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愛媛県   
はなしの名どころ
文化より天保の始まで文晁先生は隆盛(さかん)でござりました、が、文晁の師匠は文麗と申しまして是は御案内の通り伊豫の大洲で六萬石を領されましたる従五位加藤遠江守殿と申された御方……  (「谷文晁の傳」)
  『中外商業新報』(1898.1.3)
 
地点名 出典と登場回数 位 置 備 考 写真と撮影年
馬立 まだち 話之種 四国中央市新宮町馬立 「話之種」は圓朝の残した雑多なメモ.多度津から金比羅への道中.実際にはルートが錯綜しており詳細がわからない.多度津から汽船で到着する馬立(まだち),立川(たちかは)とは,馬立(うまたて)と高知県の立川(たじかわ)のことだろう.馬立は,多度津から約40キロ離れた山中にあたり,とても汽船で行ける場所ではないが,土佐北街道に沿って馬立,立川が隣接しているので,ここと推定した.街道には馬立本陣跡,高知道上り線には馬立パーキングエリアがある.水琴窟,大名行列や新宮茶の茶摘風景をタイルで描いたトイレ,味付け薄切り肉の乗ったいのししラーメンなどを扱う食堂を備えている.
"田戸津より汽船にて馬立ヨリ立川"(話之種)
馬立パーキングエリアスタンプ 2020
別根 べっこん 話之種 新居浜市 これも,馬立に続いて「話之種」に出てくる四国の地名.前項の馬立とは文章がつながっておらず,両地点に関係性はない.徳島から川沿いに人力車で3日かかる土地にある別根(べっこん)で,住友家が開発した銅山を見物するとあるので,別子(べっし)銅山のことだろう.別子の文字を,"べつね"と読み,どこかで別根に転じたのではないか.銅山川をさかのぼった別子山村(現新居浜市)の露頭から掘り進め,明治35年に第三通洞が開通した結果,東平(とうなる)が銅鉱石の集積輸送の拠点になり,新居浜から精錬された銅が積み出された.廃鉱後,山中に残された遺跡は,東洋のマチュピチュと呼ばれている.
"川の上から別根といふ所にて住友氏の銅山を見物して"(話之種)
別子銅山東平貯鉱庫 2020
銅山 どうざん 話之種 新居浜市 元禄4年(1691)に開坑し,高品位の銅鉱石を産出していた別子銅山だが,1973年に閉山した.一貫して住友家によって採掘されてきた.銅吹所であった大坂住友の浜は,「次の御用日」に出てくる落語地名.その坑道は鉱脈に沿って深く掘られ,地下1000mにも及んだ.別子銅山記念館で,菱井桁のマークがついた鉱石積み出し機関車や,毛細血管のように地下に張りめぐらせられた坑道模型などを見学できる.
"川の上から別根といふ所にて住友氏の銅山を見物して"(話之種)
別子銅山記念館別子一号機関車 2020
大洲 おおず 文晁 (他 東京1件) 全2件2題 大洲市 大洲藩6万石,加藤家の支配.臥龍山荘は藩主の庭園.懸崖造りの不老庵が肱川を見下ろす位置に建っており,天井には月光が反映するという.
"文晁の師匠は文麗と申しましてこれは御案内の通り伊予の大洲で六万石を領されましたる従五位加藤遠江守殿と申された御方"(谷文晁の伝)
臥龍淵と臥龍山荘 1999

掲載 040611/最終更新 240201

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