地点名 |
この1題・登場回数 |
位 置 |
備 考 |
写真と撮影年月 |
南区 |
阿武松(三一談志2:06) など 2件2題 (東京1件, 上方1件) |
中央区 |
中央区の旧南区.
"二十六代 大錦卯一郎は大阪の南区"(阿武松) |
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順慶町 |
月宮殿星の都(三一上方2:03) など 5件3題 (上方5件) |
中央区南船場あたり |
順慶町(じゅんけいまち).長堀通の3本北の通り.西は新町橋へ通じ,縁日の夜店で有名だった.
"アノ順慶町の方はどっちへ往ったらよろしおますやろ"(月宮殿星の都) |
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順慶町の天狗 |
夢見八兵衛(三一上方1:07) 1件1題 (上方1件) |
中央区南船場1-16か |
天狗楼.堺筋を東に入ったところだろう.
"夜番には持ち場持ち場がありますねん、第一、年に一度の大会がありますねん(中略)たいてい順慶町の天狗です"(夢見八兵衛) |
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憲兵屯所 |
大阪名所 夫婦喧嘩(三一上方2:15) 1件1題 (上方1件) |
中央区南船場3-2 |
旧順慶町3丁目にあった大阪憲兵隊本部.こんなのも名所かと思ったら,塀から差し出された桜が名物だった.
"ケンケン憲兵屯所でも行けるもの"(大阪名所 夫婦喧嘩) |
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安堂寺町 |
次の御用日(三一上方1:15) など 5件3題 (上方5件) |
中央区安堂寺町あたり |
安堂寺橋西側の安堂寺町は,南船場となってしまった.現在の安堂寺町は内安堂寺町.町内で天平十一年造安曇寺の銘がかすかに残る石像地蔵尊が発掘された.この油掛地蔵は今,南船場1-12に移設.
"安堂寺町一丁目に樫木屋佐兵衛さんというお宅がござりました"(次の御用日) |
油掛地蔵 |
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0506 |
塩町 |
猿後家(講文庫6:30) など 3件3題 (上方3件) |
中央区南船場 |
長堀通の1本北の通り.塩町なのに砂糖問屋がならんでいた.
"心斎橋の塩町のかどに、和田喜という絵草紙やがございます"(猿後家) |
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長堀 |
宇治の芝船(青小南:12) など 8件8題 (上方8件) |
中央区,西区 |
2つの横堀をつなぐ東西堀割.心斎橋などが架かっていた.干あげて地下を駐車場とした.「宇治の芝船」は,長堀の材木問屋の若旦那の設定,宇治川の急流で小舟をたくみに操る.
"材木と申しますと、東京では深川の木場、大阪のほうへまいりますと長堀川"(宇治の芝船) |
クリスタ長堀 |
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0806 |
四ツ橋 |
辻占茶屋(講小文枝:02) など 6件5題 (上方6件) |
中央区南船場4,西心斎橋1,西区新町1,北堀江1 |
長堀川と西横堀川の交差するところに井桁状にかかっていた4つの橋の総称.小西來山"涼しさに四つ橋を四つ渡りけり".句碑は中央区側に移設された.各橋名(上繋橋,炭屋橋,下繋橋)は解けやらぬ下関水(続々珍品復活上方落語選集, 燃焼社(2003))に登場.
"四ツ橋へ来たなあ。梅乃、ほんなら、死のか"(辻占茶屋) |
四ツ橋句碑 |
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0506 |
佐野屋橋 |
大阪名所 四季の夢(三一上方2:31) 1件1題 (上方1件) |
中央区南船場4〜西心斎橋1 |
長堀川,佐野屋橋筋にかかっていた.御堂筋の1本西にあたる.現存しない.
"小橋屋のところから佐野屋橋、あの辺は恵比須鯛を飾って"(大阪名所 四季の夢) |
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心斎橋(橋) |
延陽伯(講古典上方1:10) など 4件3題 (上方4件) |
中央区心斎橋筋1〜南船場3 |
長堀川,心斎橋筋(別項)にかかっていた.明治時代の鉄橋は鶴見緑地に保存される.その後はアーチ型の石橋.長堀が埋められて,橋を模した歩道橋に利用するとは奇妙.今はない.
"ホレ、わしと心斎橋の北詰で会うたやろが"(延陽伯) |
今の心斎橋 |
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0506 |
心斎橋筋 |
蔵丁稚(創元米朝2:08) など 15件8題 (圓朝1件, 上方14件) |
中央区心斎橋筋あたり |
かつては北の順慶町がにぎやかだった.今はデパート等がならぶ南側が繁華.心ブラは死語か.
"心斎橋筋歩いてて、お母はんに会いましたんで"(蔵丁稚) |
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はり半 |
淀川(阪大上方13:1) 1件1題 (上方1件) |
中央区南船場3-5か |
心斎橋の料亭播半.戦災で失われる.甲山の山腹に移って料理旅館を営んでいたが,2005年に事実上休業.敷地は買収された.長老円都師の噺なので,心斎橋時代だろう.
"昔ははり半の吸物、信楽の刺身、入船の黒豆"(淀川) |
はり半 |
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0605 |
中橋 |
植木屋娘(新和上方復刻:02) 1件1題 (上方1件) |
中央区南船場2〜東心斎橋1 |
長堀川,中橋筋にかかっていた.三休橋の東で,難波橋筋を1本へだててさらに東は長堀橋.現存しないが親柱が残る.
"瓦町二丁目、中橋を北へ入った所で生まれました"(植木屋娘) |
中橋橋柱 |
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0506 |
長堀橋 |
古手買(桂米朝集成, 岩波書店 (2004)) |
中央区南船場〜島之内1, 東心斎橋1 |
長堀川,堺筋にかかっていた.
"長堀橋の、さァ、南か北か分からんが……"(古手買) |
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板屋橋 |
住吉駕籠(創元米朝5:01) など 2件1題 (上方2件) |
中央区南船場1-8,17〜島之内1-10,11 |
長堀川,板屋橋筋にかかっていた.堺筋から八百屋町筋を1本へだててさらに東にあたる.現存しないが説明板がある.新橋ともいった.
"そうでんなあ、板屋橋。へえ、もう高いことは言えしまへんが、オンテだけやってもらえまへんやろかなあ"(住吉駕籠) |
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安綿橋 |
佐々木裁き(三一上方1:06) など 7件3題 (上方7件) |
中央区南船場1〜島之内1 |
長堀川の最も東,末吉橋西詰交差点にあたる位置にかかっていた.板屋橋筋から箒屋町筋を1本へだててさらに東.現存しない.
"末吉橋を渡ると安綿橋"(佐々木裁き) |
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島之内 |
帯久(創元米朝5:11) など 37件21題 (圓朝1件, 東京2件, 上方34件) |
中央区 |
東西横堀,長堀,道頓堀に囲まれた地域.千筋,万筋,はちまん筋,みな縞のうち.
"北が長堀で南が道頓堀、それから東横堀西横堀、こう四つの堀に囲まれた中をあれ島の内というんですな"(帯久) |
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住友邸 |
高津の富(三一上方2:10) など 10件5題 (東京1件, 上方9件) |
中央区島之内1 |
銅座へ収める銅を精錬した.住友友似の代に京都から移転.板塀で囲まれた住友の屋敷跡も,今は公園になっていた.東横堀に面して住友の浜(佐々木政談).
"解った、この間住友はんへ賊が入ったという噂や、あんた賊の片割れやないか"(高津の富) |
住友銅吹所跡 |
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8308 |
鰻谷 |
お文さん(講小文枝:10) など 5件4題 (上方5件) |
中央区 |
明治45年に文楽座ができた.地名の由来をこじつけた「鰻谷」という噺がある.
"おやッ、あんたァ、鰻谷のご寮人さん"(お文さん) |
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鰻谷中之町 |
お文さん(騒人名作07:11) 1件1題 (上方1件) |
中央区東心斎橋1あたり |
長堀通の1本南の通り.
"鰻谷の中之町に一軒借って、囲うておましたのや"(お文さん) |
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大宝寺町 |
らくだ(講古典上方2:02) など 7件2題 (上方7件) |
中央区東心斎橋1あたり |
「らくだ」の葬礼,堺筋あたり.ここで砂糖屋に因縁をつける.「悋気の独楽」の小僧さんがご執心は,妾宅ではなく大丸の向かいの金物屋.
"大宝寺町を堺筋へ出て南へ曲がりますと、夕景になります"(らくだ) |
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大丸 |
高津の富(創元米朝2:13) など 16件7題 (上方16件) |
中央区心斎橋筋1-7 |
心斎橋の大丸呉服店.銘板には1717年創業とあるが,これは伏見京町時代で,大坂進出は1726年.ハロッズより古いぞ.
"五百両当たったらな、まずわたし、大丸へさして、浜縮緬を一反買いに行きまんねん"(高津の富) |
大丸銘板 |
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0506 |
丸亀屋 |
野辺(新和上方復刻:09) 1件1題 (上方1件) |
中央区心斎橋筋2-2か |
呉服商.商標が○に亀との説明.初代大阪市長を争う.心斎橋の高島屋はその跡地.
"大阪に丸亀屋という呉服屋がある、そこの標しは丸の中に亀の字が書いてあって"(野辺) |
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八幡筋 |
口入屋(創元米朝3:06) など 9件5題 (上方9件) |
中央区 |
御津八幡南端の東西路.堺筋八幡筋は天狗スキの店.
"おっさんが心配なしに鉢巻してはりまんねん"(口入屋) |
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木綿屋橋 |
運附酒(三一上方2:20) 1件1題 (上方1件) |
中央区西心斎橋2〜西区南堀江1 |
木綿橋.西横堀,八幡筋にかかっていた.「運付酒」辰巳屋の逸話.
"木綿屋橋の橋詰角引き廻した辰己屋"(運附酒) |
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小倉屋 |
三十石(青圓生03:01) など 6件1題 (東京2件, 上方4件) |
中央区心斎橋2-7 |
小倉屋の鬢付け買うて来てや.「上方はなし」にも広告が出ていたが,今はない.昆布の小倉屋に暖簾が引き継がれている.
"勘六さァ……ん(中略)大阪へ行たら、夕菊さんが小倉屋の鬢附油買うてきてェて"(三十石) |
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三津寺 |
一人酒盛(講ス文庫上方:076) など 3件2題 (上方3件) |
中央区心斎橋筋2-7 |
真言宗三津寺(みってら).御堂筋開設により敷地を削られる.広いときの境内では,死んだまめだの供養.
"三津寺はんの横手なあ、塀の横手へ行ったらな"(一人酒盛) |
三津寺 |
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0506 |
万福寺 |
親子茶屋(創元米朝2:06) など 3件1題 (上方3件) |
中央区西心斎橋2 |
三津寺の西に浄土真宗万福寺があった.戦災を受け,西区南堀江1-14に移転している.
"島ノ内の万福寺さんでお座が勤まりまんのやそうで"(親子茶屋) |
萬福寺 |
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0411 |
三津寺筋 |
まめだ(創元米朝4:08) など 3件2題 (上方3件) |
中央区 |
三津寺南端の東西路,八幡筋の1本南.
"この人は、家が三津寺筋で、膏薬屋をしとりまんねん"(まめだ) |
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畳屋町 |
蓮の真誠(騒人名作07:21) 1件1題 (上方1件) |
中央区東心斎橋2,心斎橋筋2あたり |
心斎橋筋の1本東の南北路.
"富田屋さんと云うのを知ってやか。それは畳屋町を浜へ出まして、宗右衛門町"(蓮の真誠) |
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友恵堂 |
まんじゅう怖い(講ス文庫上方:088) 2件1題 (上方2件) |
中央区東心斎橋2か |
天保期創業の和菓子店,太鼓饅頭が名物.太左衛門橋北詰北入.牧村史陽の『大阪ことば事典』では島之内笠屋町とあるが,明治期の広告では宗右衛門町とある.店舗がなくなったあともデパートで販売されていた.
"あの、友恵堂の太鼓饅頭や"(まんじゅう怖い) |
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南 |
三枚起請(三一上方2:05) など 91件45題 (東京4件, 上方87件) |
中央区 |
キタの盛り場に対してミナミ.こちらの方が頻出.南地とも.
"夕方から羽織の一枚も引かけて、三人連れで南へまいりました"(三枚起請) |
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南地五花街 |
土橋萬歳(創元米朝6:06) など 3件1題 (上方3件) |
中央区 |
宗右衛門町,黒右衛門町,難波新地,阪町,芝居裏.「土橋萬歳」雪駄の眉間割り.
"ありがたいと思えよこの雪駄。南地五花街をわしが踏み歩いたこれで、ど性根に入るようにしたる"(土橋萬歳) |
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宗右衛門町 |
親子茶屋(創元米朝2:06) など 9件7題 (上方9件) |
中央区宗右衛門町 |
宗右衛門町(そえもんちょう).道頓堀北側の花街.今は盛り場.
"戎橋の北詰、ヨイと東へ曲がりますと宗右衛門町、いつに変わらぬ陽気なこと"(親子茶屋) |
宗右衛門町 |
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0506 |
大和屋 |
すみよし茶屋(新和上方復刻:05) 1件1題 (上方1件) |
中央区宗右衛門町5 |
宗右衛門町の大茶屋.周辺環境の変化に耐えられず店舗は近年廃業,料理は通販で買える模様.
"南やったら、大和屋の連中がええな"(すみよし茶屋) |
大和屋の暖簾 |
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0001 |
富田屋 |
三人兄弟(三一上方1:20) など 6件5題 (上方6件) |
中央区宗右衛門町6 |
富田屋(とんだや).宗右衛門町の大茶屋.現存せず.
"南地なら差し詰め富田屋いう風にごく応容な上品な遊び"(三人兄弟) |
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菱富 |
供養、供養しましょう(レオ三枝5:04) 1件1題 (上方1件) |
中央区宗右衛門町7 |
明治期創業の鰻料理店.江戸前の仕上げ.店内から道頓堀が望める.北の新地にも菱富があった.
"道頓堀川沿いの『菱富』という鰻屋さん行きまして"(供養、供養しましょう) |
菱富 |
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0506 |
道頓堀川 |
鍬潟(三一上方1:25) など 14件11題 (圓朝2件, 東京2件, 上方10件) |
中央区 |
安井(成安)道頓,道卜の開設による堀割.戎橋周辺の両岸は再び川面に近づけるようになった.かといって,その水を一杯奢ってもらえるほどきれいにはなっていない.
"道頓川を越えて向う側の塵芥場の裡へ、ドスンと落ちました"(鍬潟) |
道頓堀川 |
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0911 |
新戎橋 |
鰻屋(初代桂春団治落語集, 講談社 (2004)) |
中央区西心斎橋2〜道頓堀2 |
道頓堀川,佐野屋橋筋にかかる.現存.
"あんた新戎橋の橋いズーッと降りていきよるさかい"(鰻屋) |
新戎橋 |
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0506 |
道頓堀橋 |
美しく青き道頓堀川(アートン (2005)) |
中央区心斎橋2,西心斎橋2〜道頓堀1,2 |
道頓堀川,御堂筋にかかるだだ広い橋.現存.
"道頓堀橋をちょっと西に行ったところにはカーネルいうおじいさんの人形がヘドロの中に埋もれてる"(美しく青き道頓堀川) |
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道頓堀 |
貝野村(三一上方1:18) など 67件42題 (東京12件, 上方55件) |
中央区道頓堀あたり |
五座の芝居,飲食店がひしめき,浜側は芝居茶屋が並んでいた.今は芝居とは縁遠い町になったが,行くたびに何か変わっている繁華街.
"道頓堀の立派な宿屋へお泊まりになった(中略)済みませんが手水を廻しとくれんか"(貝野村) |
道頓堀 |
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0911 |
黒右衛門町 |
大阪名所 夫婦喧嘩(三一上方2:15) など 3件3題 (圓朝2件, 上方1件) |
中央区 |
九郎右衛門町.南地五花街の一.戎橋の西,道頓堀の芝居に隣接した繁華街.
"それほど九郎右衛門町した仲筋"(大阪名所 夫婦喧嘩) |
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橘屋 |
饅頭こわい(創元米朝1:09) など 3件1題 (上方3件) |
中央区黒右衛門町 |
享保年間創業の和菓子店,橘屋壽永.戎橋南詰.写真は今はなき"へそ"と薯用だったと思う.ちっちゃくなる前は知らない.
"橘屋のへそ。小っちょなったなあ"(饅頭こわい) |
へそと薯用 |
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8408 |
戎橋 |
土橋万歳(三一上方1:23) など 20件10題 (上方20件) |
中央区道頓堀1〜宗右衛門町,心斎橋筋2 |
道頓堀川にかかる.西宮戎へ通じる.あのグリコのネオンが見える橋.2008年に掛け替えられた.
"橋筋から戎橋を北へ渡ってまいります"(土橋万歳) |
戎橋 |
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0911 |
戎橋筋 |
住吉駕籠(三一上方1:13) 1件1題 (上方1件) |
中央区戎橋よりの南北路 |
戎橋を貫く南北路.アーケードになった繁華街.略して橋筋(はっすじ).奥に別項の丸万寿司の看板が見える.
"駕籠に乗って席廻りをしようと戎橋筋から道頓堀へ行きました"(住吉駕籠) |
戎橋筋 |
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0911 |
いずも屋 |
宿替え(講ス文庫上方:091) など 3件3題 (上方3件) |
中央区東心斎橋2-4 |
楽隊を持っていたりした大衆的鰻屋.いくつもいずも屋があったが,戎橋北詰に移転した写真の店舗は"昔からの"をうたっていた.
"ちょうど十二時どきですさかいご飯でも食べに行きましょうか、と、いずも屋へ入ったんだ"(宿替え) |
いづもや |
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8408 |
丸万(うどん) |
土橋万歳(三一上方1:23) など 9件3題 (上方9件) |
中央区心斎橋筋2-4 |
落語ではうどんの丸万がもっともお馴染み.○の中に万の字の看板.戎橋北西詰.今なし.戎橋の周辺にはここであげた4軒の丸万があった.宿屋の丸万(野辺(新和上方復刻:09))も確かにあったが位置がわからない.
"丸万の饂飩屋へはいってちょっと一杯飲みなはるやろ、そいで私いにかて小田巻取っとくなはるやおまへんか"(土橋万歳) |
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丸万(蒲鉾) |
御祝儀「東の旅」(三一上方1:24) など 2件1題 (上方2件) |
中央区道頓堀1-8 |
戎橋南東詰,道頓堀に面する.こちらはカマボコ屋.今なし.
"丸万のかまぼこ、丸万のすし、あれはいったいどないになるのや"(御祝儀「東の旅」) |
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丸万(すき焼き) |
御祝儀「東の旅」(三一上方1:24) など 2件1題 (上方2件) |
中央区道頓堀1-8 |
戎橋南詰東側やや奥,戎橋筋に面する.魚すきの丸万本家.被災して鰻谷に移転したが,休業.一時期,帝塚山で予約営業をしていたが,2007年から瓦町に戻り営業を再開している.
"南詰に丸万のすき焼き"(御祝儀「東の旅」) |
丸万の魚すき |
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0806 |
丸万(寿司) |
御祝儀「東の旅」(三一上方1:24) など 2件1題 (上方2件) |
中央区道頓堀1-9 |
戎橋南詰.戎橋筋のアーケードの西側で,丸万の名を得て営業中.2011年時点で店がなくなっていた.写真では,蒸し寿司の湯気があがっている.
"丸万のかまぼこ、丸万のすし、あれはいったいどないになるのや"(御祝儀「東の旅」) |
丸万寿司店 |
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9803 |
天神 |
鰻屋(初代桂春団治落語集, 講談社 (2004)) |
中央区道頓堀1-6 |
太左衛門橋詰の天ぷら店.南西詰にあった天金のことだろう.
"太左衛門橋の詰めの天神ちゅう天麩羅屋の安いとこ"(鰻屋) |
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井筒 |
うなぎや(桂枝雀爆笑コレクション1, 筑摩書房 (2005)) |
中央区道頓堀1-6 |
道頓堀浜側,天金の隣のうどん屋をあげておく.
"井筒のうどん屋の前、うどんで一杯飲ましてくれよんねん"(うなぎや) |
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山陽亭 |
うなぎや(桂枝雀爆笑コレクション, 筑摩書房 (2005)) |
中央区道頓堀1-6 |
道頓堀浜側にあった洋食屋.春団治(1)の速記本にある"三柳亭"は筆記ミス.
"今度山陽亭の前通りかかった。テッ、西洋料理やぁ"(うなぎや) |
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かに道楽 |
大阪レジスタンス(桂三枝創作落語大全集, メディアクラフト牡牛座 (2004)) |
中央区道頓堀1-6 |
ご存じ,動く看板が目印.阪神優勝で目玉を取られたのは道頓堀店.
"阪神優勝の時"かに道楽"の目玉取られましたけど"(大阪レジスタンス) |
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食いだおれ |
大阪レジスタンス(レオ三枝6:10) 1件1題 (上方1件) |
中央区道頓堀1-8 |
くいだおれ.ビル丸ごとレストラン.動く人形やらカニの足が,何十年か経ったら説明が必要になるのだろう.と2005年に書いたら,2008年に閉店してしまった.
"ニューヨークの自由の女神に習うて作った三十メートルのくいだおれの人形の像"(大阪レジスタンス) |
くいだおれ太郎 |
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0507 |
太左衛門橋 |
らくだ(講古典上方2:02) など 8件3題 (上方8件) |
中央区道頓堀〜宗右衛門町 |
川は道頓堀川.現存.芝居小屋の許可を得た大坂太左衛門に由来.「らくだ」の葬礼や千日前でお仕置きを受ける人も通った.願人坊主が酔い倒れていたのがここ.戦後まで木橋で再建.盛り場をむかしに戻すはしひとつ(食満南北).句碑は相合橋に移されている.
"太左衛門橋を引き返しますと、ちょうと、橋の北詰に一人の願人坊主"(らくだ) |
太左衛門橋 |
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0001 |
岩井風呂 |
逆い夢(三一上方1:08) 1件1題 (上方1件) |
中央区宗右衛門町 |
芝居にも出てくる風呂屋.太左衛門橋北詰.宗右衛門町.当時は道頓堀岸沿いには目立った建物はなかった.
"太左衛門橋で岩井風呂へとび込んで"(逆い夢) |
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櫓町 |
大阪名所 夫婦喧嘩(三一上方2:15) 1件1題 (上方1件) |
中央区道頓堀 |
芝居に由来する町名.相生橋を境に東櫓町と西櫓町.
"炬燵はなけれど櫓町"(大阪名所 夫婦喧嘩) |
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浪花座 |
大阪名所 夫婦喧嘩(三一上方2:15) など 3件3題 (上方3件) |
中央区道頓堀1-8 |
道頓堀五座の一.貞享元(1684)年,竹本義太夫の竹本座に発し,明和4(1767)年閉場後,大西の芝居.筑後の芝居.明治9年に戎座,明治20年に浪花座となり,戦後は映画館.松竹浪花座と演芸の浪花座が併設していたが2002年に閉場.
"それも浪花座前のことをいわんでもよい"(大阪名所 夫婦喧嘩) |
演芸の浪花座 |
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0001 |
豊竹座 |
新説・お菊の皿(にっかつ談志:6) 1件1題 (東京1件) |
中央区道頓堀 |
元禄16(1703)年,竹本座に遅れて開かれた道頓堀の人形芝居.明和2(1765)年に閉場.
""播州皿屋敷"と題する、操り浄瑠璃が大阪豊竹座に上演されました"(新説・お菊の皿) |
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中座 |
足上り(創元米朝1:05) など 13件10題 (東京1件, 上方12件) |
中央区道頓堀1-7 |
五座の一,中の芝居.寛文年間に開場.もっとも多く噺に登場.戦後は松竹新喜劇がかかり,松竹系の劇場となる.1999年に閉館し,解体中の2002年9月に爆発全焼した.
"中の芝居でんねん。中座か。はあ、後ろからちょっと立見か"(足上り) |
中座 |
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0001 |
角座 |
辻八卦(創元米朝7:03) など 4件4題 (上方4件) |
中央区道頓堀1-4 |
五座の一,角の芝居.寛文9(1669)年に官許.回り舞台をいち早く取り入れた.戦後は映画館を経て演芸場.1984年閉場,映画館になっていた.2004〜08年には,短期間ながらB1角座も付設.2013年からは松竹芸能DAIHATSU MOVE道頓堀角座.
"で、角の芝居の前まで行たら、看板、忠臣蔵や"(辻八卦) |
寄席の角座 |
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8308 |
竹田の芝居 |
上方見物(創元米朝7:11) 1件1題 (上方1件) |
中央区道頓堀1-5か |
竹田近江掾のからくり芝居.その細工は「蟇の油」にも登場.寛文2(1662)年,太左衛門橋南詰東の浜側に発する.後に朝日座の地に移転し,弁天座.大坂道頓堀竹田の芝居、値ェが安うて面白い.
"大阪道頓堀、竹田の芝居、銭が安うておもしろい"(上方見物) |
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朝日座 |
浮れの屑択り(騒人名作05:07) など 4件4題 (上方4件) |
中央区道頓堀1-4 |
五座の一,角丸の芝居.宝永7(1710)年官許.明治16年朝日座となる.松竹の映画館から道頓堀東映・東映パラスとなる.これも2007年に閉場.
"どこの活動や、ハハン朝日座か"(浮れの屑択り) |
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弁天座 |
上方見物(創元米朝7:11) など 2件2題 (上方2件) |
中央区道頓堀1-3 |
五座の芝居の内,もっとも東.戦災で焼失.松竹の文楽座から朝日座と改称,今は馬券売り場.
"昔は竹田の芝居というたが今は弁天座というのやな"(上方見物) |
朝日座 |
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8308 |
芝居裏 |
祝の壺(創元米朝2:15) など 3件3題 (上方3件) |
中央区道頓堀, 千日前, 難波1 |
まさに芝居の裏手の東西路.
"安もんの散財をしていた時に、ええ、芝居裏で馴染になったあの芸者"(祝の壺) |
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難波新地 |
たちぎれ線香(三一上方1:03) など 14件9題 (上方14件) |
中央区難波 |
難波村を開発,町割りした.明治後も難波新地.
"難波新地へ遊びに参られあるお茶屋へあがって数多の芸妓をシラせて"(たちぎれ線香) |
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中筋 |
たちぎれ線香(三一上方1:03) など 16件7題 (上方16件) |
中央区難波1 |
法善寺西門から西側の通り.元京橋町.妓楼が並んでいた.
"この小糸の屋形は中筋でございます"(たちぎれ線香) |
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相合町 |
大阪名所 夫婦喧嘩(三一上方2:15) 1件1題 (上方1件) |
中央区難波 |
芝居裏と馬場先との間に出てくるので,相合橋ではなく元相生町のことだろう.中筋の1本南の東西路.
"相に愛もつ相合町"(大阪名所 夫婦喧嘩) |
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馬場先 |
大阪名所 夫婦喧嘩(三一上方2:15) など 2件2題 (上方2件) |
中央区難波 |
大阪城の馬場調練に由来.元は生玉社から上本町にかけての遊所だったが,明治初年に難波新地に移転させられた.噺では,相合町と溝の側の間に位置.
"爺や馬場先とまで深ういいかわした"(大阪名所 夫婦喧嘩) |
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戎橋松竹 |
けつね(阪大上方17:1) 1件1題 (上方1件) |
中央区難波4-1 |
1947年開場の松竹系寄席."えびしょう".市電戎橋駅のすぐ南.今なし.
"わたくしがまだ戎橋松竹へでておりました時分に"(けつね) |
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名月楼 |
いびき車(大空SP01:25) 1件1題 (上方1件) |
中央区 |
南の料理屋.たちきり(普通名作4:07)の名月と同じ店か.
"南海のあんた名月楼の角まで戻りましたら仲居さんが出てな"(いびき車) |
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法善寺 |
軽業(創元米朝6:04) など 4件4題 (上方4件) |
中央区難波1-1 |
もともとの敷地は墓地の模様.お彼岸に行ってみても,関係者以外無用の者は入れてもらえなかった.法善寺にあった寄席で,前座さんが小拍子を叩いて旅ネタをかけていたというマクラ.
"法善寺なんかは昔は(中略)この音が表まで聞こえたりしておりました"(軽業) |
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法善寺:金比羅 |
たちぎれ線香(三一上方1:03) など 3件3題 (上方3件) |
中央区難波1-1 |
法善寺の本尊.今は水掛不動さんの北角にある.
"ほんなら金比羅はんへおまいりか"(たちぎれ線香) |
法善寺 |
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0506 |
法善寺:水掛け不動 |
蔵丁稚(創元米朝2:08) など 3件2題 (上方3件) |
中央区難波1-2 |
柄杓の水を浴びる苔むした露座の不動さんと前立童子.千日前のお不動さんというのも法善寺に合した.
"千日前のお不動さんへ、お百度踏みに行く言うて"(蔵丁稚) |
水掛け不動 |
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0507 |
入船 |
淀川(阪大上方13:1) 1件1題 (上方1件) |
中央区道頓堀1-7 |
「淀川」のマクラ.黒豆が名物の料理屋.法善寺横丁湖月の西隣の入船(大阪辨, 2輯).
"昔ははり半の吸物、信楽の刺身、入船の黒豆"(淀川) |
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紅梅亭 |
ふたなり(弘文志ん生6:02) 1件1題 (東京1件) |
中央区道頓堀1-7 |
法善寺の西北にあった寄席.現存しない.元は泉熊席であった.月亭文都らの三友派の拠点.
"ご当地にも、ゥゥ法善寺の、紅梅亭というような、ああいう結構な寄席もありまして"(ふたなり) |
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二鶴 |
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中央区難波1-1 |
法善寺東,紅梅亭の向かいあった有名なすし屋.未見だが「梶原鮨」で登場 |
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花月 |
伊勢参宮神乃賑(創元米朝6:03) 1件1題 (上方1件) |
中央区道頓堀1-7 |
法善寺横丁東入口にあった寄席.現存しないが碑が建つ.元は金沢亭であった.桂派の拠点だったが,吉本が買収し花月となる.
"法善寺の花月あたりでも前を通ると、この台を叩く音が聞こえてきたんですな"(伊勢参宮神乃賑) |
花月碑 |
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9809 |
喜川 |
大阪レジスタンス(レオ三枝6:10) 1件1題 (上方1件) |
中央区道頓堀1-7 |
本文では七七七[き]川,新しい速記では喜川.高級和食店.法善寺横丁の花月碑が店頭に立つ.
"わたいね、薬屋やる前ね、法善寺横丁にある『喜川』ちゅう料理屋で、板前やってましてん"(大阪レジスタンス) |
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自安寺 |
夢・まぼろし(レオ三枝2:04) など 2件2題 (上方2件) |
中央区千日前1-9 |
妙見さま.元は竹林寺の向かい.道頓堀1東5-13に移転.ビルの中に収まっている.
"小文枝師匠の十三回忌(中略)千日前の自安寺でしようか"(夢・まぼろし) |
自安寺 |
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0001 |
御午 |
大阪名所 夫婦喧嘩(三一上方2:15) 1件1題 (上方1件) |
中央区千日前,難波千日前 |
自安寺妙見の東,相合橋筋.午の日に縁日が開かれた.
"よう自安寺して御午であろうがな"(大阪名所 夫婦喧嘩) |
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阪町 |
魚の狂句(創元米朝1:10) など 7件5題 (上方7件) |
中央区千日前1 |
南地五花街の1つ.櫓町の南,ほぼ千日前1に相当.追いはぎが現れ,髭剃(ひげすり)の地名で呼ばれていた.
"坂町ときたらいろいろやさかいなあ。昆布巻きの中に鮒ありもろこありてなもんじゃ"(魚の狂句) |
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阪町天神 |
大阪名所 夫婦喧嘩(三一上方2:15) 1件1題 (上方1件) |
中央区千日前1-4 |
法祐寺.千日前変電所の裏手.今はない.
"頭を地につけ坂町天神さんのようやというたやないか"(大阪名所 夫婦喧嘩) |
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千日前 |
上方見物(青圓生06:09) など 20件14題 (東京2件, 上方18件) |
中央区千日前あたり |
法善寺千日寺の前.刑場跡.千日前,法善寺界隈は『なにわの難波のかやくめし』,『笑説法善寺の人々』に詳しい.写真の竹林寺は天王寺区に移転した.
"今は千日前という所は繁華でございますが、以前はあすこは刑場でございます"(上方見物) |
千日前竹林寺 |
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8408 |
千日前の焼場 |
らくだ(講古典上方2:02) など 6件1題 (上方6件) |
中央区千日前2, 難波3あたり |
らくだが焼かれそこなった火屋は,明治7年に阿倍野の葬儀場に移転.今はなき竹林寺のところの黒門を千日前に入り,南の突き当たり.
"ここはどこじゃ。千日の火屋じゃがな。冷酒でもかまわん、もう一ぱい"(らくだ) |
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三勝半七の墓 |
出歯吉(立名人名演07:19) 1件1題 (上方1件) |
中央区千日前2-9 |
三勝半七は千日の墓原で心中した.三津寺墓地内に現存.明治の千日前開発にあたって,追善法要が行われた.
"千日前のなァ、三勝・半七の、墓のあるとこな、むこうィ行こィな"(出歯吉) |
三勝半七の墓 |
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0001 |
千日劇場 |
馬の尾(桂米朝コレクション 8, ちくま文庫 (2003)) |
中央区千日前2-10 |
米朝の「馬の尾」の地の文で登場.歌舞伎座の跡を受けて,1958年から1969年までの期間.
"暗いうちから出て行って、いろいろ釣って帰ってきて、千日劇場ちゅうところへ十一時半ぐらいにちゃんと来て"(馬の尾) |
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溝の側 |
大阪名所 夫婦喧嘩(三一上方2:15) 1件1題 (上方1件) |
中央区千日前2, 難波3 |
遊所.黒門市場本通りあたりを東西に溝が通っていたことによる.次項自由軒は溝の側.
"深ういいかわした溝の側"(大阪名所 夫婦喧嘩) |
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自由けん |
大阪レジスタンス(桂三枝創作落語大全集, メディアクラフト牡牛座 (2004)) |
中央区難波3-1 |
自由軒.1910(明治43)年創業のカレー店.生卵が割り込まれた混ぜカレー.織田作の「夫婦善哉」にも登場.袂を分かった2店がある.
"ああ"自由けん"のドライカレーが食いたい"(大阪レジスタンス) |
自由軒 |
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0506 |
大寅 |
大阪レジスタンス(桂三枝創作落語大全集, メディアクラフト牡牛座 (2004)) |
中央区難波3-2 |
大寅蒲鉾.1876(明治9)年創業.噺に出てくる白天はキクラゲの入った色白のねり天.
""大寅"の白天食うて"(大阪レジスタンス) |
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北極 |
大阪レジスタンス(桂三枝創作落語大全集, メディアクラフト牡牛座 (2004)) |
中央区難波3-8 |
難波に本店を持つ♪北極のアイスキャンディー.1945年創業.
""北極"のアイスキャンデー食うて"(大阪レジスタンス) |
北極 |
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0506 |
演舞場 |
大阪名所 夫婦喧嘩(三一上方2:15) 1件1題 (上方1件) |
中央区難波3-8 |
本文で溝の側と南海難波駅との間に位置.現在の南街会館のところにあった演舞場.
"他へは結ばぬ演舞場とまでういたやないか"(大阪名所 夫婦喧嘩) |
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新歌舞伎座 |
地獄八景亡者の戯れ(PHP三枝:3) など 3件3題 (上方3件) |
中央区難波4-3 |
千日前の歌舞伎座(1932年)が,1958年に移転.2009年に移転閉場.歌舞伎座跡地は千日劇場から千日デパート.千日デパート火災後手つかずだったが,プランタンなんばから早くもビックカメラと移り変わりが激しい.
"新歌舞伎座でっか。イヤイヤ、これは旧歌舞伎座です"(地獄八景亡者の戯れ) |
新歌舞伎座 |
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0506 |
高島屋 |
夏の和尚さん(桂三枝創作落語大全集, メディアクラフト牡牛座 (2004)) |
中央区難波5-1 |
高島屋百貨店.御堂筋の南端,南海難波駅とともに堂々としたビルがある.タイトルは,夏のお嬢さんの間違いではない.念のため.
"大阪と言うたら、高島屋からずっと戎橋筋"(夏の和尚さん) |
高島屋百貨店 |
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1111 |
新金比羅 |
大阪名所 夫婦喧嘩(三一上方2:15) 1件1題 (上方1件) |
中央区難波千日前11 |
法善寺の金比羅に対して,明治に設けられた新金比羅.ジュンク堂書店の位置にあったが,今はない.
"法善寺や新金比羅さんへはだし詣り"(大阪名所 夫婦喧嘩) |
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大劇 |
馬場の狐(三一上方2:37) など 2件2題 (上方2件) |
中央区千日前2-8 |
大阪劇場.1934年開業.大阪松竹歌劇団の拠点だったが1967年に閉場.後に大劇プレイランドとなるも,現存しない.
"久し振りで大劇へ行て戻りに出雲屋のまむしを食べて来るワ"(馬場の狐) |
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日本橋 |
宿屋仇(三一上方2:18) など 21件10題 (上方21件) |
中央区道頓堀1〜宗右衛門町,島之内2 |
"にっぽんばし".落語では宿屋街,いまは電気街.安眠できるかは部屋割り次第,心付けには無関係.日本橋筋は浪速区に分類.
"明早朝日本橋にて出会討ち"(宿屋仇) |
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安井の屋敷 |
次の御用日(三一上方1:15) など 2件1題 (上方2件) |
中央区島之内2 |
日本橋北詰東側.南組惣年寄,安井家の屋敷.写真の碑は土地所有権を争った道頓堀裁判の証拠にもなった.
"安井のお稲荷さんと申します。ここが安井の屋敷"(次の御用日) |
贈従五位安井道頓道卜紀功碑 |
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0001 |
安井の屋敷:稲荷 |
次の御用日(三一上方1:15) など 3件2題 (上方3件) |
中央区島之内2 |
安井家の屋敷神.高津神社に移転.「次の御用日」地の文で,日本橋北東詰にあると説明.前項の碑の東にある大楠の木あたりが安井稲荷(三田純市,道頓堀−川・橋・芝居,白河書院(1975)).
"日本橋北詰エまいりました東側にただ今お稲荷さんがあります。安井のお稲荷さんと申します"(次の御用日) |
安井稲荷 |
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0001 |
日本一 |
田楽喰い(創元米朝4:04) 1件1題 (上方1件) |
中央区日本橋1 |
日本橋1丁目!
"日本橋の一丁目のとこでね。日本一。あんなまた南のド真ン中"(田楽喰い) |
日本一 |
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0506 |
文楽劇場 |
猫の忠信(桂枝雀爆笑コレクション4, 筑摩書房 (2006)) |
中央区日本橋1-12 |
1974年開場.独立行政法人日本芸術文化振興会国立文楽劇場.
"今は文楽劇場でしかまあ、お目にかかれないようなもんでございます"(猫の忠信) |
国立文楽劇場 |
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0001 |
黒門市場 |
大阪レジスタンス(レオ三枝6:10) 1件1題 (上方1件) |
中央区日本橋1, 2 |
大阪の台所.鮮魚等のマーケット.元々あった圓明寺の黒門に由来するという.
"大阪ミナミの黒門市場の天ぷら屋の子として生まれて"(大阪レジスタンス) |
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御蔵跡 |
一文笛(創元米朝2:10) など 2件2題 (上方2件) |
中央区日本橋2 |
幕府の天王寺米蔵跡が明治期に町名となる.
"じきに後を追いかけて行て、御蔵跡のあたりで追いついたら"(一文笛) |
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高津新地 |
天神山(三一上方2:11) など 5件2題 (上方5件) |
中央区日本橋2あたり |
狐を嚊にもらった「天神山」のいちびり.高津新地百軒長屋ガタガタ裏に住まう.
"私の宅へおいで、高津新地百軒長家ガタガタ裏で"(天神山) |
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高津橋 |
稲荷俥(創元米朝2:05) 1件1題 (上方1件) |
中央区高津3-6〜3-7 |
川は高津入堀.現存しない.高津入堀は地図からも,歩いてもそれとわかる地割り.
"高津橋の北詰東へ入った所で"(稲荷俥) |
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高津四番町 |
稲荷俥(創元米朝2:05) 1件1題 (上方1件) |
中央区高津2,3 |
高津入堀の北側.「稲荷俥」に登場する米屋大浦は実在するという.
"おまはん家はどこや。へえ、高津の四番町で"(稲荷俥) |
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二ツ井戸 |
口合小町(創元米朝4:11) など 10件8題 (上方10件) |
中央区道頓堀1 |
道頓堀東端南側に並んであった2つの井戸.明治期に埋められた.
"二ツ井戸のあたりで岩おこしでも買うて手みやげ代わりにするんかいなァ"(口合小町) |
津の清前二ツ井戸 |
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0001 |
津の清 |
播州巡り(三一上方2:06) など 2件2題 (上方2件) |
中央区道頓堀1 |
津の清(つのせ).大阪名物粟おこしの店.旧地より西へ100mほど移動したという.店頭に二ツ井戸を模した井戸側を設けていた.最近,堺市に移転してしまった.小噺「岩おこし」.
"大阪の名物で津の清の岩おこしは名物でうまいがどういうわけや"(播州巡り) |
岩おこし掛け紙 |
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0802 |
梅ヶ辻 |
大阪名所 四季の夢(三一上方2:31) 1件1題 (上方1件) |
中央区谷町9,中寺2あたり |
高津神社東の谷町.菊人形が有名だった.
"とうとう梅ヶ辻まで来ました。この頃は菊の盛りというので庭へ入ってみると、菊の作物、色々さまざまな細工物の菊"(大阪名所 四季の夢) |
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高津神社 |
高津の富(三一上方2:10) など 17件8題 (東京1件, 上方16件) |
中央区高津1-1 |
祭神は仁徳天皇.境内は「高津の富」,絵馬堂は「崇徳院」,石段は「仕込みの大筒」の舞台.
"出てまいりましたのが高津さん。なんし久し振りの富というので境内は一ぱいの人で"(高津の富) |
高津神社 |
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0001 |
高津神社:絵馬堂 |
崇徳院(創元米朝3:01) など 4件1題 (上方4件) |
中央区高津1-1 |
西側の眺望が開けていた.「崇徳院」出会いの場面.今は茶店はない.舞台(四季の夢)は絵馬堂と同じだろう.民の竈の故事はここと特定されてはいないが,仁徳天皇のお歌にピッタリ.「高津の富」を題材にした成瀬國晴の額が揚がる.
"高津さん、仁徳天皇よう知ってる(中略)ご参詣をすませてから絵馬堂の茶店で一服した"(崇徳院) |
高津の絵馬堂 |
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0506 |
高津神社:西坂 |
播州巡り(三一上方2:06) など 5件4題 (上方5件) |
中央区高津1-1 |
三くだり半の坂だったため,縁切りの俗信があった.落語にもよく出てくる.俗信を嫌い明治期に改修とのこと.
"大阪は高津の西坂、あれが三下り半"(播州巡り) |
高津神社西坂 |
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0506 |
高倉稲荷 |
稲荷俥(創元米朝2:05) など 3件3題 (上方3件) |
中央区高津1-1 |
高津神社境内.こぉずーっと行きなはれ,です.「高倉狐」(東京の「王子の狐」)の舞台.
"高倉さんはあの高津神社の境内の中にございますな"(稲荷俥) |
高倉稲荷 |
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0506 |
湯豆腐屋 |
大阪名所 四季の夢(三一上方2:31) 1件1題 (上方1件) |
中央区高津1-1 |
高津神社境内,石段下の左手にあった.初めて参詣したときには営業していたのに.残念.
"高津の湯豆腐屋で一盞飲んでいると、雪がちらちら降ってきた"(大阪名所 四季の夢) |
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黒焼屋 |
いもりの黒焼(創元米朝2:02) など 9件6題 (上方9件) |
中央区瓦屋町3 |
高津神社西の石段下すぐに2軒の黒焼屋があった.今はなし.東京上野の黒焼屋は健在.
"鐘を段取りいたしまして高津の黒焼屋から、いもりの黒焼を買うてきて"(いもりの黒焼) |
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南瓦屋町 |
帯久(創元米朝5:11) 1件1題 (上方1件) |
中央区瓦屋町 |
「帯久」の店を焼いた大火の説明.御用瓦師が瓦を作っていた.明治になって瓦屋町.
"南瓦屋町二丁目、帯屋久七出とおるのォ"(帯久) |
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土浦藩の蔵屋敷 |
井戸の茶碗(続珍品復活上方落語選集, 燃焼社 (2002)) |
中央区瓦屋町2 |
上方に移殖した「井戸の茶碗」に登場.瓦屋町2の広い範囲で,中央小学校の校庭に碑がある.
"土浦藩の蔵屋敷は、少し南に下りました瓦屋町にあったのでございます"(井戸の茶碗) |
土屋相模守蔵屋敷跡碑 |
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0706 |
吉助 |
大阪名所 四季の夢(三一上方2:31) など 2件2題 (上方2件) |
中央区瓦屋町2 |
松井吉助の開いた牡丹園.瓦屋町三番町にあった.
"南へ曲がると吉助の牡丹が真っ盛り"(大阪名所 四季の夢) |
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郵便局 |
大阪名所 夫婦喧嘩(三一上方2:15) 1件1題 (上方1件) |
中央区瓦屋町3-10 |
高津郵便支局.瓦屋町五番町.道頓堀と東横堀の角地.
"自分ばかり勝手なことを郵便局"(大阪名所 夫婦喧嘩) |
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瓦屋橋 |
吉野狐(三一上方1:11) など 4件1題 (上方4件) |
中央区島之内2〜瓦屋町2 |
東横堀川にかかる.現存.主人公島三郎が身投げをはかる「吉野狐」の冒頭.
"瓦屋橋の西詰から人の見ているも知らずに、橋の欄干に手をかけて今や飛び込まんとするありさま"(吉野狐) |
瓦屋橋 |
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0001 |
九之助橋 |
らくだ(講古典上方2:02) など 6件2題 (上方6件) |
中央区島之内1〜松屋町 |
東横堀川にかかる.現存.いかにも人名に由来しそうな橋名.九之助町は橋西側.空堀を出た「らくだ」の葬礼が西に渡る.堺筋から太左衛門橋を渡って千日前へ.
"九之助橋を西へ渡って、大宝寺町を堺筋へ出て"(らくだ) |
九之助橋 |
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0001 |
松屋町筋 |
けんげしゃ茶屋(創元米朝5:13) など 6件3題 (上方6件) |
中央区 |
松屋町筋(まっちゃまちすじ).東横堀のすぐ東,今でも人形店,玩具問屋がならぶ南北路.西の浅草橋.
"生国魂はんは松屋町筋を……まっすぐ迷わずただ一筋じゃ"(けんげしゃ茶屋) |
松屋町筋 |
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0506 |
松屋町 |
しじみ屋(青小南:10) など 11件10題 (上方11件) |
中央区松屋町 |
町名としては明治以後.松屋町表町,裏町,丹波屋町が松屋町となる.
"南に松屋町から、船場から、粟田から新町"(しじみ屋) |
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松屋表町 |
佐々木裁き(三一上方1:06) など 4件1題 (上方4件) |
中央区松屋町 |
江戸期の町名.末吉橋の東.「佐々木政談」主人公の少年の実家.
"松屋表町−高田屋綱五郎、町役一同出ろ出ろ"(佐々木裁き) |
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末吉橋 |
後家馬子(三一上方2:21) など 6件2題 (上方6件) |
中央区南船場1〜松屋町 |
東横堀川にかかる.現存.末吉孫左衛門が架橋.末吉家は末吉船による東南アジア貿易で繁栄した平野の豪商.別邸が東横堀にあった.
"末吉橋やない、住吉橋やというのんで"(後家馬子) |
末吉橋 |
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0001 |
安堂寺橋 |
入込噺「東の旅」(三一上方1:22) など 4件4題 (上方4件) |
中央区南船場1〜松屋町,住吉町 |
東横堀川にかかる.現存.安曇寺(あんどんじ)/阿曇寺(あずみでら)に由来するという説がある.「東の旅」の発端,ここから旅が始まる.
"友達に送られて安堂寺橋から東へ東へと取ってまいります"(入込噺「東の旅」) |
安堂寺橋 |
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0506 |
安堂寺橋筋 |
五人裁き(三一上方2:24) 1件1題 (上方1件) |
中央区南船場 |
「五人裁き」,娘を新町に売った爺が松屋町へ向かう.金をだまし取られるのが安堂寺町一丁目.
"安堂寺橋筋を松屋町へ出て南へ天王寺村へ帰ろうという算段"(五人裁き) |
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空堀通り |
らくだ(講古典上方2:02) など 5件1題 (上方5件) |
中央区空堀町あたり |
大坂城の空堀跡.今も空堀通りと呼ばれる.花月亭九里丸が生まれ,空堀の師匠と呼ばれた三遊亭圓馬(2)が住んだ.天王寺区の壽法寺にある墓の表には 翁の一文字,裏には辞世の句,波ら波らになりて音なし古扇 三遊亭方水圓翁居士 橘の圓 三代目圓馬 とある.左は妻のおさん墓.
"棺桶をかつぎました二人、空堀通りを西へ"(らくだ) |
寿法寺 二代目三遊亭圓馬墓 |
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1111 |
野ばく |
らくだ(吉本ヨシモト22:1) 1件1題 (上方1件) |
中央区谷町6あたり |
空堀北の低地.旧賑町あたりが,のばく(野漠)にあたる.「らくだ」の住んだ長屋はここ.直木三十五はのばくを見下ろす内安堂寺町に育った.
"空堀の野ばくにらくだの卯之助と云う賭博師!"(らくだ)
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谷町 |
アメリカ人の恋(毎日三百年2:08) 1件1題 (上方1件) |
中央区谷町あたり |
"谷町行きの電車"の用例なので谷町六丁目付近.相撲界発祥のタニマチの語源.
"何のことはない谷町行きの電車が、上本町を曲がるように体を回して来て"(アメリカ人の恋) |
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不明 |
西渡海里町 |
三十石(青圓生03:01) など 3件1題 (東京2件, 上方1件) |
中央区か |
「三十石」の帳付け.大坂西渡海里町に住むというが,不明.
"わいは大阪西渡海里町じゃ"(三十石) |
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