静岡県 その2 | ||
圓朝地名図譜 |
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元亀三年壬申年十月十四日、武田晴信入道信玄、其の勢三万五千余人を引率して甲府を雷発におよび、遠州周智郡乾の城主天野宮内左衛門景連、蘆田下野守、此の両人を案内者とし、先手山県三郎兵衛昌景に五千余騎をさし添へて、同国飯田、多々羅の両城へ責めかゝる (三遊亭金馬(1) 「嚔講釈」) 暉峻康隆ら編,『明治大正落語集成』 第五巻,講談社(1980) |
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三月十四日十五日は府中宿の淺間樣のお祭りで殊(こと)に其の年は大層出來が宜(よ)く萬燈も出來花車(だし)も出る踊り屋臺も出るといふので近在近郷の者も此の祭りを見なければ羞(は)ぢだといふ位ゐで (春錦亭柳桜 「阿倍川原風仇浪」) 『阿倍川原風仇浪』 三友舎(1892) |
地点名 | この1題・登場回数 | 位 置 | 備 考 | 写真と撮影年 | |||
静岡 | しずおか | お茶くみ(講明治大正6:58) など 64件39題 (圓朝7件, 東京52件, 上方5件) | 静岡市 | 「お茶汲み」だから,女郎の出身地は静岡.粟ヶ岳に描かれた"茶"の一字は,新幹線からも見える.残念ながら茶の木でできてはない. "私は静岡の在の者だが、若気の誤りで近所の清三郎という若い男と出来合ったが"(お茶くみ) |
牧ノ原台地から粟ヶ岳茶の一字 | 2020 | |
駿府城 | すんぷじょう | 城木屋(青圓生12:16) 1件1題 (東京1件) | 静岡市葵区駿府公園あたり | 駿河の御城下! 東御門と巽櫓は1989年に再建. "生まれ故郷が、府中……駿河の城下町で、今の静岡でございます"(城木屋) |
駿府城巽櫓 | 2020 | |
静岡:八幡 | やわた | 阿倍川原風仇浪(三友舎(1892)) | 静岡市葵区八幡 | 八幡(やはた).春錦亭柳桜の「阿倍川原風仇浪」の主な舞台は静岡.兄妹が父親の敵の広瀬軍蔵を討つ人情噺.いくつかの地名を取りあげる.八幡にある祖父の最上金太夫の家を兄妹らが頼る.八幡は静岡駅の南東.小高い丘上に八幡神社の本殿がある. "わたしの親父さんが駿河の府中在の八幡村にお出でなされ"(阿倍川原風仇浪) |
八幡神社 | 2013 | |
静岡:鷹匠町 | たかじょうちょう | 阿倍川原風仇浪(三友舎(1892))など | 静岡市葵区鷹匠 | 「阿倍川原風仇浪」,兄妹が剣術をならう沢田角左衛門の道場がある.ほかには,圓馬(3)の「ざんぎりお滝」に鷹匠町など市内の地名が登場する.鷹匠町は,新静岡駅のそば.鷹匠の稲荷は一加番稲荷と呼ばれる.駿府城警備の加番役が勤めていた. "駿州府中在鷹匠町の沢田角右衛門方へ剣術の稽古に参ります"(阿倍川原風仇浪) |
一加番稲荷 | 2013 | |
静岡:水荷 | みずおち | 骸骨於松(毎日新聞 (1897)) | 静岡市葵区水落町 | 水落(みずおち).駿府城の堀の水を,水門を通して横内川へ落としていた.横内川は暗渠になっていて,今は水落交番の脇でもぐり込んでいるのが見えた.カルガモが流されないように柵がついている. "荒井仙作と申しますは水荷の住ひ"(骸骨於松) |
ここが水落 | 2020 | |
静岡:浅間神社 | せんげんじんじゃ | 藪入り(講昭和戦前2:16) など 5件2題 (東京5件) | 静岡市葵区宮ヶ崎町102-1 | 拝殿に代表される建築は,19世紀の再建にかかり国重文.背後は静岡の名の由来となった賤機山. "さしずめ静岡へ行って、浅間様から久能山"(藪入り) |
浅間神社拝殿 | 2017 | |
静岡:宮ヶ崎 | みやがさき | 恋路の闇(扇拍子, 私刊 (1897)) | 静岡市葵区宮ヶ崎町 | 三遊亭圓右(1)演の「恋路の闇」は静岡を舞台とするため,数件の地名が出てくる.浅間神社の参道にあたる.赤鳥居を模したモニュメントがある. "手紙を書いて使いに持たせて宮ヶ崎の三蔵の所へやりました"(恋路の闇) |
宮ヶ崎 | 2009 | |
静岡:草深の稲荷 | くさぶかのいなり | 恋路の闇(扇拍子, 私刊 (1897)) | 静岡市葵区東草深町,西草深町 | ここの稲荷祭の時に,「恋路の闇」の殺人事件が起きる.城の周りに東草深と西草深があり,どちらにも稲荷社がある.写真は東草深の三加番稲荷. "草深の稲荷様の祭りで、この頃にないよく出来まして"(恋路の闇) |
三加番稲荷 | 2009 | |
静岡:安西 | あんざい | 恋路の闇(扇拍子, 私刊 (1897))など | 静岡市葵区安西 | 「阿部川原風仇浪」「西海屋騒動」や「骸骨於松」にも登場する地名.浅間神社の西で,たしかに今も中心街からはずれている.製茶工場や製缶店が建ち並んでいた. "静岡の安西と申します所…………ただ今では市中になっておりますが少し片田舎のような所でございます"(恋路の闇) |
安西あたり | 2009 | |
静岡:呉服町 | ごふくちょう | 阿部川原風仇浪(三友舎 (1892)) | 静岡市葵区呉服町あたり | 静岡の中心街.ここで東海道が西に曲がる.その角に里程元標が置かれており,それを示す碑もある.磯おろしが名物の戸隠そばの店や,天明元年創業の葉茶屋,竹茗堂の本店などが並んでいる. "呉服町がよい、あすこなれば忌でも応でも一本道の東海道の上り下りの所ゆえ人通りもはげしい"(阿部川原風仇浪) |
呉服町アーケード | 2023 | |
静岡:両替町 | りょうがえちょう | 恋路の闇(扇拍子, 私刊 (1897))など | 静岡市葵区両替町 | 駿府の中心街.後に江戸の銀座に移転する銀座があった.十返舎一九もこの町内で産まれたと言う.誕生地を示す木柱も立っている.「恋路の闇」に出てくる静岡町名の一つ.このほか,圓馬(3)が演じた「ざんぎりお滝」の終盤に登場する. "わしも直きそこの両替町の佐野春に泊まっております"(恋路の闇) |
駿府銀座発祥の地碑 | 2009 | |
静岡:七間町 | しちけんちょう | 月夜の屋根裏(サンデー毎日, 18(13) (1918)) | 静岡市葵区七間町 | 東海道が東西に通っていた.「月夜の屋根裏」は,圓馬(3)が『サンデー毎日』に連載した「ざんぎりお滝」の終盤部分.両替町との交差点あたりで押し込み強盗に入る.今でも繁華街で,呉服町との交差点は高札場で,札之辻址の碑が立っている.町名標の石碑は,西端に近いところにある.このあたり,映画の映写機などが展示され,七ぶらシネマ通りと呼ばれる. "七間町から両替町へ曲らうといふ角に立花家といふ呉服屋さんがございます"(月夜の屋根裏) |
七間町札之辻址 | 2023 | |
静岡:寺町 | てらまち | 骸骨於松(毎日新聞 (1897)) | 静岡市葵区常磐町3・駒形通1あたり | 城下町の西側に寺院が集中していた.今も,善然寺と感応寺が残っている.町名碑は,跡地の常磐公園の北西部にある.速記には芝居見物とあるが,地図には芝居茶屋の文字も見える. "近所の誰彼に誘はれ寺町の小川座へ芝居を見物に行きました"(西海屋騒動) |
寺町町名碑 | 2020 | |
静岡:二丁町 | にちょうまち | 義太夫がたり(講明治大正7:38) 1件1題 (東京1件) | 静岡市葵区駒形通付近 | 家康ゆかりのかつての遊廓.七町あったが江戸吉原に五町が移り,二町が残って二丁町だという.碑の雙街とは二丁町のこと.題字は静岡県知事,イキなこと.人情噺の「阿部川原風仇浪」では,二丁町の廓に身を売って,仇が登楼するのを待ち受ける. "二丁町を見物したり、浅間様へお詣りしたりしましょう"(義太夫がたり) |
静岡雙街記念之碑 | 2020 | |
静岡:弥勒町 | みろくちょう | 五人廻し(三一談志4:05) など 2件1題 (東京2件) | 静岡市葵区弥勒 | 弥勒.安倍川を渡る手前の河原.川会所があった.名物は弥勒茶屋の安倍川餅.弥勒の説明文には,明治天皇御小休所跡碑,立場跡,安倍川義夫の碑,次項のなど由井正雪公之墓趾など盛りだくさん. "静岡の弥勒町から来たのが、鎌倉河岸に十五、六軒"(五人廻し) |
弥勒の歩み案内図 | 2020 | |
静岡:由井正雪の墓 | ゆいしょうせつのはか | 阿部川原風仇浪(三友舎 (1892))など | 静岡市葵区弥勒 | 弥勒には,慶安の乱の首謀者,由井正雪の墓あったと言われている.自刃した由井正雪の首は安倍河原にさらされ,寺町の菩提樹院に葬られた.新旧東海道にはさまれた三角地帯に由井正雪公之墓趾碑が立っている. "阿部川から一丁ばかり往くと、左り側に由井正雪の墓があるから"(阿部川原風仇浪) |
由井正雪公之墓趾 | 2020 | |
賤機山 | しずはたやま | 阿倍川原風仇浪(三友舎(1892)) | 静岡市葵区 | 標高171m.静岡の地名の由来となった山.南麓の浅間神社から百段階段を登って,浅間山の観音を超え,鯨ヶ池へ至る縦走路が貫いている.市民のハイキングコース.今川氏によって整備され,家康に廃された山城の賤機城.山頂に碑だけが残っている. "この山は何という山だ。ヘエ賤機山でもう一般に静岡と云います"(阿部川原風仇浪) |
賤機山城塞址 | 2017 | |
安倍川 | あべかわ | 甲子待(講明治大正3:30) など 5件4題 (圓朝1件, 東京4件) | 静岡市 | 安倍川橋の東詰に石部屋(せきべや)など安倍川餅を商う店がならぶ.どうせ買うならここ.唐茄子の安倍川は江戸名物. "鞠子の宿はかの安倍川の河留めについて上方から下らるるところの大名が宿一杯でとんと泊るところがない"(甲子待) |
安倍川餅石部屋 | 2009 | |
鞠子 | まりこ | とろゝん(講明治大正7:26) など 13件7題 (圓朝1件, 東京10件, 上方2件) | 静岡市駿河区丸子あたり | 東海道の宿場.丸子とも書く.「とろろん」は,鞠子名物とろろ汁を催促する噺.でろれん祭文でサゲる(→ 絶滅危惧落語「とろろん」).とろろ料理の丁子屋は広重版画を模した民家を移築したもの. "鞠子の名物といっったろとろろ、桑名の名物といったら焼き蛤と極まっているぢゃアねえか"(とろゝん) |
鞠子名物とろろ汁 | 2013 | |
鞠子:一力 | いちりき | とろゝん(講明治大正7:26) など 2件1題 (東京1件, 上方1件) | 静岡市駿河区か | 京の一力に並び称される料理屋という. "京の一力、鞠子の一力といやア御客様を丁寧にする評判の家だよ"(とろゝん) |
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鞠子:誓願寺 | せいがんじ | 阿倍川原風仇浪(三友舎(1892)) | 静岡市駿河区丸子 | 「阿倍川原風仇浪」,敵の軍蔵が安倍川を超えて遊山に出かける場面.この帰りに二丁町に立ち寄り,敵と露見する.大鈩山誓願寺.方広寺の鐘の国家安康の文字を家康に説明するため,この寺に賤ヶ岳七本槍の片桐且元が詰めていた.しかし申し開きかなわず.大坂冬の陣を迎え,豊臣家は滅んでしまう. "誓願寺は皆さんお通りの節ご覧になりましたろう"(阿倍川原風仇浪) |
片桐且元墓 | 2013 | |
吐月峰 | とげっぽう | 藪入り(講昭和戦前2:16) など 5件2題 (東京5件) | 静岡市駿河区丸子3316 | 臨済宗天柱山吐月峰柴屋寺.飯尾宗祇の弟子の宗長の草庵.茶室から見る月見の山と,灰吹きの別名吐月峰に代表される竹細工が有名. "吐月峰へおまいりをして、豊川様へも行きてえな"(藪入り) |
吐月峯灰吹き | 2013 | |
宗祇の碑 | そうぎのひ | 能祇法師(騒人名作03:21) など 2件1題 (東京2件) | 静岡市駿河区丸子か | 1件の速記に,柴屋寺に宗祇の碑があるように書かれている.吐月峰の庭奥には宗祇の碑ではなく,宗長,宗祇の墓があるという.しかし,普段は参拝できない.なお,宗祇は箱根で客死しており,神奈川県の早雲寺の項目で紹介している. "その昔宗祇という者がありました。ご承知の通り駿河の吐月峰に立派な碑が建っております"(能祇法師) |
宗長,宗祇の木像 | 2001 | |
宇津ノ谷 | うつのや | 墨絵之富士(文事堂 (1887)) | 静岡市駿河区宇津ノ谷 | 宇津ノ谷峠の静岡側の集落.豊臣秀吉拝領の陣羽織を所蔵するお羽織屋がある.家々の玄関には,ブドウの房のような魔除けの十団子(とおだんご)がぶら下げられている.お盆に慶龍寺で授ける. "さきほど宇津谷まで用事ができて入らっしゃいましたが"(墨絵之富士) |
十団子 | 2020 | |
宇津ノ谷峠 | うつのやとうげ | 毛氈芝居(青正蔵1:11) など 12件6題 (圓朝2件, 東京10件) | 静岡市駿河区〜藤枝市岡部町岡部 | 「毛氈芝居」,文弥殺しの芝居の場面に登場する.芝居では"宇都谷"と書くようで,落語速記でも"宇都谷"のことが多い."宇津ノ谷"に統一してカウントしている.講談の「慶安太平記」では,善達箱根越え.こちらも殺しの場面. "舞台いっぱいに飾りました峠、花道を山道にして(中略)木立でもって、陽もろくろくささないというほど、ものすごい峠道"(毛氈芝居) |
宇津ノ谷峠ジオラマ | 2013 | |
宇津ノ谷峠:隧道 | とんねる | 化物屋敷(文芸倶楽部, 13(1) (1907))など 1件1題 (圓朝1件) | 静岡市駿河区〜藤枝市岡部町岡部 | 宇津ノ谷峠には,明治,大正,昭和,平成と各時代のトンネルがある.ジオラマの左側が明治,右手側が大正のトンネルになる.明治9年に開通したトンネルは,両側から掘っていったが,静岡側が食い違ったため掘り直された.折れ曲がったトンネル内部に鏡で光を送っていることが,「化物屋敷」のマクラに記されている.「化物屋敷」は,現在「二人書生」として演じられている落語の原作. "先年、東海道宇都谷の隧道を通過たことが厶います"(化物屋敷) |
宇津ノ谷隧道藤枝口 | 2020 | |
宇津ノ谷峠:地蔵堂 | じぞうどう | 甲子待(講明治大正3:30) 1件1題 (東京1件) | 静岡市駿河区 | 宇津ノ谷峠そばの地蔵堂跡は発掘調査され,整備された.石垣が残っている.地蔵尊は峠下の慶龍寺に移転した. "よんどころなく宇津谷峠を越えんと(中略)だんだん山を登って往くと、かの山上に一つの有名なる所の地蔵堂がござる"(甲子待) |
地蔵堂跡 | 2008 | |
蔦の細道 | つたのほそみち | 毛氈芝居(青正蔵1:11) など 3件2題 (東京3件) | 静岡市駿河区丸子〜藤枝市岡部町岡部 | 東海道以前,在原業平が通ったとされる旧道.峠には業平歌碑."駿河なる宇津の山辺のうつつにもゆめにも人にあわぬなりけり".江戸期には廃道状態だったことを憂えた蘿径記碑がある.今は整備されて宇津谷峠越と往復で利用できる. "殺すところも宇都谷峠、しがらむ蔦の細道で、血潮の涙、血の紅葉"(毛氈芝居) |
蔦の細道上り口 | 2001 | |
蟻の塔 | ありのとう | 慶安太平記(三一談志2:11) 1件1題 (東京1件) | 静岡市駿河区か | 不明.宇都谷峠の設定. "坊さんよ、ここが蟻の塔という場所だ"(慶安太平記) |
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某神様の社 | なにがみさまのやしろ | 慶安太平記(三一談志2:11) 1件1題 (東京1件) | 静岡市駿河区か | 不明.宇都谷峠の設定. "この先が"蔦の小路"という難所でな。某神様の社があるからそこで一服やろう"(慶安太平記) |
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日蔭村 | ひかげむら | 江戸の夢(青圓生13:19) など 2件1題 (東京2件) | 静岡市:架空 | 宇野信夫の新作「江戸の夢」の舞台である宇津谷西にある茶畑の村.ほかに,駒止村,万年池,蓮華寺が出てくる. "私は東海道・鞠子の在、日蔭村の庄屋武兵衛と申す者でございます"(江戸の夢) |
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岡部 | おかべ | 白木屋(講明治大正2:14) など 9件7題 (圓朝2件, 東京7件) | 藤枝市岡部町岡部 | 東海道の宿場.旧岡部町.三方ヶ原の戦い後,家康に召された岡部氏.曹洞宗萬松院に岡部氏の墓がある.中央が岡部美濃守信綱の墓.「をかべ」という落語(講明治大正5:25)は,豆腐の別名のおかべで下げる釈種.この噺にも,岡部に出かける場面があるが,これは渋谷の岡部美濃守のこと. "岡部宿で六部が順礼のところへ夜ばいに参りまする所を見ておりますと"(白木屋) |
岡部氏墓 | 2020 | |
藤枝 | ふじえだ | 蓮台奇縁(本草堂江戸噺 続, 相模書房 (2007)) | 藤枝市 | 東海道の宿場.藤枝駅からは3キロほど離れている.藤枝は田中藩の城下町でもあった.田中城は,徳川家康がタイの天麩羅を食べて,死に至った曰く付きの城.地図でもはっきりわかる同心円状の形をしており,四重の堀で囲まれていた.田中城下屋敷に,田中藩の領界石と本丸櫓が移築されている. "しかも藤枝から、掛川、袋井にかけての宿々で人に知られた風流人"(蓮台奇縁) |
田中城本丸櫓 | 2020 | |
広野 | ひろの | 恋路の闇(扇拍子, 私刊 (1897)) | 静岡市駿河区広野 | 「恋路の闇」に登場.殺人の舞台の静岡の安西から一里ほど.ここに住む回船業が出てくる.用宗港が近く,生シラス売りの店が目立った. "広野村と申します通運会社、あるいは船から揚げまする荷物を扱いまする者や漁師などの住んでおります所"(恋路の闇) |
広野バス停 | 2009 | |
大崩 | おおくずれ | 阿倍川原風仇浪(三友舎 (1892))など | 静岡市駿河区石部あたり | 静岡の石部から焼津の浜当目あたりまで,切り立った海岸が続いている.落石がはげしく,道路も大きく海へ避けて敷設されている.東海道本線の旧石部トンネルの崩れおちたレンガの固まり象徴的.潮が引けば歩いて来られる. "ナニ大崩れ、大変な所だのう、どう云う訳なんだエ。岩がズッと出ていて今にも落ちそうになっているので"(阿部川原風仇浪) |
大崩海岸 | 2017 | |
焼津 | やいづ | 南極探検(三一談志3:06) 1件1題 (東京1件) | 焼津市 | 遠洋漁業基地.別項の御前崎とともに港町ブルースの歌詞で登場する. "三崎、焼津に御前崎……"(南極探検) |
焼津港 | 2020 | |
浄の越 | じょうのこし | 阿部川原風仇浪(三友舎 (1892))など | 焼津市城之腰 | 上の越(阿部川原風仇浪)や浄の越(七変化白波小三)とあるが,城之腰(じょうのこし)が正しい.海岸と黒石川に挟まれた細長い土地で,北から北浜通り,城之腰,鰯ヶ島の3地区からなる.「阿部河原風仇波」に出てくるように,カツオが揚がる焼津港に隣接しており,水産加工場が多かった.江川橋北詰に,城之腰の名主を勤めたエンカ屋敷跡を示す碑と,写真の地名碑がある.城之腰には小泉八雲も滞在しており,跡地には碑があり,旧家は明治村に移設されている. "左の方へ行くと上の越と云うところで、鰹のよいのが獲れます"(阿部川原風仇浪) |
城之腰地名碑 | 2020 | |
相良 | さがら | 七変化白波小三(諸芸新聞 (1882)) | 牧之原市 | 旧榛原郡相良町.旧相良町役場は,相良藩の城跡になる.初代相良藩主の本多忠晴は,「家康に過ぎたるものが二つあり唐の頭に本多平八」と讃えたれた本多忠勝のひ孫にあたる.墓は,相良市街を見下ろす小堤山公園にある.写真の右手前の墓石がそれ. "城の越より七里の海路(うなじ)を遠州相良へ渡らんと"(七変化白波小三) |
相良藩主本多忠晴墓 | 2020 | |
地方 | じかた | 七変化白波小三(諸芸新聞 (1882)) | 牧之原市地頭方 | 地頭方(じとうがた)のことだろう.御前崎の北の農漁村.今では想像もつかないが,かつては,地頭方を主要駅とする軽便鉄道が藤枝から走っていた.現在は,相良乗り換え,御前崎行きのバスが通っている. "ようやく遁れて相良下の地方へ近よりしが"(七変化白波小三) |
地頭方海岸 | 2020 | |
御前崎 | おまえざき | 南極探検(三一談志3:06) 1件1題 (東京1件) | 御前崎市御前崎 | 高台に白亜の御前崎燈台が立っている.初期の御前崎燈台はレンガ造りで,重錘で照明を回転させていた.見学有料. "三崎、焼津に御前崎……"(南極探検) |
御前崎燈台 | 2017 | |
駿河湾 | するがわん | 雪てん(青金馬:16) 1件1題 (東京1件) | 静岡県 | 「雪てん」の狂歌,ガリガリ囓る春の鮫に加え,ゴンドウクジラが獲れた,とは驚き.駿河湾は最大2500mもの深さがある.駿河湾深海生物館には,生きた化石と呼ばれる深海ザメのラブカやサケガシラなどグロテスクな標本が展示されている.これを見たあと,タカアシガニ料理はともかく,深海魚料理を出すという食堂にはちょっと入れなかった. "駿河湾でゴンドウ鯨が獲れたんだッてね"(雪てん) |
駿河湾海底模型(駿河湾深海生物館) | 2021 | |
遠州灘 | えんしゅうなだ | 三保の松原(講明治大正3:11) など 3件3題 (東京2件, 上方1件) | 静岡県 | "昔はご承知の通り大阪から船で積み出して、遠州灘を揺られ揺られて江戸へ入ってきました"(ちりとてちん) | |||
島田 | しまだ | 梅の春(講明治大正6:54) など 6件5題 (東京5件, 上方1件) | 島田市 | 大井川越えを控えた東海道の宿場.『朝顔日記』の朝顔松は大井川そば.鵜田寺前には大磯の虎の墓と,それにちなむ島田髷の塚がある.島田は帯祭りでも有名,日本三大奇祭の一に数えられる. "それから先生島田の宿に着くと、座敷に、立派な衝立がございます(中略)雀どの御宿は何処か知らねどもチョッチョとござれさゝの対手に"(梅の春) |
朝顔の松 | 2008 | |
川会所 | かわかいしょ | 蓮台奇縁(続本草堂江戸噺, 相模書房 (2007)) | 島田市河原 | 「蓮台奇縁」は,大井川の川留めを題材にした新作.大井川の渡しの川会所が再建され,川越の様子が展示されている. "川会所がひどく混雑していました"(蓮台奇縁) |
川会所 | 2008 | |
大井川 | おおいがわ | 七度狐(講古典上方2:10) など 34件20題 (東京21件, 上方13件) | 島田市〜金谷町 | 大井川は人足による川越し.河原に蓮台がディスプレイされていた.水かさによって渡し賃が変わった.深ぁいか浅ぁいか. "ヤー、大井川……深いーか、浅いか"(七度狐) |
川越し付近 | 2008 | |
金谷 | かなや | 御神酒徳利(旺文鑑賞2:05) 1件1題 (東京1件) | 榛原郡金谷町 | 東海道の宿場.地元の人の努力で石畳を再建した.「江戸の夢」に出てくる"馬に寝て残夢茶の香り"の芭蕉句碑は,石畳を昇って左にある.牧ノ原台地には茶を広めた栄西像. "願いも掛川、金谷の宿"(御神酒徳利) |
芭蕉句碑 | 1996 | |
夜泣石 | よなきいし | 下女の目見得(大空SP04:35) 1件1題 (東京1件) | 掛川市 | 東海道名物の小夜の中山夜泣石は国道1号沿いに移されている.博覧会に展示された夜泣石が,戻ってきたときにはなぜか2つに増えてしまったという怪談奇談は有名. "軽業の口上、小夜の中山夜鳴石、河童の化物、ろくろく首の口上"(下女の目見得) |
夜泣石 | 2001 | |
小夜の中山 | さよのなかやま | 江戸の夢(青圓生13:19) など 4件3題 (東京4件) | 掛川市佐夜鹿 | 年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山(西行).自分としては"さや"より"さよのなかやま"の読みに馴染みあり.亡き母の乳の代わりに買われた子育飴.飴屋の隣の久延寺にも夜泣石がある. "『馬に寝て、残夢月遠し、茶のけむり……』、小夜の中山で、芭蕉の詠んだ句だが"(江戸の夢) |
子育飴の扇屋 | 2001 | |
無間の鐘 | むげんのかね | 搗屋無間(弘文柳枝:26) など 3件1題 (東京3件) | 掛川市初馬 | "梅が枝の手水鉢叩いてお金が出るならば♪"の元が無間の鐘.これを撞いて祈願すると,現世の富裕が得られるのと引き替えに,死後は無間地獄へ堕ちる.粟ヶ岳山頂近くの無間山観音寺を阿波々神社へ向かうと,無間の鐘を埋めたという井戸がある.かなり不便な所なので訪問には気合いが必要.粟ヶ岳山腹には巨大な茶の一字が遠くからでも目立つ. "昔、梅ヶ枝という傾城は、無間の鐘を撞いて三百両得た"(搗屋無間) |
無間の井戸 | 2001 | |
観音寺 | かんのんじ | 搗屋無間(柳家小満ん口演用てきすと その二,てきすとの会 (2015)) | 掛川市初馬 | 無間の鐘の説明に,観音寺が登場した.小夜の中山ではなく粟ヶ岳にある.鐘が井戸に埋められた今となっては,寺の存在意義がなくなったのか廃寺.今にも崩れ落ちそうな本堂周辺は立入厳禁と,日坂の常現寺が掲示している. "小夜の中山に厶います、無間山観音寺というお寺さんへ、大勢人が訪ねて来て"(搗屋無間) |
無間山観音寺 | 2015 | |
観泉寺 | かんせんじ | 一心不乱(続本草堂江戸噺, 相模書房 (2007)) | 掛川市東山 | 遠江観音二十二番札所.前項の無間山観音寺(二十三番札所)から山を下ったところ.観泉寺のそばまではバスが通じている.原作には観泉寺に無間の鐘があったと記述されているが,不詳.観音寺の誤記ではないか. "廓の中にある手水鉢を観泉寺の無間の鐘に見立て、柄杓で叩いたら頭の上から小判が三百両降ってきた"(一心不乱) |
天王山観泉寺 | 2008 | |
日坂 | にっさか | 蓮台奇縁(続本草堂江戸噺, 相模書房 (2007)) | 掛川市日坂 | 東海道の日坂宿.掛川駅からコミュニティバス利用.石坂屋や萬屋といった宿屋建物が残る.葛餅が名物だった.夜泣石跡まで急坂を登って約1km. "しかし日坂までくると、雨はどしゃぶりになり"(蓮台奇縁) |
東海道夜泣石跡 | 2008 | |
掛川 | かけがわ | 雁風呂(講明治大正2:22) など 8件5題 (東京8件) | 掛川市 | 水戸黄門が土佐光信の屏風絵の由来を尋ねる「雁風呂」の舞台は掛川宿.掛川城の天守閣は木造で再建された.その東には御殿が残っている. "東海道を行きまして遠州掛川の駅で御中食でございました"(雁風呂) |
掛川城 | 2010 | |
袋井 | ふくろい | ゆめ(講明治大正6:10) など 2件2題 (東京2件) | 袋井市 | 以下,講釈「味方ヶ原合戦」の一節から.「貸本屋の夢」と「くしゃみ講釈」.元亀3(1572)年,久野城を包囲する信玄軍と背後の家康との争い. "砂烟を上げて駈け来たるは、内藤新左衛門、今袋井畷の偵察"(ゆめ) |
袋井畷松並木 | 2003 | |
久野城 | くのじょう | 嚔講釈(講明治大正5:45) 1件1題 (東京1件) | 袋井市鷲巣 | 夏草茂る道を久野城の土塁,井戸跡などを通ってやっと登り詰めると,最後にこの看板に至る.実は遠くからが城跡が一番よく見えるというオチ. "久野三左衛門家能が籠もりたる久野の城を責め落とさんと、十重二十重におッ取り囲み"(嚔講釈) |
久野城址 | 2003 | |
姫子山 | ひめこやま | 嚔講釈(講明治大正5:45) 1件1題 (東京1件) | 袋井市か | 未詳.久野城近くの小丘だと思う. "遥かに姫子山の麓に備えたる武田の陣頭眺むれば"(嚔講釈) |
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木原 | きはら | 嚔講釈(講明治大正5:45) 1件1題 (東京1件) | 袋井市木原 | 古戦場碑は許弥神社内.碑の隣には徳川家康公腰掛石なるものがある. "山名郡木原、西島、袋井駅より姫子山の麓へ連綿として屯を張る"(嚔講釈) |
古戰塲木原畷碑 | 2003 | |
西島 | にしじま | 嚔講釈(講明治大正5:45) 1件1題 (東京1件) | 磐田市西島 | 木原西島の戦というが,西島には何も見るものが見つからなかった. "山名郡木原、西島、袋井駅より姫子山の麓へ連綿として屯を張る"(嚔講釈) |
西島あたり | 2003 | |
見付 | みつけ | 御神酒徳利(七代目 春風亭柳橋, 青蛙房(2006)) | 磐田市 | 東海道見付宿.「御神酒徳利」の道中付け.人身御供に苦しむ見付宿.しっぺいたろうには知らすなという物の怪の言葉を聞く.はるか離れた信州で霊犬悉平太郎を見つけ,ついに妖怪退治を果たす.見付天神に像が立つ.見付宿には最古の木造小学校舎がある. "新居・見付、願いも掛川・金谷の宿"(御神酒徳利) |
悉平太郎像 | 2008 | |
磐田 | いわた | 絵手紙(偕成少年11:12) 1件1題 (東京1件) | 磐田市 | 磐田駅を指す.子供向け作品に登場するので,この落語が演じられた当時の中泉駅とはしていない.1942年に中泉駅から磐田駅と改称した.明治四十四年鉄道院銘の橋脚は,訪問当時は,写真のもののほか,駅構外にももう1本あった. "人力車がまっていますから、磐田まで走って、そこで三日目の夜を泊まります"(絵手紙) |
中泉駅跨線橋脚 | 2003 | |
一言坂 | ひとことざか | 嚔講釈(講明治大正5:45) など 2件2題 (東京2件) | 磐田市一言 | 一言坂の戦い.本多平八郎忠勝が,蜻蛉切という槍をかざして奮迅する.一言坂戦碑は国道1号沿いだが,坂自体は写真の地点沿いの旧道にあたる. "三左衛門信成は一言坂の絶頂にトウトウと乗り上げ、馬の四足を踏み留め"(嚔講釈) |
一言坂戦跡 | 2003 | |
一言坂の観音堂 | ひとことざかのかんのんどう | ゆめ(講明治大正6:10) 1件1題 (東京1件) | 磐田市一言797 | 曹洞宗智恩斎.敗走する家康が一言戦勝の願を掛けた観音堂.本多平八郎のおかげで浜松城へ戻れた.家康に過ぎたるものが二つあり唐の頭に本多平八. "折しも吹来る向かい風、唐頭サッと吹乱し、一言坂の観音堂"(ゆめ) |
一言観音 | 2003 | |
飯田 | いいだ | 嚔講釈(講明治大正5:45) 1件1題 (東京1件) | 周智郡森町飯田 | 信州の飯田ではなく,周智郡の飯田城.武田信玄により落城.崇信寺向かいの茶畑を入っていく.草深いので冬場に行くとよいとのこと. "同国飯田、多々羅の両城へ責めかかる"(嚔講釈) |
飯田城址を望む | 2003 | |
森 | もり | 地獄八景亡者戯(創元米朝4:03) など 5件2題 (東京1件, 上方4件) | 周智郡森町 | 遠州森町よい茶の出どこ.森の石松墓は欠かれ続け,現在3代目の黒御影. "えん州森町よい茶のでどこ、娘やりたやお茶摘みにィ"(地獄八景亡者戯) |
森の石松墓 | 2003 | |
一の宮 | いちのみや | 正直清兵衛(講明治大正6:34) 1件1題 (東京1件) | 浜松市か | 「正直清兵衛」は林家正蔵(5)が演じる怪談噺.正直清兵衛がなくした金をめぐる殺人事件.その登場人物の忠兵衛の出身地.本文では神社そのものを指してはおらず,浜松の一の宮とだけある.写真は,遠州一宮の小國神社(森町一宮3956). "遠州浜松在の一の宮というところから六蔵という野郎が来て"(正直清兵衛) |
小國神社参道 | 2003 | |
多々羅 | たたら | 嚔講釈(講明治大正5:45) 1件1題 (東京1件) | 天竜市只来 | 只来(ただらい)城のことだろう.道は整備されていない.山頂には巨石が残っているという. "同国飯田、多々羅の両城へ責めかかる"(嚔講釈) |
只来城址登り口 | 2003 | |
乾城 | いぬいじょう | 嚔講釈(講明治大正5:45) 1件1題 (東京1件) | 浜松市天竜区春野町堀之内字犬居 | 周智郡の犬居城.天野氏の居城で武田側の拠点.のち,徳川軍を追い払ったこともある.ここまでずっと噺の中の講釈の文句.講談地名探訪はキツイ. "遠州周智郡乾の城主天野宮内左衛門景連"(嚔講釈) |
犬居城望楼より | 2003 | |
秋葉神社 | あきばじんじゃ | 牛褒め(講明治大正3:45) など 16件3題 (東京12件, 上方4件) | 浜松市天竜区春野町領家 | 秋葉権現三尺坊は,神仏分離で可睡斎に移された.秋葉山の山頂には秋葉神社,その下には秋葉寺三尺坊があり,三者それぞれ火防のお札を授与する. "秋葉様のお札をお張んなさい、節穴が隠れて第一火の用心がよろしゅうございます"(牛褒め) |
秋葉山三尺坊山門 | 2017 | |
寸又峡温泉 | すまたきょうおんせん | 朝鮮人の恩返し(快楽亭ブラックの放送禁止落語大全, 洋泉社 (2006)) | 榛原郡川根本町千頭 | 1968年に寸又峡温泉で金喜老事件が起きたことによる.犯人の金喜老は,殺人後,客を人質に旅館ふじみやに立て籠もり.差別問題に加え,招き入れた報道陣に会見するなどしたため,大きな話題になった.劇場型犯罪のはしりとして知られる.金嬉老は2010年に強制送還先の韓国で死亡,ふじみやも2012年に廃業し,事件の記憶は風化している.寸又峡温泉は千頭駅からバスで45分の山の中.無色のすべすべのお湯は美女づくりの湯と言われている. "在日の金嬉老さんという方がたいへんに差別され(中略)寸又峡温泉というところに人質をとって立て籠もる"(朝鮮人の恩返し) |
寸又峡温泉ふじみや旅館 | 2013 | |
天龍川 | てんりゅうがわ | 時そば(青三木助:01) など 7件6題 (東京7件) | 磐田市〜浜松市 | 中洲を挟み大天龍小天龍と称する.姫街道池田の渡そばの行興寺には,謡曲「熊野」の墓があり,長藤が見事. "天竜くだりをするんじゃァねえから、しぶきのはねないようにしゃべれないかい(中略)あたしの好きなのはてんふら"(時そば) |
池田の渡あたり | 2003 | |
三日日 | みっかび | 阿倍川原風仇浪(三友舎(1892)) | 浜松市北区三ヶ日町三ヶ日 | 秋葉山の脇とは言いにくいが,三ヶ日(みっかび)のことだろう.猪鼻湖の北に位置するミカンで有名な土地.古くは教科書に三ヶ日原人の記述があった.洪積世の人骨が出土し,日本史を書き換えたものだが,年代測定で縄文人と判明し,原人ではないことが明らかになった.洪積世三ヶ日人出土地の碑と石灰岩の露頭が残っている.只木の民家脇を入るわかりにくい場所なのに,なんの案内もない.忘れたい記憶なのだろう. "秋葉山のすぐ山の脇の三日日からわずか三里か四里まいると東海道見付だから"(阿部川原風仇浪) |
三ヶ日人骨出土地 | 2018 | |
三方ヶ原 | みかたがはら | 道灌(講文庫2:18) など 4件2題 (東京4件) | 浜松市 | 三方ヶ原の戦いというと,白布をかけて武田軍を欺いた犀ヶ崖がよく取り上げられるので,三方原霊園駐車場にある古戦場碑を載せた. "三方ヶ原の戦いだ(中略)武田信玄と徳川家康とがいくさをした"(道灌) |
三方原古戦塲碑 | 2003 | |
浜松 | はままつ | 崇徳院(創元米朝3:01) など 25件21題 (圓朝1件, 東京15件, 上方9件) | 浜松市 | 浜松と言えば,楽器にウナギに餃子.出世大名家康君は,浜松市のキャラクター.マゲがウナギで,袴がピアノの鍵盤.駅前に据えられたトピアリーは,目鼻立ちがわからなくなってしまっている. "大津から名古屋、浜松、静岡、横浜、東京、今は日本中縦横十文字に道がついたあるねん"(崇徳院) |
出世大名家康君 | 2013 | |
浜松城 | はままつじょう | 不精床(柳家小満ん口演用「てきすと」 2, てきすとの会 (2015)) | 浜松市中区元城町 | 浜松城天守は昭和期に再建された.野面積み天守台の石垣は現存する.20年にわたる家康の居城.出世城と呼ばれる. "三方が原の戦いで大敗を致しまして、遠州浜松城へ命からがら逃げ帰った事があります"(不精床) |
浜松城 | 2024 | |
浜松:ざざんざの松 | ざざんざのまつ | 道具の意地(柳家小満ん口演用「てきすと」 30, てきすとの会 (2018)) | 浜松市中央区野口町 | 浜松にあった老松.今はない.浜の松が,浜松の地名の由来だという.また,将軍足利義教が愛で,「浜松の音はざざんざ」と謡ったことから,颯颯の松と呼ばれるようになったと伝える.松があったという場所に近い浜松八幡に,5代目のざざんざ松が植えられ,地名の由来碑が移設されている.用例の「道具の意地」は,小満ん師の新作落語. "裏の箱書きが<遠州浜松ざざんざの松>として厶いまして"(道具の意地) |
M松名称起源颯々之松碑 | 2024 | |
鴨居 | かもい | 沢火革(講談倶楽部, 12(11) (1922)) | 浜松市中区鴨江 | 用例の「沢火革」は易の卦の一つで,易者が手紙を判断する「近江八景」が本題.その枕で,占い者が田舎者のかぶった笠のうちを盗み見して,出身地をずばり言いあてる.鴨居とあるのは,浜松の鴨江(かもえ)のことだろう.鴨江観音こと高野山真言宗鴨江寺の門前町.隣のビルは,浜松の裏名所,妖しいコレクションを展示している怪奇骨董秘宝館,鴨江ヴンダーカンマ−. "お前は遠州浜松在鴨居村高山佐兵衛と云ひなさるだらう"(沢火革) |
鴨江通り | 2024 | |
篠原 | しのはら | 宿屋の幽霊(講談雑誌, 20(5) (1934)) | 浜松市西区篠原町 | 「宿屋の幽霊」は,『東海道中膝栗毛』を題材にした連作落語.『講談雑誌』に掲載された.浜松西部の地名が列記されるだけで,落語のストーリーは浜松での宿屋の幽霊と今切の渡しの蛇騒動が描かれる.膝栗毛では,篠原の茶屋で北八が木でこしらえた牡丹餅をかじったうえ,本物の牡丹餅はトンビにさらわれる.諸大名や明治天皇が休息したという篠原の立場本陣あとには,標札が建てられている.その筋向かいには,茶屋浅田屋があった. "その翌日は、若林、篠原、蓮沼、坪井を通って、舞坂から荒井"(宿屋の幽霊) |
篠原立場跡 | 2024 | |
浜名湖 | はまなこ | バスガール(普通名作5:27) など 3件2題 (東京3件) | 浜松市など | 養鰻場,競艇場,舘山寺温泉,夜のお菓子に真夜中のお菓子.浜名湖北岸を巡る東海道姫街道随一の景色が楽しめる小引佐へは,西気賀駅より徒歩. "弁天島の浜名湖や、三保の松原みぎにみて"(バスガール) |
姫街道小引佐より | 2007 | |
弁天島 | べんてんじま | 転宅(騒人名作03:12) など 3件2題 (東京3件) | 浜松市西区舞阪町舞阪 | 地震により砂州が島となった.ここに舞い降りた天女が,村人の願いもかなわず三保の松原に飛び去ったという.宝永6(1709)年に弁天が勧請され,砂地に社殿がある.狭い境内に句碑も多い.天の川濱名の橋の十文字(正岡子規).海水浴客を迎えるためか,だだっ広いホームの弁天島駅から徒歩圏. "弁天島へ寄ろう。よかろう"(転宅) |
弁天島辨天神社 | 2024 | |
今切 | いまぎれ | 長崎の赤飯(青圓生04:07) など 2件1題 (東京2件) | 浜松市西区舞阪町舞阪〜湖西市新居町新居 | 15世紀末の地震で浜名湖の今切口が開き,湖内に海水が入るようになった.東海道は,その開いた海路をショートカットして行く.今切の関所(長崎の赤飯)は次項の新居の関所のこと. "上方から江戸へはいるには箱根に・今切の関所がある"(長崎の赤飯) |
浜名湖今切口 | 2024 | |
新居 | あらい | 御神酒徳利(旺文鑑賞2:05) 1件1題 (東京1件) | 湖西市新居町 | 新居の関所.幕末時の関所建物が残っているのはここだけ.特別史跡,有料施設.七代目 春風亭柳橋,青蛙房(2006)に従い,新井を新居に統一した.当時の関所は浜名湖に面しており,東側の護岸の南半分が船着き場になっていた.木杭が打たれた渡船場が再現されている. "仲も吉田や白須賀、新井"(御神酒徳利) |
新居関所跡 | 2024 | |
浜名 | はまな | 人形買(三一上方1:02) など 4件1題 (東京2件, 上方2件) | 湖西市新居町浜名 | 浜名郡か.今の浜名(橋本)と特定する意味はないが,浜名には風炉の井や浜名の橋碑の見どころがある. "成長の後、遠州浜名の城主、松下嘉平次の家へ仕え"(人形買) |
風炉の井 | 1999 | |
白須賀 | しらすか | 御神酒徳利(旺文鑑賞2:05) 1件1題 (東京1件) | 湖西市白須賀 | 東海道の宿.バスは朝方しかない.今はバイパスがあって海を望む潮見坂の眺望が台無し. "仲も吉田や白須賀"(御神酒徳利) |
潮見坂 | 1999 | |
三橋城 | みはしじょう | 嚔講釈(講明治大正5:45) 1件1題 (東京1件) | 不明 | 不明.味方ヶ原合戦の講釈の一節,赤備え山県昌景の居城という. "遠江国三橋の城主六万石、山県三郎兵衛昌景なり"(嚔講釈) |
掲載 060210/最終更新 240901