郎が日参したが,仏罰で元の木阿弥. "赤坂の円通寺の日蓮さまィ信仰しなさい"(景清) |
円通寺 | 2019 | |
溜池 | ためいけ | 蜀山人(講明治大正6:13) など 4件2題 (圓朝1件, 東京3件) | 港区赤坂1〜3 | → 北村辞典.山王権現下に広がる広大な溜め池.広い道路幅がその跡をしのばせるが,溜池交差点に発祥碑があるだけ.紀州家上屋敷から溜池,葵坂,土橋への「蜀山人」の道中づけ. "赤坂の溜池から葵坂を過ぎ芝の久保町の通りより、恰度土橋のところへかかります"(蜀山人) |
溜池発祥の碑 | 2006 | |
南部坂 | なんぶざか | らくだ(三一談志5:09) など 4件4題 (東京3件, 上方1件) | 港区赤坂2〜六本木2 | → 北村辞典.屈曲しながら北方向,赤坂氷川神社の方へ上る.討入り直前,浅野後室の瑶泉院にいとまごいに大石内蔵助が訪れたが,誤解を残したまま別れる「南部坂雪の別れ」の舞台.坂上に,三次浅野土佐守下屋敷跡がある. "大石が雪の日に別れを告げた南部坂"(らくだ) |
南部坂 | 2005 | |
澄泉寺 | ちょうせんじ | かわらけ町(青圓生14:04) など 2件2題 (東京2件) | 港区赤坂1-11 | 浄土真宗澄泉寺.境内に儒学者の林鶴梁の墓がある.澄泉寺は,根太坂,曹洞宗陽泉寺(赤坂1-11)とともに腫物に縁がある地名として登場する.両寺とも現存する.根太坂は寺前の坂らしいが不明. "坂の途中にようせん寺にちょうせん寺という寺が二軒並んでおりました"(かわらけ町) |
澄泉寺 | 2009 | |
江戸見坂 | えどみざか | 月謡荻江一節(角川円朝5:03) など 2件2題 (圓朝1件, 東京1件) | 港区虎ノ門4 | → 北村辞典.虎ノ門2と3の間を南へ上る.「月謡荻江一節」の武州川越松平大和守は坂上にあり,箭弓稲荷を開帳した.「立浪」の堅物親父も,ここから江戸市中を見晴らして,世間が広いと感心した. "八月十五日に江戸見坂の松平大和公が奥方と御同道で、柳島なる津軽公の下屋敷へ御客来にて"(月謡荻江一節) |
江戸見坂 | 2009 | |
汐見坂 | しおみざか | 旗本五人男(毎日新聞 (1897)) | 港区虎ノ門2-1〜2 | 溜池を南にとり,アメリカ大使館のところから,南東方向へゆるやかに下る坂.南西方向に上る坂は霊南坂になる.港区には,ほかにも汐見坂があるが,いずれも今は海を見ることはできない. "溜池の方へ行き汐見坂へ掛かり"(旗本五人男) |
汐見坂 | 2019 | |
明舟町 | あけふねちょう | たがや(青三木助:08) など 2件1題 (東京2件) | 港区虎ノ門2 | 西久保明舟町.明治以後の町名になる.十五世市村羽左衛門の居宅があった. "十五代目羽左衛門なんか『明舟町』"(たがや) |
明舟町々会掲示板 | 2009 | |
金毘羅 | こんぴら | 中村仲蔵(青正蔵1:15) など 4件4題 (圓朝1件, 東京3件) | 港区虎ノ門1 | → 北村辞典.金刀比羅宮.虎ノ門の金比羅さん.讃州京極家の屋敷神だった.文政4(1821)年の銅鳥居には,四神剣の霊獣がついている. "「金毘羅さまィねェ……」「虎の門にその姿で……?」「いやァ、四国だもの」"(中村仲蔵) |
虎ノ門の金比羅銅鳥居 | 2009 | |
薮小路 | やぶこうじ | らくだ(三一談志5:09) 1件1題 (東京1件) | 港区虎ノ門1 | 加藤越中守と木下主計頭との間の道路.塀から表へ飛び出た竹藪が目印だった.藪加藤で博打をうった「猫定」の定吉が,帰り道に殺される. "有馬様、田村小路、佐久間小路、藪小路"(らくだ) |
愛宕下籔小路(広重名所江戸百景) | 2020 | |
烏森 | からすもり | 居残り佐平次(青圓生05:03) など 10件6題 (圓朝1件, 東京9件) | 港区新橋2 | → 北村辞典.新橋駅前,烏森稲荷付近.狭い参道の両側に飲み屋が立ちならんでいた.「居残り佐平次」で,お連れさんとの出会いの説明.再開発されて,かつての雰囲気は少なくなってしまった. "あとからおめえ烏森の連中が来て、座敷が寂しいから居残りに口をかけてくれッて"(居残り佐平次) |
烏森稲荷参道 | 2020 | |
橋善 | はしぜん | 熊坂(講小勝:25) 1件1題 (東京1件) | 港区新橋1-7 | 天保2(1831)年創業の天ぷら屋.江戸でももっとも古い天ぷら屋だったが,今は橋善ビルとなっている.向かいには,次項の玉木屋が店を構えていた. "五右衛門が油に揚げられたのが元祖になって、天麩羅ができたと申しますが、橋善でも天金でも人間の天麩羅はない"(熊坂) |
橋善 | 1985 | |
玉木屋 | たまきや | 百両の水仙(サンデー毎日19(7) (1940)) | 港区新橋1-8-5 | 新橋玉木屋.天明2(1782)年,片側町に創業した老舗煮豆店.店名は,初代七兵衛の出身地である越後の玉木村に由来する.2022年に旧地から新橋駅の西,環状2号線ぞいに移転した.看板商品の座禅豆は,初代が"ざぜんざぜん"と江戸の町を売り歩いたからという説や,がんくい豆のへこんだ形が座禅をくんだ姿のようだという説がある.艶笑小咄でも,色事に失敗した男が見上げた看板に"させん豆"としてあると納得した.いろとりどりの煮豆が楽しく,アサリ・ハマグリ・あみ・カツオといった佃煮も扱っている. "芝口の玉木屋といふ煮豆屋さんの隣に、黒地に赤くかにやと染抜いた古い暖簾の餅菓子屋さんが今に残つてをります"(百両の水仙) |
玉木屋のざぜん豆・金時豆・うぐいす豆 | 2023 | |
新橋停車場 | しんばしていしゃじょう | 因果塚の由来(角川円朝3:01) など 13件13題 (圓朝4件, 東京11件) | 港区東新橋1 | 明治5(1872)年,新橋−横浜間に,日本初の鉄道が開通した.旧新橋駅は,再開発なった汐留の地にあった.国史跡.しばらく,荒れ地のようなところに0哩標などが取り残されていただけだったが,旧新橋駅舎などが復元整備された.旧新橋駅が烏森駅に移ったのは1914年のこと.明治期の噺や,"ステンショ","停車場"の用例は"新橋停車場"に,それ以外を"新橋駅"にカウントした. "お若と二人立ち出で、車に乗って新橋停車場へ着きました"(因果塚の由来) |
新橋駅0哩標と双頭レール | 2009 | |
露月町 | ろうげつちょう | 井戸の茶碗(角川文庫09:07) など 7件7題 (圓朝1件, 東京6件) | 港区新橋4,5,東新橋2 | → 北村辞典.現在の第一京浜沿い.芝口御門のところから,芝口,源助町,露月町,柴井町と並んでいる.「井戸の茶碗」の屑屋の得意先.西には遠山の金さんの屋敷があった. "あすこ通らねえと、お得意に行けないんですよ。芝の露月町だとかね、あの芝口のほうにね、お得意があるんすよ。あの日蔭町やなんかに"(井戸の茶碗) |
愛宕下之絵図(尾張屋板江戸切絵図) | 2020 | |
日蔭町 | ひかげちょう | 鏡ヶ池操松影(角川円朝1:03) など 15件8題 (圓朝6件, 東京9件) | 港区新橋2〜6 | → 北村辞典.芝口から柴井町にかけての西側裏通りの俗称.古着屋がならんでおり,いかものを田舎者に売りつけていた「江島屋」もその一つ. "金兵衛はほうほうの体で江戸へ立ち帰り、芝日蔭町の主家江島屋治右衛門方へ帰って参りますると、店先へ簾を垂れ、忌中と記してあります"(鏡ヶ池操松影) |
日蔭町銘の奉納石 | 2006 | |
鯖稲荷 | さばいなり | 佃祭(講明治大正3:33) 1件1題 (東京1件) | 港区新橋4-13 | → 北村辞典.日比谷神社.旅宿者のための旅泊(さば)稲荷が転じて,鯖稲荷.鯖を断って祈願すると虫歯が治る.写真のように裏道にあったが,道路拡張にかかって,環二通り前(東新橋2-1)に移設している. "芝の鯖のお稲荷様に鯖を断つと虫歯が癒るとか"(佃祭) |
日比谷稲荷 | 2006 | |
田村家 | たむらけ | 操競女学校-お里の伝(角川円朝3:06) など 5件4題 (圓朝2件, 東京1件, 上方2件) | 港区西新橋2 | → 北村辞典.陸奥一ノ関藩.田村右京大夫中屋敷.吉良上野介に刃傷に及んだ浅野内匠頭が即日切腹させられた.道路際に終焉地の碑がたつ.道路工事につき移転中だったが,きれいに復元された. "吉良殿に対し浅野内匠頭が刃傷に及んだ事があったが、即刻田村の邸にて内匠頭殿は切腹仰せつけられた"(操競女学校-お里の伝) |
浅野内匠頭終焉之地碑 | 2019 | |
青松寺 | せいしょうじ | 後の業平文治(角川円朝3:03) 1件1題 (圓朝1件) | 港区愛宕2 | → 北村辞典.曹洞宗青松寺.無駄に長すぎすため家臣を苦しめ続けた主人の槍の柄を切り,自害した勘助地蔵がある.痔疾に験があり,勘助の好んだ酒を備える.ただし,墓地は立ち入りできないので,拝観も不可.境内南斜面上にレプリカらしきものがあった. "お葬式は愛宕下青松寺で営みまして"(後の業平文治) |
勘助地蔵レプリカ | 2006 | |
愛宕山 | あたごさん | 羽団扇(立名人名演02:15) など 23件16題 (圓朝2件, 東京21件) | 港区愛宕 | → 北村辞典."あたごやま"とも.鉄道唱歌の一番,"愛宕の山に入り残る月を旅路の友として".江戸一番の高山で,標高26mになる.新宿区の箱根山はまがい物.山頂に火防愛宕神社とJOAK.ほうずき市が名物.「寛永三馬術」,曲垣平九郎が男坂の石段を駆け上った.平九郎手折りの梅が社殿前にある. "その夜芝の愛宕山に連れてまいり、大いなる杉の木のもとに縛(くく)しつけ、「さァ、その方これより、天狗がまいって、天狗に裁きを申しつける」"(羽団扇) |
愛宕神社男坂 | 2008 | |
東京放送局 | とうきょうほうそうきょく | 凱旋(講昭和戦前2:09) 1件1題 (東京1件) | 港区愛宕 | 愛宕山上にあった東京放送局(JOAK)のことだろう.1925年,日本初のラジオ本放送が,ここからはじまった.現在,NHK放送博物館となっており,放送の歴史などの展示が無料で公開されている.入口に置かれた碑文には,"大正十四年夏、ここ愛宕山頂にはじめて二基の鉄塔と一宇の局舎が竣工してより……"と当時のNHK会長前田義徳が記している. "済まないが東京放送局へ電話をかけとくれ。今晩若旦那の、凱旋祝賀会の実況を"(凱旋) |
放送博物館記念碑 | 2011 | |
天徳寺 | てんとくじ | 黄金餅(講明治大正7:18) など 9件1題 (東京9件) | 港区虎ノ門3-16 | → 北村辞典.浄土宗天徳寺.「黄金餅」の道中付け.今は東側に入口があるが,通ったのは西側の西久保通り.境内に,永仁6(1298)年の板碑がある. "愛宕下の天徳寺を通り抜け"(黄金餅) |
天徳寺板碑 | 2006 | |
切通(芝) | きりどおし | 井戸の茶碗(講明治大正7:58) など 9件3題 (圓朝1件, 東京8件) | 港区芝公園3 | → 北村辞典.今の正則高校と青龍寺との間を西へ上る坂.「井戸の茶碗」の千代田卜斎が,晴れた日は売卜で糊口をしのいだ,今はタクシーの車列がいつも休憩中.切り通しの鐘(芝浜)は,青龍寺の東隣にあった. "芝切り通しへ出て売卜をいたしておる千代田卜斎という浪人者"(井戸の茶碗) |
芝の切り通し | 2014 | |
増上寺 | ぞうじょうじ | 片棒(騒人名作09:08) など 43件15題 (東京43件) | 港区芝公園4-7 | → 北村辞典.浄土宗大本山三縁山増上寺.十八檀林の筆頭.赤螺屋の大旦那の葬儀が盛大にとり行われ,大屋根の上には飛行機が雲で絵文字を描く. "家の寺は狭くっていけませんから、芝の増上寺を借りましょう"(片棒) |
増上寺 | 2011 | |
芝山内 | しばさんない | 首提灯(講昭和戦前4:30) など 15件5題 (東京15件) | 港区芝公園 | → 北村辞典.増上寺境内.追いはぎの出る物騒な時代に「首提灯」が生まれた.三門前に首提灯のことを記した駒札がある.抜き書きすると,"侍とけんかした職人が、首を切られても、あまりの切れ味の良さに気がつかずそのまま首を提灯代にして、火事見物に行くという話は架空のことですが……".提灯代金のようにも読める部分は,"提灯のように掲げて"の方が誤解が少ない.それよりも,架空とわざわざ断っているのは,いったい何なんだろう. "アアいけねえや。これは芝の山内だ。物騒なところへ来やがったな"(首提灯) |
落語『首提灯』説明板 | 2011 | |
増上寺:山門 | さんもん | 浜野矩随(立名人名演10:11) 1件1題 (東京1件) | 港区芝公園4-7 | 浄土宗大本山,「十八檀林」の第一である三縁山増上寺の山門.三解脱門,略して三門.東京で最大級の木造建築で,国重文. "芝三縁山増上寺、浄土宗の本山だ。あの山門の手前に枝ッぷりのいい帆型ンなった松の木がある"(浜野矩随) |
増上寺三解脱門 | 2009 | |
増上寺:鐘 | かね | 芝浜(講小三治:05) など 14件4題 (圓朝1件, 東京13件) | 港区芝公園4-7 | 巨鐘.芝の大鐘の用例もある.増上寺境内に現存する.増上寺の鐘は,海に響けてグワァ〜〜〜ン. "鐘が鳴ってら、増上寺さまの鐘だァ。いい音だなァ……へへ。あれ金が入ってるから"(芝浜) |
増上寺の鐘 | 2005 | |
増上寺:徳川家の御霊屋 | とくがわけのおたまや | 河村瑞賢(にっかつ談志:5) 1件1題 (東京1件) | 港区芝公園4-7 | 将軍家の菩提寺だった増上寺には,広大な徳川家の霊廟があった.戦災で失われ,敷地の一部はホテルになり,二天門などが残る.今は黒本尊(素人洋食)裏,小さな敷地内に,2,6,7,9,12,14代将軍の墓所がまとめられている.公開日は年とともにかわっている.秘仏黒本尊の開帳日である1,5,9月15日のほか,年に何日かだけの公開だった,最近は週末に公開されている. "徳川家の御霊屋のございます三縁山増上寺"(河村瑞賢) |
徳川家墓所 | 2011 | |
増上寺:弁天 | べんてん | あかむ堂(講談倶楽部, 18(14) (1928))など | 港区芝公園4 | → 芝山内,弁天池にあった弁天堂で,宝珠院が別当だった.池のそばに移転してきた宝珠院はきれいにリニューアルされた.閻魔像や港区七福神の弁天がある.演題の「あかむ堂」は芝の阿観堂のことで,「雨宿り」と同話. "丸山下の弁天堂の池の前まで来ると、年の頃なら二十七八、髪は洗ひたての濡れ毛を後へ下げ"(あかむ堂) |
弁天宝珠院 | 2021 | |
御成門 | おなりもん | 奴勝山(角川円朝7:06) など 2件2題 (圓朝1件, 東京1件) | 港区芝公園3 | → 北村辞典.増上寺の北門.将軍墓参に利用された.現在は,東京プリンスホテルの敷地内に取り残されたように現存している.旧地はやや北に位置し,道路拡張の際に移設された.「水戸光圀卿」では,町人に化けて将軍墓所に参詣しようとする水戸黄門様が描かれる. "芝御成門のこなたまで来かかると、深々たる森の木陰より現れいでたる黒装束"(奴勝山) |
御成門 | 2006 | |
阿観堂 | あかんどう | 雨やどり(講明治大正5:09) 1件1題 (東京1件) | 港区芝公園1-8 | → 北村辞典.阿弥陀と観音で阿観堂.増上寺の塔頭常照院.いつも扉が閉まって"開かん堂"と悪口にもなっているらしく,訊ねたらちょっと嫌な顔をされた.境内に「髪結新三」,白子屋お熊の供養碑がある.よく見ると,墓の一部を利用しているように見える.ここを演題とする珍しい落語がある(→ 絶滅危惧落語「あかむ堂」). "雨が降って来たから山内の安閑堂へ駆け込んだのだよ"(雨やどり) |
常照院 白子屋お熊供養碑 | 2011 | |
芝神明 | しばしんめい | め組の喧嘩(にっかつ談志:3) など 31件21題 (圓朝7件, 東京24件) | 港区芝大門1 | → 北村辞典.芝大神宮.秋雨の時季,11日も続くだらだら祭で知られ,めっかち生姜と千木箱が縁起物.泥でこしらへた人間生姜下げ(柳多留).文化5(1805)年,め組の辰五郎率いる町火消と相撲との喧嘩の舞台.今はひどく狭い境内で相撲興行などできない.門前の太々餅(干物箱)は戦後まであった.写真の半鐘が鳴ったため騒ぎが大きくなったとして,半鐘が三宅島に遠島になったというイキな判決.今は無事赦免され,祭りの期間に展示される. "この芝神明は、芝居と喧嘩、楊弓店に吹矢にからくり、食物屋は大々餅"(め組の喧嘩) |
芝神明の半鐘 | 2006 | |
瘡守稲荷 | かさもりいなり | 狐つき(大文館, 新落語全集(1932)) | 港区芝公園 | 戦後落語速記には出てこなかった.芝山内の瘡守稲荷とある.通元院(芝公園2-12)と芝公園3-5の2ヶ所に瘡守稲荷がある. "キタナイのが見たけりゃあ、谷中の瘡守稲荷に、芝山内の瘡守稲荷"(狐つき) |
通元院瘡守稲荷 | 2005 | |
将監橋 | しょうげんばし | 黄金餅(角川円朝4:33) など 3件3題 (圓朝3件) | 港区芝公園2,芝大門2〜芝2 | → 北村辞典.川は新堀川(古川).『江戸砂子』に"新橋御普請の時岡田将監御奉行なり"とある.圓朝原作の「黄金餅」の長屋は,山崎町ではなくここに設定されている. "芝将監橋の際に極貧の者ばかりが住んでいる裏家がござりまして、金山寺屋の金兵衛と申す者の隣にいるのが托鉢に出る坊さん"(黄金餅) |
将監橋 | 2009 | |
金杉橋 | かなすぎばし | 応文一雅伝(円朝全集11, 岩波書店(2014)) など 3件3題 (圓朝2件, 東京1件) | 港区浜松町2〜芝1 | → 北村辞典.新堀川のもっとも海寄りの橋.東海道に架かる.圓朝の「黄金餅」の餅屋も,目黒ではなくここに設定される. "「爾うして那方(どツち)へ」「縮図かたがた金杉橋の方へ、お頼み申すヨ」"(応文一雅伝) |
金杉橋 | 2009 | |
芝離宮 | しばりきゅう | 三題話(百花園, 8-29 (1889-90)) | 港区海岸1 | 都立旧芝離宮恩賜庭園.小田原藩大久保加賀守上屋敷の庭園.幕末に紀伊徳川藩下屋敷となり,さらに明治に入って離宮となったものが下賜された.小田原から持ってきた根府川石が配された回遊式庭園となっており,池には海水が流れ込んでいた.速記は,助六の髭の意休と芝の離宮をかけている. "親方今日は何処らへ。芝の離宮(りぐう)まで用達に行き升て"(三題話:西郷の帰国・助六の鉢巻・馬車の喇叭) |
旧芝離宮恩賜庭園 | 2019 | |
竹芝桟橋 | たけしばさんばし | 南極探検(三一談志3:06) 1件1題 (東京1件) | 港区海岸1 | 「南極探検」の調査船が,忘れ物をしたときに寄港する.伊豆諸島へ行く便もここから出発する.だから,島から出て来た「出札口」の客も,竹芝桟橋に着いたはず.浜松町ではなく,東京駅の切符売り場で,有楽町までの切符を買おうとするのは,よく考えると変な話. "忘れ物を取りに竹芝桟橋まで引き返えす奴"(南極探検) |
竹芝埠頭 | 2011 | |
田中製造所 | たなかせいぞうしょ | 転宅(立名作5:11) 1件1題 (東京1件) | 港区芝浦1 | 原文では"田中さんの職工場".「転宅」の逃避行の道中付けに出てくる.田中大吉(後に久重)が1882年に芝浦に開いた電機工場.芝浦製作所,東京芝浦電気を経て現在の東芝.その場所は今の東芝ビルのあるあたり. "スイと離宮が見えたり、田中さんの職工場を見たり"(転宅) |
東芝ビル | 2011 | |
正伝寺 | しょうでんじ | 元祖 荻江露友之伝(円朝全集 別巻2, 岩波書店 (2016)) | 港区芝1-12-12 | 日蓮宗松流山正伝寺.江戸三大毘沙門天の一つ.モノレールからも,開運大毘沙門天の幟が見える.境内に,初代立川談笑(〜文化7(1810)年)の復元墓がある.初代可楽の時代というから,落語草創期にあたる.説明板によると,現・六代目談笑が建立に協力している. "芝金杉正伝寺葬ス 行年四十九歳なりと言"(元祖 荻江露友之伝) |
初代立川談笑墓 | 2019 | |
芝浜 | しばはま | 芝浜(青三木助:17) など 28件4題 (東京28件) | 港区芝4あたり | → 北村辞典.「芝浜」の舞台.切絵図では本芝の海岸に芝浜とある.JRのガードをくぐった先,鹿島橋あたりは船だまりになっている.次項の田中製造所,芝浜の温泉(いずれも転宅)もこのあたりのこと. "それから夕河岸というのは、やッぱし芝浜のひとつの名物なんだそうでして"(芝浜) |
鹿島橋船だまり | 2011 | |
西応寺 | さいおうじ | 井戸の茶碗(講明治大正7:58) など 5件1題 (東京5件) | 港区芝2-25 | → 北村辞典.浄土宗西応寺.門前に寺拝領の町家があった.「井戸の茶碗」,千代田卜斎の裏長屋が西応寺前になる. "通りかかったのは芝西応寺前、屑はござい"(井戸の茶碗) |
西応寺 | 2009 | |
札の辻 | ふだのつじ | ちきり伊勢屋(青圓生06:10) など 11件4題 (圓朝2件, 東京9件) | 港区三田3 | → 北村辞典.高輪大木戸に移転する前の高札場があった.大通りが集まっている場所のため,人通りが多い.人の生死を予言して江戸払いになった「ちきり伊勢屋」の白井左近が,道ばたで大道占いを開いている. "そうだなァ、札の辻あたりへ行って、あそこから品川へ遊びに来る客を乗せるんだ"(ちきり伊勢屋) |
札の辻交差点 | 2009 | |
聖坂 | ひじりざか | ちきり伊勢屋(青圓生06:10) など 11件4題 (圓朝2件, 東京9件) | 港区三田4-14〜4-15あたり | → 北村辞典.二本榎の高野寺(高野山在番屋敷)から勧進に出た高野聖が拓いた道だという.三田4を北へ下る.吉良上野介の墓(をかべ)がある万昌院功運寺は,聖坂に面していた功運寺と万昌院(新宿区)が合併したもの. "三田寺町、聖坂から三角へかけ、田町へ出まして、これが品川で鎮火いたしました"(塩原多助一代記) |
聖坂 | 2011 | |
綱坂 | つなざか | 塩原多助一代記(角川円朝5:01) 1件1題 (圓朝1件) | 港区三田2-15〜17あたり | → 北村辞典.旧三田綱町,三井倶楽部とイタリア大使館の間を北へ登る.渡辺綱(わたなべのつな)がこの近くで誕生したことによる.ほかにも,渡辺綱産湯の井,綱の手引坂がある.渡辺綱は,大江山酒呑童子を退治した頼光四天王の一人.摂津渡辺津に住み,渡辺橋は別項にあげている. "赤坂の今井谷から出まして、麻布十番から古川雑色綱坂を焼き払い"(塩原多助一代記) |
綱坂 | 2011 | |
赤羽橋 | あかばねばし | 十八檀林(柳家小満ん口演用「てきすと」9, てきすとの会(2015)) など 4件3題 (東京4件) | 港区東麻布1〜芝3 | → 北村辞典.川は新堀川(赤羽川,古川),勝手ヶ原(政談月の鏡)の南になる.「十八檀林」のサゲ,増上寺を抜けると赤羽,というわかりにくいサゲがついている.「村井長庵」では,妹婿を雨の中殺害する."わずか五十に足らねえ金,人の命も五十年",という名セリフが出たのがここ. "増上寺へ入っても精々七つ坊主に成って、なむあみだぶつなむあみだぶつと、裏の柵門から出て、赤羽橋へ抜けるだけだ"(十八檀林) |
赤羽橋橋柱 | 2006 | |
東京タワー | とうきょうたわー | 大仏餅(青正蔵1:14) など 2件2題 (東京2件) | 港区芝公園4-2 | 1958年竣工,高さ333mの電波塔.スカイツリーに抜かれたとなると,急にいとおしくなる.蝋人形館が見どころだったが,2013年に閉館した. "大きいものは名物になりやすうございまして、今、東京は芝にございます東京タワー"(大仏餅) |
東京タワー | 2011 | |
西久保八幡 | にしくぼはちまん | 阿武松(青圓生08:05) など 5件1題 (東京5件) | 港区虎ノ門5 | → 北村辞典.飯倉の坂を登る途中,右手に鎮座している.寛弘年間に石清水八幡を勧請した.「阿武松」の終わりの部分に,ここで開かれた相撲で二段目に出世したと説明される.社殿は写真手前で,奥の立派な建物は霊友会本部.なお,西久保は「黄金餅」の道中の地名. "翌十三年の二月、芝西久保八幡の相撲の番付には序の二枚目"(阿武松) |
西久保八幡 | 2008 | |
飯倉 | いいぐら | 黄金餅(講明治大正7:18) など 15件5題 (東京15件) | 港区麻布台,東麻布,芝公園 | → 北村辞典.「黄金餅」の道中付けに出てくる飯倉六丁目は,麻布台2-3あたりの坂上になる.飯倉交差点は,峠というよりは,むしろ鞍点といった珍しい地形になる. "飯倉六丁目の坂を上がり"(黄金餅) |
愛宕下之絵図(尾張屋板江戸切絵図) | 2020 | |
狸穴 | まみあな | たぬき娘(講明治大正5:38) など 5件4題 (圓朝1件, 東京4件) | 港区麻布狸穴町 | → 北村辞典.狸穴坂周辺.今も狸穴町がある.獣のまみが生息していたことに由来する.狸の圓左と呼ばれた初代三遊亭圓左が演じた「たぬき娘」という珍しい落語の舞台にとられる.若い男たちが,芝居見物で一緒になったお嬢さんにだまされ,素性をたずねたら狸穴の狸娘だという.道理で尻尾を出しやがった. "麻布狸穴の月形様といふ大変富貴なお屋敷で"(たぬき娘) |
狸穴坂 | 2023 | |
飯倉片町 | いいぐらかたまち | おかめ団子(講明治大正6:08) など 15件2題 (東京15件) | 港区麻布台3,六本木5 | → 北村辞典.「黄金餅」の道中付け.今の飯倉片町交差点を通る永坂は,後づけの新道で,その西側の細い坂がもともとの永坂になる.「おかめ団子」は実在した店だが,幕末頃閉店したという. "飯倉片町に、名代のおかめ団子といふ、団子屋さんがございます"(おかめ団子) |
東都麻布之絵図(尾張屋板江戸切絵図) | 2020 | |
市兵衛町 | いちべえちょう | 一日公方(講昭和戦前5:04) など 7件6題 (圓朝1件, 東京5件, 上方1件) | 港区六本木3など | → 北村辞典.「一日公方」は,場面転換の多い珍しい噺.お忍びで市中に出ていた将軍の戯れで,市兵衛という孝行者が,公方様になったり,夢から覚めて狂人扱いされたりする.しまいに,麻布市兵衛町を賜り,こいつは麻布で気が知れぬ.この俚言も,六本木と言うのにその木がないなど,由来が不明で,噺の主人公も狐につままれて終わる(→ 絶滅危惧落語「一日公方」).麻布市兵衛町は,実際に名主の市兵衛に由来する町名.永井荷風の偏奇館は,維新後の麻布市兵衛町にあった. "今まではたたき大工の市兵衛であったが、もはや市兵衛町の大地主"(一日公方) |
市兵衛町なだれ坂 | 2019 | |
正信寺 | しょうしんじ | 狸穴情話(本草堂江戸噺, 相模書房 (2004)) | 港区六本木6-1 | 浄土宗正信寺.新作の「狸穴情話」に植木坂,榎坂などとともに登場する.六本木交差点南東にあった.墓地だけを残して,1998年に小石川5-18に移転している. "当地の正信寺へ預けようかと、色々考えながら"(狸穴情話) |
正信寺六本木墓苑 | 2008 | |
鳥居坂 | とりいざか | 西海屋騒動(三芳屋 (1902)) | 六本木5-11 | 麻布十番から六本木方向へ北に登る坂.用例の,多度津藩,京極壱岐守の屋敷は坂の西側にあった.この時には,名前のもとになった鳥居丹波守の屋敷はすでにない. "拙者は近辺の鳥居坂に屋敷を構へ申す京極壱岐守の用役を勤むる小畑左内と申す者"(西海屋騒動) |
鳥居坂 | 2019 | |
永坂(そば) | ながさか | 時そば(旺文小さん2:06) など 2件1題 (東京2件) | 港区麻布十番1 | 永坂は飯倉片町から十番方向へ下る坂.旧道に木碑が立っている.永坂のそばは,永坂更科布屋太兵衛と直系を名のる更科堀井の2軒が営業している.寛政元年創業.どちらも,あまから2種類のつゆと真っ白な御前蕎麦で,味だけでなく眼でも楽しめる. "そばっ食いだぜ、俺は。わざわざお前、長坂まで食いにいくんだ"(時そば) |
更科の箸袋 | 2006 | |
一本松 | いっぽんまつ | 黄金餅(講明治大正7:18) など 8件1題 (東京8件) | 港区元麻布1 | → 北村辞典.「黄金餅」の道中付けで,大黒坂とセットで登場する.六孫王源経基がここで休んだという一本松があった.かつては,一本松町という町名もあった.大黒坂の坂上に,今もしるしの松が植えられている.大黒天は,坂下の大法寺に安置される. "十番から一本松"(黄金餅) |
大黒坂標柱と一本松 | 2009 | |
善福寺:逆さ銀杏 | さかさいちょう | らくだ(三一談志5:09) 1件1題 (東京1件) | 港区元麻布1-6 | 浄土真宗善福寺(鶴殺疾刃庖刀).山門脇に,逆さ銀杏と呼ばれる大イチョウがある.宗派の興隆を占い,親鸞上人がさした杖が大きくなった.都内最大のイチョウで国天然記念物.善福寺の背後は,折り取りたいような悪景観のビルが視界をさえぎる. "善福寺の逆さ銀杏を横に見て"(らくだ) |
善福寺逆さ銀杏 | 2005 | |
絶江 | ぜっこう | 黄金餅(弘文志ん生2:01) など 16件4題 (東京16件) | 港区南麻布2 | → 北村辞典.臨済宗曹渓寺の絶江禅師に由来.麻布絶口の例も多いが,口伝か速記の誤記か.「黄金餅」の釜無村の木蓮寺は架空.曹渓寺には赤穂浪士,寺坂吉右衛門の墓があるが墓地に入れない. "大黒坂を上がって、麻布絶口釜無村の木蓮寺ィ来たときにはずいぶんみんなくたびれた"(黄金餅) |
曹渓寺 | 2005 | |
天現寺 | てんげんじ | おゝ石屋(看板むすめ, 今日の問題社 (1939)) | 港港区南麻布4 | 臨済宗天現寺.聖徳太子御作の毘沙門天が本尊で,山号は多聞山.天現寺交差点は交通情報でおなじみの場所.用例は市電のことで,ここにあった天現寺停留所と金杉橋とを市電古川線が結んでいたの.現在の都バス都06系統になる. "金杉橋……麻布、目黒、天現寺方面のお方はお乗りかへを願ひます"(おゝ石屋) |
天現寺交差点 | 2019 | |
相模殿橋 | さがみどのばし | 黄金餅(講明治大正7:18) など 2件1題 (東京2件) | 港区南麻布3〜白金1,3 | → 北村辞典.古くは御薬園橋,そして,今はもっぱら四之橋と呼ばれている.川は新堀川.相模殿橋の名は,常陸土浦藩土屋相模守下屋敷があったことに由来する.「黄金餅」,西念坊主の弔いをだした麻布絶江の寺から,桐ヶ谷の焼き場へ向かう2回目の道中付けになる. "早桶を背負いだし、相模殿橋を渡って右へ曲がり"(黄金餅) |
四之橋 | 2009 | |
古川橋 | ふるかわばし | 小判一両(青圓生12:11) など 5件3題 (東京5件) | 港区南麻布2〜三田5 | → 北村辞典.川は新堀川(古川).三之橋と四之橋との間,ということで江戸期にはなかったはず.「小言幸兵衛」の長屋は,麻布古川に設定されるのが一般的. "ご存知の麻布古川橋縁者のもとへ小市をお連れくだされたく"(小判一両) |
古川橋 | 2009 | |
魚籃観音 | ぎょらんかんのん | 倭歌敷嶋譚(金桜堂 (1889))など | 港区三田4-8 | 浄土宗三田山魚籃寺.本尊は魚籃観世音で,魚のはいった竹カゴを右手で捧げているお姿.魚を売る乙女の姿になって,観音が法華経を広めた故事による.年に1度,5月の施餓鬼会で開帳される.門前を南に下る坂は魚籃坂で,「阿部川原風仇浪」などに登場する. "金杉村では五平次の女房や脇櫓の熊が魚籃の観音へ日参で"(倭歌敷嶋譚) |
魚籃寺観音堂額 | 2008 | |
日切地蔵 | ひぎりじぞう | 黄金餅(講明治大正7:18) など 3件1題 (東京3件) | 港区白金2-3 | → 北村辞典.時宗冬嶺山松秀寺.日限地蔵を安置する.「黄金餅」,麻布絶江から桐ヶ谷への道中付け.日切地蔵と大久保彦左衛門様の墓地は,別々の寺になるし,順番も相模殿橋により近いのは,立行寺になる. "日切地蔵の大久保彦左衛門様の墓地の前"(黄金餅) |
日限地蔵松秀寺 | 2005 | |
大久保彦左衛門の墓 | おおくぼひこざえもんのはか | 黄金餅(講明治大正7:18) など 3件1題 (東京3件) | 港区白金2-2 | → 北村辞典.天下のご意見番,大久保彦左衛門.反骨精神から,盥に乗って登城する.墓は白金の立行寺(りゅうぎょうじ)にある.鞘堂入りの立派な墓で,裏に小ぶりの一心太助墓もある.二の腕に,一心如鏡のいれずみをした魚屋で,大久保彦左衛門に仕えて講談や映画で活躍した.「黄金餅」,麻布絶江から桐ヶ谷への道中付け. "大久保彦左衛門様の墓地の前へ差し掛かってまいりました"(黄金餅) |
大久保彦左衛門の墓 | 2005 | |
清正公(白金) | せいしょうこう | 井戸の茶碗(講明治大正7:58) など 15件5題 (圓朝1件, 東京14件) | 港区白金台1 | → 北村辞典.日蓮宗覚林寺.白金の清正公さま.加藤清正の自画像を所蔵する.「井戸の茶碗」では,屑屋が寄り合って,面通しをされた細川の屋敷の噂をする. "白金の清正公様のわきの掛茶屋、下金屋、屑屋などが昼頃になると集まって"(井戸の茶碗) |
白金の清正公 | 2005 | |
清正公:石碑 | せきひ | 清正公酒屋(柳家小満ん口演用「てきすと」 29, てきすとの会 (2018)) | 港区白金台1 | 江戸時代の山門の脇ではなく,今は敷地外にあたる場所にひっそりと立っている.碑文は,鎮守 清正公大神儀.寛延4(1751)年の建. "今も覚林寺の門前には、江戸時代に建てた大きな石碑が厶いまして"(清正公酒屋) |
清正公碑 | 2019 | |
瑞聖寺 | ずいしょうじ | 黄金餅(講明治大正7:18) など 4件1題 (東京4件) | 港区白金台3 | → 北村辞典.黄檗宗(単立)瑞聖寺.「黄金餅」,麻布絶江から桐ヶ谷への道中付けに登場する.木庵禅師の開山.「金明竹」の沢庵,木庵,隠元,張り混ぜの小屏風の一人.かつて,木庵禅師座像が公開されていた.国重文の大雄宝殿から,かつての規模がしのばれる.墓地は無断立ち入り禁止だが,泰雲寺の了然尼(「応文一雅伝」)の墓は,墓地入口外左手に置かれているので,いつでも参拝できる. "白金の清正公様の前から、瑞聖寺の前を真直ぐに"(黄金餅) |
瑞聖寺大雄宝殿 | 2021 | |
細川家(熊本) | ほそかわけ | 井戸の茶碗(講明治大正7:58) など 13件1題 (東京13件) | 港区高輪1 | → 北村辞典.茶碗の目利きをした肥後熊本細川越中守の中屋敷がここ.明治に入って,島津家邸宅から,後に高松宮邸(むじな横丁,続本草堂江戸噺 (2007))となる.大椎と赤穂浪士切腹地が,一般市街にある. "参りましたのは白金の細川様のお窓下、お大名は土台が高いから下からは見上げるようで"(井戸の茶碗) |
細川家の大椎 | 2008 | |
伊皿子台町 | いさらごだいまち | 磯の白浪(講明治大正1:35) など 7件4題 (圓朝2件, 東京5件) | 港区高輪2 | 伊皿子坂を登った高台.細川家に面していた.用例の「磯の白浪」は,「梅若礼三郎」の別題.伊皿子台町の屋敷から盗んだ金を貧乏人に恵んだが,それが刻印つきだったため,情けがあだになってしまう.百花園の「今戸の狐」の地の文では,坂下にあった寄席の伊皿子亭が出てくる.そのほか,牛込の藁店,麹町の万長,薬師の宮松,人形町の末広(別項),大ろじなど有名どころの名がたくさん出てくる. "是は前月二十四日の晩、芝伊皿子台町家持三右衛門方にて紛失した六百七十両の内だが"(磯の白浪) |
本芝高輪白金三田辺之絵図(近江屋板江戸切絵図) | 2020 | |
高輪 | たかなわ | 品川心中(青圓生04:03) など 44件19題 (圓朝7件, 東京37件) | 港区高輪 | 品川〜田町間の縄手道に沿った地域.品川のお染と心中しそこなった貸本屋の金蔵は,ざんばら髪になって高輪の雁木から陸に上がる.陸への上り口だから,新駅はゲートウェイと名づけられた.住宅工事で発掘された護岸の石垣石が,高輪二丁目交差点に展示されている. "高輪の雁木"(品川心中) |
高輪海岸の石垣石 | 2008 | |
大木戸(高輪) | おおきど | ちきり伊勢屋(青圓生06:10) など 11件5題 (東京11件) | 港区高輪2 | → 北村辞典.高輪の大木戸.御府内の南境にあたる.高札場も,札の辻からこちらに移された.第一京浜に大木戸の石垣が片側だけ残っている(国史跡).「ちきり伊勢屋」の白井左近が大道で易を開いたのはここか札の辻か.朱引き外ではないにせよ,はっきりとした説明が見たい. "高輪の大木戸へかかりましたが、ここはちょうど東海道と江戸との境界線で"(ちきり伊勢屋) |
高輪の大木戸 | 2006 | |
牛町 | うしまち | 付き馬(青圓生02:02) 1件1題 (東京1件) | 港区高輪2 | → 北村辞典.芝車町.牛町は俗称.資材運搬のための牛が多数いたことによる.願生寺(高輪2-16)には,牛供養塔が残る. "高輪に牛町というところがあった、訊いてみたら品川へ遊びに行く人が牛の背中へ乗ったんだてえます"(付き馬) |
牛供養塔 | 2006 | |
泉岳寺:首洗い井戸 | くびあらいいど | 無学者(講明治大正4:54) 1件1題 (東京1件) | 港区高輪2-11 | 吉良上野介を討ち果たし,泉岳寺山内で首を洗い主君浅野内匠頭の墓前に報告する.泉岳寺の義士墓(猿後家)は撮影禁止. "あの泉岳寺の首洗い井戸で首を洗って、内匠頭の墓所へ供えた"(無学者) |
首洗い井戸 | 1999 | |
如来寺 | にょらいじ | 大仏餅(柳家小満ん口演用「てきすと」 27, てきすとの会 (2018)) | 高輪2-12 | 天台宗養玉院如来寺.高輪から品川区西大井5-22に移転し,養玉院と合併している.如来堂に収まる5体の巨大な五智如来像を拝観できる.江戸時代の芝の大仏から,すっかり大井の大ぼとけの呼び名が定着している. "江戸では芝の如来寺大仏の門前にも、大仏餅の店が出来ております"(大仏餅) |
如来寺五智如来像 | 2019 | |
白金台町 | しろがねだいまち | 松の操美人の生埋(角川円朝6:04) など 4件4題 (圓朝2件, 東京2件) | 港区白金台,白金2 | → 北村辞典.現在の目黒通りにそった町.名前は出てこないが,「黄金餅」の桐ヶ谷へのルートにあたる.白金台(しろかねだい)の妙見,妙円寺には噺家奉納額があがっていた.文楽志ん生柳橋小文治 金語楼金馬三亀松馬琴 圓生正蔵貞丈小さん と,落語協会芸術協会あげてのそうそうたる名が連ねてある. "白金台町へ地面を持ちまして、庭なども結構にして、有福に暮しておりました"(松の操美人の生埋) |
妙見噺家奉納額 | 2009 | |
高野寺 | こうやでら | 粟田口霑笛竹(角川円朝2:01) 1件1題 (圓朝1件) | 港区高輪3-15 | → 北村辞典.高野山学寮在番屋敷.在番所.御府内八十八ヶ所第一番.現在の高野山東京別院になる.境内に四国八十八ヶ所のお砂踏みがある. "すぐに白金台町の高野寺へ頼み、仙太郎のみよりの積もりにして葬式も立派に致しました"(粟田口霑笛竹) |
高野山東京別院 | 2005 | |
東禅寺 | とうぜんじ | 岡山奇聞筆の命毛(芳譚雑誌, (1881-82))など | 港区高輪3-16 | 臨済宗妙心寺派東禅寺.安政5(1858)年,イギリス公使館が置かれた高輪の名刹.このことから,攘夷派の浪士に襲撃される事件が起きている.「岡山奇聞筆の命毛」は,備前岡山池田家にまつわるゴシップネタの人情噺.愛妾の筆野が,墓参に訪れた東禅寺の墓地で卒倒する.ほかにも多くの大名墓があるが,墓参は不可. "若殿を毒殺すべき念を断ち奥方の墓参をせんと高輪の東禅寺に趣き"(岡山奇聞筆の命毛) |
東禅寺墓地 | 2019 | |
谷山 | やつやま | 品川心中(弘文志ん生2:03) など 21件15題 (圓朝1件, 東京20件) | 港区高輪4,品川区北品川 | → 北村辞典.八ツ山と書く用例の方が多い.高輪から品川にかけて丘だった.今見てもどこのことだかわからない.八ツ山下の用例が多い. "親分の家ィ行こうと思って、雁木を伝わって八ツ山から這い上がって"(品川心中) |
八ツ山説明板 | 2009 | |
お台場 | おだいば | 佃島(講明治大正5:32) など 13件8題 (圓朝1件, 東京12件) | 港区台場1 | 江戸防備のため第六台場まで築かれた.今は第三,第六台場が残る.国史跡.1983年の訪問時は,二度と戻れないのではないかという程の辺境の地だったが,台場エリアとして全く様変わりしている.砲台などが残る第三台場へは,陸続きになっていて立ち入れる. "船頭を連れ、お台場の沖へ二三里も出まして釣りを始めました"(佃島) |
第六台場 | 2009 |
掲載 060519/最終更新 230901