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9日目     上野下野道の記 本文

 1876年9月6日
 金精峠越


 案内人の磯之丞が加わり,ここから先は道なき道をたどる.この人物の印象がよほど強かったのか,磯之丞は「塩原多助一代記」に引っぱり出される.
  まよはねば來る道でなし苔清水
               −金精峠−

地点名 出典と登場回数 位 置 備 考 写真と撮影年
金精峠 こんせいどうげ 多助, 上野, 太助伝 全1件1題 日光市〜群馬県利根郡片品村 岩波版のルビは,きんせいたうげ.言うまでもなく,金精峠(こんせいとうげ)が正しい.「上野下野道の記」のハイライト,険路の金精峠越え.案内者は「木乃伊取り」の権助を思わせる磯之丞氏.金精道路の開通は1965年まで待たねばならない.
"金精峠は湯平より西北の間にて金精沢と唱へる渓間の徑(こみち)の其の嶮隘の路を伝ひ往く事一里余"(上野下野道の記)
金精峠 1998
大間那子山 おおまなこさん 上野 日光市 岩波版のルビは,おおまなこやま.大真名子山.2375m.五色山からよく見える.写真右手が男体山で,中央が大真名子山.
"後ろの方を見返れば、男体山、大間那子山、小間那子"(上野下野道の記)
大真名子,小真名子山 1998
小間那子 こまなこ 上野 日光市 小真名子山.2325m.大真名子山のすぐ左,背後の女峰山がかぶさってわかりにくい.
"後ろの方を見返れば、男体山、大間那子山、小間那子"(上野下野道の記)
     
赤沼ヶ原 あかぬまがはら 上野 日光市 戦場ヶ原のことだろう.別名御花畑とあり,今よりも高層湿原らしかったのだろう.
"御花畑 赤沼ヶ原と云ふ 、湖水一目なり"(上野下野道の記)
     
金精沢 こんせいざわ 上野 日光市 岩波版のルビは,きんせいざは.後づけの金精道路は大回りしてゆくが,旧道は沢を直接登ってゆく.
"金精峠は湯平より西北の間にて金精沢と唱へる渓間の徑(こみち)の其の嶮隘の路を伝ひ往く事一里余"(上野下野道の記)
金精沢 1998
金精社 こんせいしゃ 上野 日光市 岩波版のルビは,きんせいしや.一貫している.写真の通り,陽物が納められている.トンネル入り口左の登山路から登って行ける.
"金精社あり、 社まで又一里登る 小祠にして祭神は知れざれど"(上野下野道の記)
金精社 1998
丸木橋 まるきばし 上野 群馬県利根郡片品村 群馬県に入る.以後,地点名の群馬県は省略.丸木橋のかかっていた沢はこんなところかなという感じでチョイス.
"四、五町の間 平地になり、丸木橋あり。下を流るる水に咽をうるほしける"(上野下野道の記)
奥日光の沢 1998
温泉場 おんせんば 上野 利根郡片品村 一軒宿の温泉場.道路を挟んで宿泊施設と浴場がある.立ち寄り入浴可.
"温泉場に着きぬ。此の家は山村の農民なれど、夏は近村の人々湯治に来たる故家を貸すなり"(上野下野道の記)
白根温泉 1997
 −経路外−
会津 あいづ 伊香保, 替紋, 草三, 上野 など (他 東京9件) 全13件8題 福島県 御一新以後,不毛の土地で辛酸をなめさせられた会津人.「佃祭」では会津の桐下駄が出てくる.
"会津より送る酒なりとて出せし故飲みて見るに、其の味甘く渋味あり"(上野下野道の記)
     
奥州 おうしゅう 蝦夷な, 福禄寿, 八景 など (他 東京48件, 上方4件) 全66件43題 東北全県 陸奥(→ 圓朝).
"奥州より送る石首魚(いしもち)の干物を焼きて出す。此の魚幾十年以前に儲け置きしかその塩からくしてかたき事、真の石もちなり"(上野下野道の記)
     
東京 とうきょう 因果塚, 替紋 など (他 東京506件, 上方105件) 全643件433題 東京都 → 名どころ.ルビがついている場合や東亰と表記された場合は,別の項目,東京(とうけい)でカウントした.江戸っ子改め東亰っ子をニワトリみたいだというくすぐりも通じなくなった.
"小川の村中尋ねたれど玉子は五ツよりなしといふに、実に東京の自由なるを有難くおもふ"(上野下野道の記)
     
板橋の清水 いたばしのしみず 上野 東京都板橋区清水町あたり 当時,板橋を東京出身と称したら失笑もの.写真奥手の清水坂にあった清水薬師は,移転してきた橋場の総泉寺と合併した.北には薬師の泉庭園がすがすがしく整備されている.
"江戸は何処に御住ひなされしと問へば、板橋の清水といひしはをかしく"(上野下野道の記)
清水薬師碑 2005

掲載 040710/最終更新 220201

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