地点名 |
この1題・登場回数 |
位 置 |
備 考 |
写真と撮影年 |
岩手県 |
いわてけん |
夢花火(ワニ文庫:13) など 2件2題 (東京2件) |
岩手県 |
岩手県は,北海道に次いで,日本で2番目に大きい県.県都盛岡のある内陸部と,陸中海岸の沿岸部との間に北上山地が伸びている.東西交通の妨げになるだけでなく,経済格差を生んでいる.落語地名の分布も内陸部に片寄っている.実舞台となる噺は少なく,人情噺の「骸骨於松」で,岩手県が舞台となる.落語では,「藪入り」などで出てくる地名を北から紹介する.
岩手山は,岩手県の最高峰(標高2038m)で,県のシンボル.ゆるやかにすそをひく姿は,岩手富士,南部片富士とも呼ばれる.石川啄木は,"ふるさとの山に向ひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな"とうたっている.
"岩手のおじさんが死んで、俺が相続した山から温泉が吹き出して"(夢花火)
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岩手山 |
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1998 |
一戸 |
いちのへ |
渋酒(騒人名作11:24) 1件1題 (東京1件) |
二戸郡一戸町 |
「渋酒」では,田舎に泊まり合わせた客人が,振る舞われた酒が渋いと訴えたため,縛り上げられてしまう.そのマクラで,辺鄙な土地を示す用例として一戸が出てきた.確かに駅を出ても,すぐには何も見つからなかった.東北本線盛岡-八戸間は,2002年に三セク化された.
"奥州の八の戸の菓子だとか一の戸の何だとか云って、時々我々なども、変な物を食わされます"(渋酒)
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JR 一戸駅 |
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1998 |
虎渡 |
とらわたし |
骸骨於松(毎日新聞 (1897)) |
岩手県か |
三戸(盛岡市)の次に出てくる地名.越地川とともに不明.三戸町に近い青森県の南部町には,馬淵川(まべちがわ)に沿って虎渡(とらと)という場所がある.川の両岸は,上河原,向河原など○○河原という地名がならんでいる.
"更渡りたる越地川、其の横流れの下手なる、虎渡しの北河原"(骸骨於松)
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虎渡 |
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2021 |
渋民 |
しぶたみ |
有馬の秀吉(大日本図書館05:08) 1件1題 (東京1件) |
盛岡市渋民 |
"渋民村へ帰る"喩え.石川啄木が故郷の地で代用教員として勤めた学校が保存される.鉄道よりは盛岡からのバスが便利.
"といって、あたしは、渋民村に帰ったわけじゃない"(有馬の秀吉)
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渋民尋常高等小 |
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2000 |
盛岡 |
もりおか |
弥次郎(三一談志3:05) など 7件6題 (圓朝4件, 東京3件) |
盛岡市 |
南部盛岡藩城下.岩手県県庁所在地.冷麺,じゃじゃ麺,わんこそばと有名な麺類が多い.あ どんどん,はい じゃんじゃんのかけ声とともに,温かいそばが少しずつ盛られるわんこそば.一杯あたりの量がすくないので,お椀が積み重なって,そば清気分.
"南部かい。秋田、盛岡"(弥次郎) |
盛岡名物わんこそば |
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2009 |
盛岡:上田堤 |
うえだつつみ |
骸骨於松(毎日新聞 (1897)) |
盛岡市 |
談洲楼燕枝が新聞連載した「骸骨於松」は,女怪盗の骸骨お松が主人公の人情噺.不明のものも含め,盛岡の地名がたくさん出てくる.八日町から北に2キロほど離れているが,高松ノ池のところにあった上田堤のことだろう.盛岡城築城の際,治水のため,上堤,中堤,下堤の3段の堤が作られた.中堤が今の高松ノ池だという.高松ノ池は,桜の名所でバスの便もよい.
"話しながら八日町を出離れまして、上田堤の中程まで参りますと"(骸骨於松) |
高松ノ池 |
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2019 |
盛岡:三戸 |
さんのへ |
骸骨於松(毎日新聞 (1897)) |
盛岡市本町通あたり |
松前のとあるが,盛岡の三戸町のことだろう.「骸骨於松」では,南部津軽の境にある笠松峠にアジトがある.そこから盛岡までは距離がありすぎるが,八戸も舞台となる.三戸町は,三戸から移住して盛岡城を築いた人が住んだことに由来する.盛岡市内には,旧町名を示す説明板があちこちに立っている.三戸町旧町名板は,本町通3-15にある.外堀にあった時の鐘は,盛岡城内丸4に移されている.
"心細くも只一人、松前の三戸と云ふ所迄参りまする"(骸骨於松) |
盛岡城洪鐘 |
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2019 |
盛岡:石割桜 |
いしわりざくら |
薮入り(講落語全集2:21) など 2件1題 (東京2件) |
盛岡市中央通1 |
「藪入り」で里帰りする子供を案内する夢想シーン.盛岡地裁内.花崗岩の割れ目に生えたヒガンザクラ.樹齢350年という.花は4月中旬.
"南部の石割桜を見せて"(薮入り)
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石割桜 |
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2009 |
盛岡:馬町 |
うままち |
骸骨於松(毎日新聞 (1897)) |
盛岡市 |
旧町名.肴町付近.馬の売買が行われたことに由来.清水町1-9の馬町会館のところに旧町名板.松尾町にあった木造の旧馬検場も解体されてしまった.畜産会館前に親子馬像が残っている.
"南部の馬町の棟梁富五郎の所に厄介になつて居りました"(骸骨於松) |
親子馬像「春風」 |
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2019 |
盛岡:餌差小路 |
えさしこうじ |
骸骨於松(毎日新聞 (1897)) |
盛岡市南大通あたり |
旧町名.怪我を負った骸骨お松の兄の大九郎を治療させるため,餌差小路に住む医者を笠松峠の山塞に誘拐する.餌差小路は,鷹に餌を与える鳥刺しがいたことに由来する.肴町11-38に旧町名板.近くの駐車場には奇怪な姿をしたシダレカツラの巨木がある.これらの地名のほかに,帷子町,小人町,呉服町,生姜町,八幡町,八日町が登場する.
"南部の町なる、餌差小路の槇野薫庵が家の前へ参りました"(骸骨於松) |
帷子小路旧町名板 |
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2019 |
境沢 |
さかいざわ |
夫婦幽霊(辻原登,円朝芝居噺 夫婦幽霊, 講談社(2007))
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下閉伊郡岩泉町下有芸か |
小説中の人情噺「夫婦幽霊」に,南部領の鉄山とある.南部藩は南部鉄器で知られるように,多くの鉄鉱山を抱えていた.その内の一つが境沢鉄山らしい.「一揆の奔涛」(佐々木京一,宇霊羅山房 (2000))には岩泉有芸の境沢鉄山に関する記述がある.確かに,岩泉町には猿沢川に沿って境沢の地名がある.ところが,「岩泉地方史」(岩泉町 (1980))の鉄山の項には境沢の名はない.岩泉では,いずれも鉄鉱石ではなく砂鉄を原料にした製鉄が行われ,精錬用燃料の薪がなくなると数年で閉山したという.
"北は南部領境沢で製鉄業をおこすなど抜群の事業の才をみせておりました"(夫婦幽霊)
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境沢バス停 |
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2009 |
釜石 |
かまいし |
寒村のど自慢(新風金語楼3:36) 1件1題 (東京1件) |
釜石市 |
新作1件のみ.製鉄の町も様変わりしつつある.ベッキオ橋になぞらえられた橋上市場も取り壊され,駅前橋上市場サン・フィッシュ釜石として展開している.おなじく駅前のロータリーには,鉄と共に!碑やものづくりの灯を永遠にモニュメントなど,小さな見どころが並んでいる.
"舟底いっぱい荷を積んで、釜石ゆきだよ、追い手だよ"(寒村のど自慢)
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鉄と魚とラグビーの釜石 |
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2019 |
石取谷 |
せきとりや |
骸骨於松(毎日新聞 (1897)) |
花巻市石鳥谷町 |
ルビには"せきとりや"とあるが,石鳥谷(いしどりや)のこと.南部杜氏発祥の地.この土地で醸造するだけでなく,杜氏は各地の蔵元に出かけては酒造りに従事した.南部杜氏伝承館で,酒造方法や酒にまつわる文化を見ることができる.
"石取谷の酒を自慢に馳走しまして"(骸骨於松) |
南部杜氏の里 |
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2019 |
花巻 |
はなまき |
官員小僧(駸々堂 (1891)) |
花巻市 |
「官員小僧」の悪漢たちの逃走経路.花巻は宮沢賢治の生誕地.生家や記念館などがある.マルカンデパート本体は閉店したが,大食堂だけは残って,今も地元の人で大盛況.山盛りのソフトクリームが名物.
"勘蔵に栄吉は花巻へ出ろ 松五郎に三太は今市へ行け"(官員小僧)
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マルカン大食堂ド定番 |
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2019 |
衣川 |
ころもがわ |
瘤弁慶(三一上方2:28) など 11件7題 (東京5件, 上方6件) |
奥州市 |
旧胆沢郡衣川村.以下の各項は弁慶に関連する例が多い.弁慶,奮戦の末衣川で立往生の故事.立往生の地は衣川橋あたりと言う.河川改修で衣川橋は橋柱だけが残される.5kmほど北西にある一首坂は,"年を経し糸の乱れの苦しさに""衣の館はほころびにけり"の安倍貞任・源義家歌問答で知られる前九年の役の故地.
"吾は奥州衣川にて立往生"(瘤弁慶)
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衣川 |
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2009 |
平泉 |
ひらいずみ |
源義経(新風新作:28) など 3件2題 (東京3件) |
西磐井郡平泉町 |
鎌倉を追われた源義経一行は,大物浦やら高野山を経て,平泉に至り藤原秀衡を頼るが,結局ここで最期を迎える.駅構内に弁慶力餅の飾りつけが見える.この巨大三宝を抱えて歩き,力自慢を競い合う.中尊寺・毛越寺など平泉の寺院・浄土庭園は2011年に世界遺産に登録された.
"早くも鎌倉へ、義経一行、平泉に潜入のニュース"(源義経)
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JR 平泉駅 |
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1998 |
中尊寺 |
ちゅうそんじ |
平家物語(三一談志4:08) など 2件1題 (東京2件) |
西磐井郡平泉町平泉 |
12世紀奥州の覇者,藤原清衡の建.中尊寺門前には小ぶりの弁慶墓がある.中尊寺弁慶堂内には七つ道具を背負った弁慶の木像.
"中尊寺。以前に今東光が威張っていた寺だ"(平家物語)
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中尊寺弁慶堂 |
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1989 |
中尊寺:金色堂 |
こんじきどう |
薮入り(講落語全集2:21) など 2件1題 (東京2件) |
西磐井郡平泉町平泉 |
金色堂の名前に統一したが,2件の用例とも光堂とある.奥州藤原氏三代のミイラを収めている.現在は覆堂内ガラス張りの空間に安置してあり,美術品のよう.拝観有料.旧覆堂(重文)も保存されている.五月雨の降り残してや光堂(芭蕉).
"ついでに平泉へも行って光堂を見せて"(薮入り)
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金色堂鞘堂 |
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2009 |
秀衡館 |
ひでひらのたち |
源平盛衰記(講昭和戦前1:13) など 7件2題 (東京7件) |
西磐井郡平泉町平泉字花立 |
藤原秀衡の居館であった伽羅御所を指すと考えた.平泉駅の北東,柳の御所の南にあたる.
"奥州の秀衡館に遁れておりました弟の義経"(源平盛衰記)
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伽羅御所跡 |
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1998 |