地点名 |
出典と登場回数 |
位 置 |
備 考 |
写真と撮影年 |
対馬:佐須浦 |
さすうら |
話之種 |
対馬市厳原町小茂田 |
文永の役で,元軍は対馬の佐須浦小茂田浜から上陸した.対馬の島民を殺し,捕虜の女性の手のひらに穴を開け,紐を通してつないだという.宗助国らは,多勢の元軍に立ち向かうも討ち死にした.小茂田浜神社には,宗助国が弓を引く像が建てられた.当時は深く湾が切れ込んでいたと言い,内陸の法清寺に胴塚,さらに内陸に首塚が残されている.
"軍艦九百余二万五千余人同国佐須浦に押寄せしと云ふ"(話之種) |
小茂田神社 |
|
2021 |
長崎 |
ながさき |
累ヶ淵, 粟田口, 多助 など (他 東京76件, 上方18件) 全103件65題 |
長崎市 |
肥前長崎は,肥後の熊本とならんで落語では遠隔地の代名詞に使われる.圓朝に外国種の原作を提供した福地桜痴の生まれは長崎市になる.ちっとも知らなかったのだが,通りがかりに碑があってびっくりした.うかつなことに,"はなしの名どころ"に引用した「忠士鑑」には,しっかり福地源一郎の郷里が長崎と書かれていた.
"逃げも隠れもしねえ、長崎へ逃げようと仙台へ逃げようと花車重吉駈落はできぬから卑怯な事はしねえ"(真景累ヶ淵) |
福地櫻痴生誕の地碑 |
|
2017 |
長崎:丸山 |
まるやま |
今朝春三組盃 (他 東京7件, 上方5件) 全13件9題 |
長崎市丸山町 |
圓朝原作には出てこない.石畳の道の奥,石段下には丸山華街跡の標柱があった.石段途中にあるのは料亭 青柳,登ると丸山のオランダ坂.
"伊勢の古市越後の新潟、長崎丸山探しても"(今朝春三組盃) |
長崎丸山華街之碑 |
|
2017 |
島原 |
しまばら |
多助, 太助伝 全2件1題 |
島原市など |
松倉重政の圧政,禁教に対して,天草四郎らが起こした島原の乱の舞台.その後,島原藩主は何回か変わったが,「塩原多助一代記」の時は,戸田家が支配していた.島原の乱の一揆軍が立てこもった原城へは島原鉄道 原城駅から徒歩圏にある.急げば,列車が折り返してくる間に見学できる.(追記)2008年に島原鉄道の島原外港−加津佐間は廃止された.
"へえ、肥前の島原という所は遠うがんすか。そうサ、島原までは三百一里半あるな"(塩原多助一代記) |
原城址 天草四郎墓 |
|
1998 |