「上野下野道の記」:鈴木行三 校訂編纂,『圓朝全集』 第十二巻,春陽堂(1927) を一部表記変更



上州沼田へ日光より山越日記


 明治九年八月廿九日の早朝より出立ちし時の同行の人は、酒井傳吉の車夫 なり。母にいとまを告げ妻に家を守らせ、松葉屋の伯母と高橋の老母に別をのべ、茅町より両人腕車に乗りて千住新宿(にいじゅく)まで来りて車を下りしが、 浅草より是迄一里廿一町余 是より参来(あるき)て梅田島根六月(むつき)村に来りて小休 梅田村より是迄一里 此所を弥五郎新田とて 千住の裏手にて今水の役に当村の農民(ひと)提灯を建て詰合たり。その提灯に弥五郎と書きたるを見て、煙草の火をかりに入る。

   弥五郎と書く提灯を立場茶屋
     ほくちをしめし火をかりに入る

 是より竹の塚に小休して、保木間(ほぎま)村、水神村に小休、是まで 参る道四五町の間左の方蓮田多し 総て竹の塚より堤(どて)道なり。 竹の塚より此処まで一里四町 空少し曇りて風涼しければ、

   松風の中にふくむや秋の夢

とよみつつ棒杭を見れば、 東京府距日本橋へ二里三十三町五十三間 千住駅へ一里三町五十七間二尺三寸五分 毛長落し中央迄四間二尺二寸五分 草加へ弐十三町五十六間三尺三寸 毛長落川中央六間 浦和宿元標へ五里八町十一間三尺四寸二分 此処を出て手広(てひろ)より瀬崎(せざき)村なる浅間の神社に参詣す。手洗の池とて清泉なり、石の鳥居に 寛政六寅四月と深く彫刻したり 是より 武州足立郡 草加(そうか)駅の入口字佐原村にて小休す。此家の団子味(うま)さうなれば一本風味す。傳吉ハ九本喰らふ。梨一ツ食ふと、傳吉九ツ、丸かぢりにする。此男は平常(つね)に九人力ありと自慢する程の勇壮の人なり。駅中に入れば学校あり、真言宗にて東福寺あり。神明の社 祭日ハ三月五日 八幡の社 二丁目祭日ハ毎年六月一五日 九右衛門新田喜右衛門新田(きえもんしんでん)あり。鴨(かも)村は少し通りの方に出る松原の方なり。駅の上総やにて休み、午前十一時二十分なり。掛茶屋女房に当駅にて料理は何方(いずかた)が好(よ)きや。と問へば、女房の云ふに御泊りなれば岩木や、丸屋、 以前大家 上総屋長吉方か、大和屋はお泊も料理も致しますと云ふ。イヤ中喰(ちゅうじき)の場所故手軽な家はあるまいかと云ふに、女房首をかたむけ、ハイ一の屋と申すうなぎやがありますが、昔と違ひ今では此地の人たちは、参る者は有りませぬ。と云ふに、それハ面白し、其家に参るべし、と立出で、二三町往けば店の暖簾に一扇庵とあり。入て見るに其の汚ならしきこと云ひつくしがたく、禿盆にひびの入りたる茶碗に出からしの茶を持る。玉子焼とどぜう鍋を誂へ、酒一合を傳吉に進めたり。

   一の屋の暖簾をまとにいて見れば
     二のやとつげぬ出はづれの茶屋

 早く此家を出でて、板橋を渡り松並木にかかる。 左右用水にて五六町あり 棒杭に 越ヶ谷へ一里三十町 大沢へ一里三十五町 栗橋へ九里(傍点)。追風並木の音高し。

   作木の縄ゆるみけり秋の風

 鴨村に来りて小休しける時、馬子馬を曳きて来り、馬もかわくと云うて、粉糠を水桶にまぜて呑ませけるに、

   盆三日馬にのますや粉糠水

 此家より 左りへ三里廿町 岩附道あり 又上戸(あがるど)村に小休して問へば、大沢まで 廿二三町 と聞く。急ぎ瓦曾根(かわらそね)村にかかる。学校あり、正観音堂其側に不動堂あり。 左り角に さかやおけ八 とのうれんをかけし 立場あり。天覚寺(てんかくじ) 大寺なり。越ヶ谷(こしがや)駅なり、鎮守は塞の神にして、 左りの細道を入れば 八幡の社あり駅より大沢迄二十町不足(たらず)。やうやうに板橋を渡りて大沢町に入る。 右側有名の 玉屋に着きぬ。まづ二階に通る。茶、煙草盆を持ち来る、火は直(じき)に消える。

   ひゃうばんの玉やと聞けどらう竹に
     吹たびごとに消ゆるたばこ火

 其夜は蚤と蚊にせせられて思ふやうに眠らず。四時より起出でて玉屋を出で、駅の中場に来る。橋手前に天満宮の社ありて鳥居見ゆる。駅をはなれ大林大里村に来たる頃、旭はさし昇りて草の葉の露にうつり快く、一ぷくとて掛茶屋にて煙草くゆらせけるに、家の前は掃目立ちて清らかなれば、

   初秋や箒を入るる籔の中

 大房村の 左り側に 猿田彦の神社、樹木茂りたる森より白鳩の飛行くを見て、

   朝露をふるうて立や籔の鳩

 是より下間久里(しもまくり)、上間久里村なる土橋の傍のかけ茶屋に休みけるに、垣に朝がほの花盛りを見しに、

   あさがほや垣にそなはる花の色

 大畑(おおはたけ)大枝村を放れ、備後村に小休 右ノ方森あり 平形(ひらがた)村の 浄土宗 林斎寺の林なり 御朱印廿五石 、此所より 粕壁迄廿八町 露をふみ足も進みければ早くも粕壁(かすかべ)駅に入る、 駅中十二三町にして上中下とわかれ 福一屋と申す立場に休み 上ノ駅にあり 、斎正院 真言宗往当りに有 八幡宮 鎮守なり 八間余の新大橋を架す。これを古利根川(ことねがわ)とて、上州より流れ、葛西領の用水にて中川へ落つる川なり。駅外れのうどん屋に入り一杯づつ食ふに、つゆの味わるし、八時三十分なり。雨折々降る。暑さつよし。

   なまなかの雨に猶増す残暑哉

 八丁目村より小淵をはなれ本郷村に小休 是迄一里 、又堤根村に休む 此所より松戸迄十三町 。此村に第六天の社 左の方にあり 、腰より下の病を治さしめ給へと祈る時は極て霊験ありと云伝ふ。土器を納むると云ふ。是より小高き並木に出る。 左りの方 利根川なり。清地(きよち)村にて 右側 伏見屋にて中喰(ちゅうじき) するめの煮附、揚ものなり 家にてゆるゆる休みて雨止みを待ちたり。此時傳吉は造り酒屋に奉公せし事ある故、きき酒の話を聞きしまま書置きぬ。

  酒の変りたるを直すに石灰を入るるは下等の酒なり。上等の品は藁灰に柿の渋を入るるが好しといふ。今飲みたる此家の本直しは下りにてせうちうと味淋酒にて造りし故、古く成りても気の抜けたるわりにはのめるなりと云ふ。
 それより出でて松戸(まつど)駅を通るに 鎮守は 神明宮なり。 真言宗 法正院といふ寺を横に見て田圃道に出れば、左右柳の大樹許(ばか)りなり。雨止みて秋風そよそよ吹きければ、

   心みに柳を吹くか秋の風

 土橋を渡りて往けば八幡(やわた)の社あり、入口木戸あり、 左の方に 庚申塚三塔並びしを見るに、 享保寛政 の年号彫たり。是は松戸新田の八幡坊とて半道余の地所ある由、松並木今は 切りつくしてなし 旧名松原と云ふ。此地を後に見て下高野(しもたかの)村より茨島(ばらじま)村にて小休し、土橋を渡りて上高野に入る。左右用水の流に藻の花咲けるを見て、

   苅捨てし藻花咲きぬけさの秋

 又松原に出て 十二三町 往くほどに、行りに橋あり、 左りは岩附道 右幸手(さって) 武州葛飾郡也 とあり、少し小休してやうやう幸手駅に入る。旅籠屋を尋ねしに立派なる家見ゆる。急ぎ往き見るに貸座しきなり。掛札朝萬(あさまん)とある故様子知らねば跡に戻り髪結床に入りて頃はまげの有る時なり 、髪を結ひなどして床の親方に問へば、釜林と申すが古く宿をして上等なりと聞き釜屋へ入らんとするに、旧家とて造作は破れ見苦しき家なり。いかがせんと覗きこめば、奥の方に清潔(きれい)なる座敷の有る様子故、泊りを申し入れけるに、女供共来(いでき)り、まづ此方へと案内に連れ三番の座敷へ通る。先づ風呂に入る時、表の方にて大声にて圓朝が泊りしやと云ふに驚き、何者ぞと其人を問へば、旅商人 たばこ入仕入物の なり。知るもことわり、 東京かきがら町水天宮の側に住 三十歳ばかり。
 男隣の席に泊りぬ。其うち奥州の女六七名合宿となり、彼婦人庭の井戸端にて洗濯をする音さわがしければ、

   ほちゃほちゃと肥たかか衆の洗濯に
     盥と尻にたがもはめたし

 幸手駅の鎮守は八幡宮 祭日は八月十五日 なり。 禅宗 法住寺 上向門徒宗 教敬寺(きょうけいじ)下はくき町上あら町 あら宿とも云 仲町下馬之助(しもうまのすけ)町裏町に寄席あり。 名主 野村といふ、 呉服屋下町 奈良や 上町 にて長嶋 中町 酒場といふ料理屋あり繁盛(はんせい)の駅なり。其夜は雨降りて寝心も好からんとおもひのほかにて、蚤多く眠りかね、五時 明かた に起出で、支度なしたり。翌(傍点)三十一日、空晴れて旭の昇りければ 十町ほど 歩行(ある)たり、此の所は本道より左により新に土堤(どて)を築(つき)上げたり。馬車にて堤の上を走り、高須賀(たかすが)村より国府間(こうま)村にいでて小右衛門(こえもん) 別道 に休む。 本道に電信棒立たるまま 地は 戸数千六百戸 右の方に弁天堂見ゆる 古昔長崎の海中より出現と云ふ 観音堂の 左りの方に 信光寺 当今学校也 利根川 右の方に 見下し、 是より七八町 往けば伊坂村字宝地戸(ほうじど)と云ふ所に静御前の墓あり。杉の大樹 今は枯て小杉のみ 残れり。川向 下総領也 五ヶ村とて 十三ヶ村あり 、堤(どて)九町 往くほどに、 右ノ方 銀杏の大樹茂りし元に、香取八幡の両社を祭る、 十四五歩往けば 利根川へ渡 五ヶ村に渡る の下り口に 人家三四軒あり 名物 あは餅を売る茶屋川崎や長右衛門方休み、暖簾には梅鉢の紋□*1の印を染めたり。粟餅一盆 数十 とりて風味を致せば 黒砂糖にてわるく甘し 、昔は 一盆十五文 今は百文なり。五ヶ村の渡しを越えて何国(いずこ)往くやと問へば、 亭主の申すに 常陸水戸に通ふみちなり。其むかし手の曲りし船頭が住みしより人あだ名して手くねの渡しと云ふ。是より栗橋駅に入る。舟附なれば繁盛の駅なり。上中下と別れ 舟附 舟渡(ふなわたし)町といふ。梶町(かじまち)川岸通牛頭天王 今ハ八阪神社鎮守 大寺 □宗 常量寺(じょうりょうじ)と福誘院(いくゆういん) 真言宗 牛頭天王の別当は伊坂村なり、 牡丹燈籠の友蔵の産地也 鎮守祭礼は六月七日より十五日迄 代官斎藤 名主 鳴川傳吾衛門 中町 野淵團十郎 下町 梅澤良右衛門 なり 昔の 本陣池田與四郎右衛門 宿方取締り三役勤める 笹屋三郎左衛門 料理店泊宿 升屋利兵衛は 乾物問屋 なり、川渡 平水五尺 九十五文の渡銭なり、 一丈三尺より 百文、平水まれなり、 今日は百三十文 と引上げたり。渡舟に乗り中田駅に著く、 茨城県なり葛飾郡中田町 左右貸座敷軒を並べ禿ちょろお白粉の丸ぽちゃちらちら見ゆる。其前を通り町の出はづれの掛茶屋に小休して、今見たる旅かせぎの娼妓を思ひ出でて、

   あだし野や馬に喰はるる女郎花

 是より松並木 半道余 中田新田より茶屋新田に来りて休む。 是従古河まで一里 大堤村、原町より古河(こが)駅なり。 入口のうんどんや 萬屋に休む、十二時也。 左栃木道。四里二十町 網戸村へ二十町。 駅に入る。 旧城は土井公 呉服店奈良屋久兵衛は 京都支店 二丁目なり、同一丁 呉服店中等 衣屋利右衛門 同町同商 釜屋喜七、江戸町(えどまち)、石町、火の見櫓の下 通り一丁目 なり、 石町にハ穀物市場也 向横町(むこうよこちょう) 高札場あり 元魚町に 唐物や小裂や 多し。横山町に 貸座敷あり 、桜町は 旧城のあとを云ふ 紺屋町より別道の杭あり、 佐野へ五里 足利へ八里 宿は紙屋幸太郎に太田屋なり。寺院は 大寺 正定寺 浄土宗領主寺。禅宗大寺 大正寺 院 同大 松林寺 浄土中寺 西光寺 同門徒宗 常円寺 下小地 宝林寺、雀大明神 祭礼六月十八日 総計十三ヶ町なり。思川(おもいがわ)につづき枕が渡しあり 佐野に往道なり 。猪早太忠住(いのはやたただずみ)が主君源三位頼政(げんざんみよりまさ)の死首を埋めし所なるよし、中喰(ちゅうじき)の上等は和泉屋忠右衛門方と聞きて此家に入る。 なまりのあんかけに玉子焼 江戸まへ料理風味よし。思川の古蹟を見て、

   たたずみて見れば昔をおもひ川
     此源の瀬は早太なり
   水もなき枕川原やねむの花

 是従 十三四町ほど 松並木にて 右の方筑波山左は上州の山々 右の方の林の前に石の大鳥居に銅張の額を掛け野木(のぎ)大明神とあり、参詣せばやと 三町程 林の中に入れば左右大杉欅檜木繁茂して日光(ひのめ)見えず。正面に社殿あり、 応神天皇の王子を祭ると云ふ、祭日は毎年七月四日 十月末ノ子ノ日午の日 栃木県下都賀郡也 旧神主は一ノ守の位あり 井美の間といふあり文字の誤なるべし 、右の方に銀杏の大樹の下に小さき額に画をかかせて祈願成就の時納むと云ふ。これは婦(おんな)乳の出ぬ者の願がけなりと聞ぬ。掛茶屋とも家三四軒あり。 東の方ぬけ道 して野木町に出で、又並木を 七町程 往けば友沼村に来る。日影の茶屋に休みて鳳仙花の花を見て、

   掛茶屋も庭形ちあり鳳仙花

 亦大留(おおとめ)村を通り 並木半道 ばかり往けば中友沼なり、小休してお岩の神社参詣す、右の方の奥に 法華宗 妙高庵と云ふ堂あり、此処を立出で 三町余 往けば大門の垣の構へ立派にて、二三町もあるやに見えける故、村の者に問へば、菅野谷角右衛門、同又兵衛の二軒は旧名主にして九百七町の田畑数あると云ひぬ。 鎮守 八幡 祭日九月十五日 右の方に赤き門あり。其前の茶店に休みしが他にも四五軒あり。此所は友沼の出はづれにて乙女(おとめ)村なり、赤き門に地蔵山の額をかけたり、法恩寺とて 真言宗 なり、 此所より真間田まで二十六町 やうやう夕景に真間田(ままだ)駅に着 本陣 青木藤三郎に泊りぬ、本日旧暦盆の十三日にて駅中の人々、男女老若共徳利に水を入れ、花をさげ寺参りする。往来(いきき)にぎはう。

   苅置し草花さげて墓まゐり
   貧しくも誠尽すや魂祭

 此宿(しゅく)は蚊帳も夜具も清らかにて快くふしぬ。れば 九月一日天気好く、七時に出立となり、並木を通り栗の宮(くりのみや)出外(ではずれ)に小休 真間田よりこれ迄十四町 小山迄廿四町 並木の中場に安房神社八幡宮あり、 二丁廻りの 大池に朱鯉(ひごい)多くゐたり、是従神鳥谷(しととのや)村に出、小山(おやま)駅に入る。 左側 須賀神社 駅の中程 当今貸座敷 五軒 娼妓の玉は一分二朱なり、 昔ハ女郎や十五軒あり 芸者は見番にて二朱と云ふ。明治より学校建築にて進歩の駅なり。 浄土宗 慈法寺 大寺なり 元木戸より 右結城道 稲葉郡村 旅籠屋は扇屋 脇本陣 角屋、宿(しゅく)の中程に 佐野天明の別みちあり 駅より 十七八町 りて喜沢(きざわ)村に小休 右陸羽道左日光道 左右松並木是より左に付きて 十六七町 れば黒本村三盃(さんぱい)村にて小休

   日送りに啼く計りなり秋の蝉

 是従半田川を越 舟渡 して並木を過ぎ、飯塚駅に休。道を問へば、此所は日光道中にて壬生(みぶ)駅に出る本道なりと云ふ。亦 二里木那須原加沼へ行道と云 此処を出て紫村川名子(かわなご)より小金井駅に出るに、 一里半余 むだ路を歩きしと心づきたれど是非なく、村の者に道を問はんにも人家見えず、往来(ゆきき)はたえたり、困りたれど旧壬生公の領地にてあらんと、名主の家を尋ねしに、農民に出逢たり。問へば神山九右衛門といふ、 天台 大林寺 法華 妙伝寺二ヶ寺ありと聞きしより尋ね往んとするに、農民の申すに、日光道なら此裏の垣に附き畦道を行くがよし、我送りて遣らんと、左の山根に附き行程に紫村の棒杭あり。送りし人に別れ、村に入って三軒目の農家にて道を問へば、早言葉にて少しも解らず、只ゴハンギホとのみ聞て其家より十間程行けば布告書を張付けし物あり。昔此事を御はんぎやうとやら云ひし事を田舎の伯父に聞きし事ありと傳吉と云ひ合せて、手前のよこ路を右に曲りて水車のある家の前に出で、橋を渡りて左の道巾広き方へ真すぐに行けば木蔭の下に休まむと、背負ひし莞莚(ござ)を敷きて其上に荷物を下し、煙草一ぷくくゆらせて、

   旅人の踏みまよひけり花の原

 此所は川中子(かわなご)村といふ、 左に曲り 生馬頭観音堂に参拝して右の方山路を左にとりて、雑木山を 二十町ほど ぬけてやうやう小金井駅に出たり。両人ホッと息をつき中喰(ちゅうじき)の茶屋に這込(はいりこ)みしが午後二時なり、目の廻る程空腹になりしかば芋の煮つけにいり玉子にて、傳吉に焼酎を一合進めたるに、傳吉酔うてつかれふしぬ、

   昼旅籠家来の先へひる寝かな

 此家は大黒屋幸吉と云ふ。亭主に尋ねしに当駅は元佐倉の堀田公の御領地にて神社は虚空蔵菩薩 祭礼ハ九月十三日 なり、寺院は慈元寺(じげんじ) 真言 蓮行寺(れんぎょうじ) 法華 あり。駅は上中下(かみなかしも)と分け、貸座敷 当今ハ五軒 中にて倉田や若葉と申すは上等なりと云ふに、只今参詣したる川中子の生馬頭観音の事を問へば、実は小泉観音にて 毎年七月十八日 には馬乗の祭りと申し何百馬出るか数を知らず、小金井の旧名主大越武左衛門、古嶋孫右衛門、大越平十郎等出張すと。はなしの中ごろに、傳吉目を覚し、もはや出かけようと申すに、是より笹原新田に来りて小休の折から、夕立かかりて雷鳴なり、忽ち晴れて涼しければ、足もすすみ、 並木道を三十町 るに休み所なし、又莞莚(ござ)を敷きて腰をかける。夕六時なり、右の方に筑波山を見る景色尤よし、

   伸あがり見るや高根の秋日和

 下石橋村にいたれば千里軒の馬車の立場あり、少し休みて石橋の駅まで八町急ぎ本陣伊澤方に着きぬ。向うは伊勢太とて宿やなり。貸座敷上町下町とに有り繁盛の駅なり、傳吉は宿に附くと直に汗になりし下帯を洗ひに下る様子のをかしければ、

   てっぺんに古ふんどしをさげたれば
     膳の支度も長さきこは飯

 膳は汁が茄子、平は玉子焼にかんぴゃうと油揚なり。皿は鮎の塩焼干物の如くかたくて喰かく程なり。地酒は 二合にて三百文 食すみて傳吉を連れて駅中を見物ながらぞめくに、男女うち交りて樽をたたきて盆踊あり、昨年迄娼妓踊に出でたるに税金 一夜一人に附き金二両二分 差出せとの布告ありしより今年はこりこりして出る者なし。

   いつ来るとなく集りし踊かな
   其なりに踊込みけり風呂戻り

 其夜は早くふして明朝は早立と宿に頼み置きぬ。(傍点)九月二日曇天冷気なれば朝のうち道を急ぎ、伊澤駅を放れて並木二ツ越える、別道に棒杭あり、栃木県第二大区一小区下野国河内郡多功宿(たこうじゅく)とあり、これは関宿(せきじゅく)に往道なり、木の根に腰うち掛け、足を休め居たる折から雨降り出しければ、

   風のなき空を走るや秋の雲

 静に歩行(あるき)て茂原(もはら)村に休 是より雀の宮へ十三町 又往く程に早雀の宮駅に入れば、芝居興行ありとて所所に番附け張出せし故立止まりて見れば、名の知らざる俳優なり。安泊りの二階に役者七八人居るを見るに、奥山に出たる豆蔵の類なり。其うち大降りとなりし故棒ばなに休み、晴間を待ちぬ。

   鷺のたつ沼から暮るる秋の雨

 雨晴れたれば雀の宮を拝す、 祭礼毎年九月七日ヨリ十一日迄 藤原の実方(さねかた)朝臣を祭ると聞きたり。亦千代新田(ちよしんでん)に小休 雀宿より廿九町 家にて千代の餅を売る 一盆とりて 傳吉に進め、

   餌あせりに腹はふくらの雀宮
     ちょっちょっと休む千代のもち茶屋

 と口ずさめば傳吉笑ひ乍、泊りはささに致しませうと申せしは面白し。是より立出でて 宇都の宮棒はな迄二十九町なり 並木より道連になりし旅商人(あきんど) 煙草うる なり、柮子(せっし)をよく知る人にて、申すに、当今和国太夫(わこくだゆう)当駅に興行にて、大入に附日延なりと聞くに、なつかしく思ひ、道々東京の物語など致し、早くも宇都宮、入る口を新町と云ふ。歌の橋を渡りて大黒町蓬莱町材木町、 日光へ入道を 小伝馬町より新田町と云ふ、裏町、小川島町(こがわじままち)、伝馬町、池上町、 大手先とて旧戸田公御城は右の横町の行当り也 橋を渡る、向を松原町と云ひ、宮前を番場と云ふ。鉄砲町、曲枝町(まげしまち)、広町、造酒町(みきまち)等あり、貸座敷は 上等、伝馬町 広町 池上町 中等也、大工町 四十軒余有 菓子店は 大黒屋 池上町 料理は 塚野や 伝馬町 酒店は 津の国や酒造 上川原 乾物店 魚吉 材木町 煙草店は 大塚屋 同 足袋や 浪花や 同 洗湯(ゆや) 成田や 同材木町 髪結床 福本 新石町 なり。先 第一等 旅籠屋、手塚屋に着す。 午前十一時也 二階へ通しけれど、西日さして暑ければ着物を預けて床に行く、 材木町 福本。 髪を結ひ風呂に入る 同町 成田や 。宿に帰りて中喰(ちゅうじき)をして衣類を着替へ、傳吉を同伴させて宮明神に参詣して石坂を下る。 祭日九月十十一日 宮前の芝居茶屋山屋国平方に入りて和国太夫を問ひければ、太夫悦びて二階より急ぎ下り、手をとりて案内するに、先二階へ昇り、思ひがけなき面会なりと落す泪に、我もまた嬉し涙に袖をしめしたり。久々にて一杯と、料理をとり酒くみかはす折から、雨は土砂降りとなり、大雷ひびきわたれども、両人の親しき話に余念なければ、雷鳴も知らず知らず物語に時をうつしぬ。実に朋友の信義は言の葉にのべがたきものなり。

   友に逢うて猶憂ますや秋の旅
   稲妻やさめるも早き風呂揚り

 雨晴れたれば、太夫と門弟に心許(こころばかり)の土産物を遣して、別れをしけれど手塚屋へ帰りてふしぬ。
 翌三日天気よければ勇み立ちて、わらんぢも朝露にしめり歩行(あるき)よく、道もはかどりて上戸祭村字寺内(てらうち)にて小休 中徳二郎村迄一里二町 我が作話の牡丹燈籠の仇討に十良ヶ峯(じゅうろうがみね)と云ふ所を問へば、此所より 西里山より西北の方に当り 見ゆると云ふ。亦野沢村に小休、清水流る。石橋を渡りて、並木を越えて上金井村 左りの方の後ろに当て紺屋林村といふを今 宝木村 と改名したり 是より加沼駅 まで三里半 と聞きぬ。やうやう中徳二郎(なかとくじろう)村の棒ばなに小休。此地を通り過ければ右の方に智加都(ちがつ)明神の社は 五ヶ村の鎮守也 又上徳二郎に来りて休む。人力車二台を雇ひ大沢村に来りて中喰(ちゅうじき)となる。此時女馬士(まご)帰り馬なれば 二疋三貫文 にまける故と進められ、是も話の種にもと馬に乗って今市駅なる橋田屋に休みし折、ふと同業三升屋勝次郎の忰小石子(しょうせきし)に面会したり。長の旅中困難の有様故心計恵み別を告げまたまた馬にて瀬川より野口村里村に来る、大雨大雷にて雨具等もなければづぶ濡にてやうやう日光の鉢石町(はちいしまち)の野口屋市三郎方に着きたり。先風呂に入りて衣類を着替などするうち雨晴たり。茶と日光ようかんを出す。圓朝と知ったる宿屋の様子故それぞれ手当も届くやうに致し、案内者を頼み置き、日暮まで見物せんと思ふに、傳吉は馬に酔ふたと申すに、拙子一人にて往かんと空の雲行を見て、

   ふいふいと消えて仕舞ふや秋の雲

 其折案内の人来る。共に出て見るに、日光へ入口を、松原、石屋町(いしやまち)、御幸町(みゆきまち)、鉢石町(はちいしまち)、大横町(おおよこちょう)、稲町(いなまち)等なり。両側の商家軒を並べ名物日光下駄、栗山桶、ひき物細工、漆器類、毛皮、鹿の角、その他種類あり。鹿の角細工をする家の前に馬をとどめ、夫婦連の旅人鹿の皮を買ふ。馬の上に敷いて給はれ、と亭主に頼みければ、妻の云ふがままに、高金にて皮を買ひて馬の荷鞍の上に敷き、妻を乗せたるを見るに、

   馬の上に鹿の皮とはばかにした
     妻こふててを尻に敷くかか

夜食事済みて枕につけど眠られぬままに

   鹿啼くや寝間をはなるる泊

 翌四日天気なれば朝飯(あさはん)をすませ見物に出る、鉢石を放れ大谷川(だいやがわ)に来る。朱塗の橋あり、蛇橋(じゃばし)とて昔将軍御社参の時渡られし橋なり。平常(つね)は渡るは仮橋なる由案内の物語。渡りて向うに往けば、二荒神社と書きたる高札を建てたり、大谷川の中に大岩あり、此石は開山 勝道上人 坐して行をなされし故、高座石(こうざいし)と云ふ、洪水にても流るる事なしと云ふ。 二荒山は神護景雲元年始めて開く、弘仁十一年空海上人滝尾社寂光社等を中興してより其後日光山と改称す 川は華厳滝の下流なれば大谷川といふ。山菅の蛇橋を渡りて東の方に登れば、満願寺の境内なり 、慈恵慈眼 大師を安置す。相輪塔(そうりんとう) 高サ廿三丈余 三仏堂は銅(あかがね)葺朱塗の大伽藍にて、本尊千手弥陀馬頭にして、 高サ二丈五尺余 仏体裏には五大尊明王、御影石の大鳥居は 元和四年 黒田筑前守 国より巨石 を以て造り上げたりと云ふ。左五重塔高 三十三間余 酒井若州公寄附 金銀丹青をちりばめ十二支彫物 右は番所の左右に石垣の内に大石あり,横竪 三間余 俗にアラメ石といふ、正面三棟(むね)造り金唐獅子の彫物、菊の籠彫象頭梁鼻(ぞうずりょうび)雲に豹、何れも金碧五彩 左右に並 金石の燈籠は旧諸侯の献納、数へられぬ程なり。三神庫あり、三棟(みむね)朱塗、金物は鍍金(めっき)花鳥草木の彩色(さいしき)、柱の上は金襴巻、左りの側は一ノ神庫、長押上破風下に鼠色と白色の大象の彫物あり、狩野探幽(たんにゅう)の下絵と云ふ。御厩素木(しらき)の猿の彫物、水屋は石柱(せきちゅう)浪に龍の彫、石に金物を打ったり、鍋嶋公の寄進なり。南蛮鉄の燈籠は仙台公献品、旧鐘楼鼓楼あり。蓮燈籠は三十一ス(傍点)の燭台あり、唐銅造りなり。琉球国の貢、朝鮮より献上の釣鐘を一名虫喰鐘といふ。又阿蘭陀より献備は 三十ス 釣燈籠あり。 西の方に 旧本堂あり。朱塗金襴巻の柱天井の龍は安信(やすのぶ)の筆なり。何れも結構結構と計りなれど其中にも驚き呆れたるは陽明門 俗に日暮門 なり。四方唐破風に銅(あかがね)葺二重垂木金白龍其間毎に、白木にて、獅子数頭桁は牡丹唐草柱は槻の丸にて綾菱の紋、中に鳥獣艸花(くさばな)の彫物、前面の破風は金龍の丸彫、額は後水尾院の御宸筆なり。高欄の間は唐獅子の丸彫、軒通 三尺毎に 金龍冠木上通りは人物鳥獣の彫り、其人物は 周公 顔回 孔子 或は 三笑 六侍 四友 九哲 等なりと云ふ、天井は古法眼元信八方睨の龍実に活けるが如き名画也。なる程日光を見ぬ先に結構といはぬものとは此事なりと、其他はよく覚えず、日記帳懐中して只見物するのみ。中に本社の後の山上に入口に名匠左甚五郎が彫の眠猫の長押の上に目が附たり、鉄御門を猫門といふもことわりなりき。夫より石段を登り、拝殿、又一段高き所に唐銅の宝塔は家康公御遺骨埋葬せし所と云ふ、それより二荒の神社を拝して坂を下りて見るに二つの堂あり、鬼子母神を安置すといふ。此間の坂を下りて 慈眼堂天海僧正 の廟所より三代家光公 大猷院御霊屋 の朱塗の高欄黒塗掾側(えんがわ)の上を紺足袋にて歩行(あるく)時は実に恐縮至極なり。水屋の天井は安信の画(が)二天門は、持国天、広目天、裏は風雷の二神。坂を登りて鐘楼鼓楼次に夜叉門あり。玉垣其他何も彫物の妙を極め、拝殿天井は東照宮の如し、化燈籠は二荒神社の前にあり。奥の院入口に皇嘉門あり、是より御供所(ごくうじょ)、龍光院、滝尾(たきのお)の社、仏岩(ほとけいわ)、子種石(こだねいし)、素麺滝(そうめんだき)、飯盛杉(めしもりすぎ)、手掛石(てかけいし)、三本杉等見物して案内者に一々聞き目もつかれたれば、一度宿屋に帰りて昼飯をたうべたり。 午後一時過 また案内を連れ霧降滝に往く。此道野山の細道にして、たまたま馬の通ふのみ、 一里の間 人に逢はず。なれども所々に草の花咲きみちて其風景えも云はれず。五町 行くほどに赤名山(あかなやま)より落ちる水音すさまじく、 十間余巾 川中に大岩小岩に当りて水くだけちる有様物すごく、左右は高山にして人家たえてなし。

   山道を曲るやふいと身にしみる

 丸木橋を渡れば左の方に大門(だいもん)あり。 大門の口右方 観世音と云ふ。供養の石塚を建立す。是は日光山光奥院(こうおくいん) とて日本の大寺三ヶ寺也 。門を入れば左の方に葷酒不山門入と深彫にしたる戒談石あり、石坂を登れば中門の傍に鐘楼(しゅろう)堂あり、本堂にて三尊の阿弥陀如来開山霊空上人なり。参詣して裏門に出で、また山道を登る事幾度なるや松原に出る。又花野原に出る。其折大雨大雷となりしが 一里余 往くうちに、雲きれて西日さしけるに、両人共ホット息つき、またまた 十四五町 計り往けば滝の音聞えて樹木の影より滝霧見ゆる。谷へ下らんとする側(かたわら)

   くだけては三千丈や滝の月  雪中庵蓼太

の碑あり。また雨降る中を谷に下る 十二三町 計りと覚ゆ、岩道急にて石の上を足がかりにてふみしめふみしめ枝にすがり、木の枝に取附き命をちぢめてやうやう滝壺に来る。滝巾 十八九丈 落つる水岩にまとひ、岩に当りてはくだけ散りて霧の降る如くなり、其音すごくしてこはげ立、一生懸命に心経を読誦するうち、雷鳴薄くなり雨晴れたり。

   山をさき岩にくだけて秋の水
   滝に影さして見出すや谷紅葉

 それより元の道に登る折は、雨に道岩石崩れ苔に辷(すべ)りてあやぶまる。汗の流るるやうに思ひしが、傳吉は念仏を唱へつつやうやうによぢのぼりたり。たがひに顔見合せ危うかりし、と云ひつつ空を見るに、雲きれ西日山根にかたむきしかば、急ぎ帰る道にて、草の花十種計り折取て傳吉に持たせ、大谷川の橋の手前に神宮御供水 日光一の冷水 を飲みてより宿に帰り入りたり。これより風呂に入りて夕飯の折、宿の主人来りて、嘸(さぞ)御疲でと旅籠屋なみの挨拶に、拙(やつがれ)も日光の結構と山景、滝と水に富みたるなど誉めたる咄に附き、松杉の直なる高木には驚きました、と申せば亭主 野口屋市三郎 申すに、当山の樹木は慶安元年従五位下松平右衛門大夫源正綱殿、菅山(すがやま)小倉(おぐら) 河内郡 大桑(おおが)村山中まで実生より寄進に植附けられしが、今に至りて当国第一の宝となりしとの咄に感服の余り記し置きぬ。其夜は 旧暦七月十七日 月膳の上にさしければ山中の月夜を見て

   松越ていさよふ月や膳の上

 翌(傍点)五日晴天なり。野口屋を出立して大日如来堂に参詣す。此所にばせを翁の碑あり、

   あらたふと青葉若葉の日の光り

 其側に千体地蔵の堂あり。是より清水池(きよみずいけ)の石橋を渡り、横道に入る。 一里半余 谷間至極の難所なるを越えて、裏見の滝に出る。 滝巾三間余高サ五丈八寸 見下せば削なす碧潭深く、見上れば青壁高きより、打す滝水巖(いわお)に摧(くだ)けて音凄じく、滝裏を覗かんとすれば細き嵯峨たる谷の上道を往くなり。三所より落る滝霧に道辷りて歩行(あゆみ)がたく、其側に建たる不動尊の石塚を力にやうやう向うに通り抜滝のうらを覗きたり、又前の路に帰りし時、松吹音寂寥(ものさびし)くおもはれ、是より 外道廿町 往く。道少し広くなれば中禅寺に通ふ本道に出づ。又 十町余 山に登る又下りて大川原に出る。やうやう馬帰しの蔦屋にて休む 此所人家五六戸 。ちから餅を売る一盆づつとりて風味をす。是より川原道を右に渡り左へ越ゆ五町余 所谷水音高く岩にせかれてわかれてはむすび、摧(くだ)けて水玉を飛ばす、大谷川の急流なり。屏風岩右手の峯に風穴といふあり。丸木橋を左右に渡りて 十四五町 登れば、向山の峯より阿含(あごん)の滝、方等(ほうとう)の滝、般若の滝はるかに見えたり。それ 五町余 を登れば中の茶屋、来りて小休み、又七曲り 八町 登れば左りの細路に 三町 入れば掛茶屋あり。此処より見下ろせば華厳(けごん)の滝なり。高さ 七十五丈落口八間 実に無類の名滝にて、落る谷間に、岩燕とて幾百羽となく飛び舞ふ有様は言葉につくしがたく、是より左の方へ出る道四町 にして中禅寺の湖のほとりに出る 竪三里横一里 。かかる山上に大湖のあらんとはおもはざりき。 旧六月七日 日光御舟祭とて湖の向う辺に寺ヶ崎薬師、歌ヶ浜の地蔵、御守石 婦女の石形し とて参詣人詣づ。走大黒(はしりだいこく)行者講中を乗せて山々へ舟にて参ると云ふある時は舟は向うへ付かざると云ふ 。中宮祠に参詣す、行場小屋あり、神さびたる有様なり。湖の岸に蔦や米屋など四軒 茶屋あり、まづ上等とききし故つたやにて中食(ちゅうじき)、中禅寺名物木、蔦木、熊柳、山藤、山葡萄、ブナ しゃもじになる木 大谷川 にてとる 岩な、山め、海苔、稗菜(ひえな) 稗の畑に作るゆゑひえの匂ひする 、蔓の実 丸く赤き実也 、其種類書もらしたり、是従中宮祠大黒天本尊は十一面観世音、二荒神社は 阪東十八番 立木の観音妙見堂あり。本社の鳥居より三里 男体山へ登る入口あり、湖の歌ヶ浜地立(じたつ)といふ所は、常に白浪たつと云ふ。雷(らい)は下の方にて鳴ると聞きぬ。これより池の淵、獅子ヶ淵を通りて龍頭(りゅうず)の茶屋に休む 中禅寺より一里廿町 。是より龍頭滝を左の方に見つつ山道を登る。右の方雑木林左は湖の岸なり、通りて平原に出る。此所は千畳ヶ原 御花畠トモ 云うて草の花咲きみだれ塵一つ見えず清涼の地 俗天狗の遊ぶ庭と なり。平は一里余 往く程に清水出る泉の所に来りて一口飲めば氷の如き冷水なり。 左へ是より湯滝道と有 此所を古ヶ谷と云ふ。湖水見えて兎嶋(うさぎじま)あり、左右大杉榧松の大木多し。やうやう湯元の吉見屋に着ぬ。当今開けて婦人山駕にて湯治に来るあり 昔は女人禁制なり 。別席の新家に案内されしが、座敷の側なる庭より登る石坂あり、湯泉権現(ゆせんごんげん)を安置す、前に湖の上をながめ、白根山負厨留山(おいずるさん)を遠見し、自在湯 のぼせ引下げ 名湯なる由 中のゆ、滝のゆ、蒸湯、薬師湯、乳婆(うば)のゆ御所の湯、川原ゆ、肌(はだか)の湯等十湯なり。食物は玉子、鶏、鮎、鴨 たまたまとれる 等なり。あんかけどうふに里芋の煮つけ也。総て食物味わるし。明朝出立沼田迄山越の案内者を宿の主人に頼み置き、其夜は酒を少しすごしけり。寝しなに入湯せんと、宿の下婢(げじょ)をたのみ自在湯に往くに、提灯を持ちて下婢先へ立つ、夜に入りては山冷えにて 東京より二十度下る 身にしむ程なり。又戻る道にゆざめして寒け立たり。折々鹿の声す。

   旅籠屋の裏は山なり鹿の声

傳吉も跡より風呂に入って帰り、床に入れど寒し。

   行燈に侘し夜寒の蝿一ツ

 翌(傍点)六日朝霧深くして薄くらけれど、支度は十分になしたり。宿の主人弁当を二包み持りて、案内の者を呼ぶ。 大音にて 磯之丞磯之丞と云ふに、拙子(やつがれ)も傳吉も山道の案内者は強壮の人こそよけれ、磯之丞とはなまめきたる弱々しき人ならんと心配して居る折からに、表の方より入来る男は歳頃四十一二歳にて背は 五尺四五寸 頬髭黒く延び筋骨(すじぼね)太く見上ぐる程の大男、身には木綿縞の袷に、小倉の巾のせまき帯を結び、腰に狐皮の袋 中に鉄砲の火道具入 を提げ、客の荷物を負う連じゃくを細帯にて手軽に付け、鉈作りの刀をさし、手造りのわらんぢを端折高くあらはしたる毛脛甲まで巻つけたる有様は、磯之丞とは思はれぬ人物なり。大に安心致し荷物を渡せば、連尺に結び其上に弁当の包みを附け先に立ったり。宿屋の主人申すに 案内の人には一日一夜の泊りを持ち賃金は一円づつ 磯之丞に案内の賃銭は直々遣はされ、正直の男にて年久う此地に住居(すまい)致すものなり、と聞いて心安く直に宿を出る頃旭さし昇るに、沢道を行くに、水流れ石を渡り小流を飛び越え 八町斗り 往く程に、榧の大樹ある所は熊笹押水じみたる中をなだれ登り、難所とは聞きしが斯まではとは思はざりし。杖を力にやうやう山にかかれば左の方に白根山、負厨留山、金精峠(こんせいとうげ)の沢道を登るに常人(つねのひと)の通ふ道路(みち)にあらず、猟人(かりゅうど)か樵(きこり)の通ふ為に熊笹茨を少しづつ刈とりて路をば開きたる処なり、笹根爪先にかかり幾度となく転倒れたり。それに又熊笹は背を越し行先見えず。案内者を呼止めて云ふ、かかる難所なれば冬枯には狼が出るであらうと問へば 案内者 (いや)狼は出ぬが熊と猪が出やす、一昨年まで此先の清水沢へ巨蟒(うわばみ)が出やしたといふに、傳吉は驚怖れて後に帰らんといふを、 案内者 否火道具 火薬 があるによって心配は御座らぬ。と云ふに少しは気丈夫なれど、さながら気味わるく思へど、何業(なにぎょう)も命がけなりと胸をすゑ、是より 一里余 又登りければ、一ぷくと煙草くゆらせ後の方を見返れば、男体山、大間那子山、小間那子、御花畑 赤沼ヶ原と云 、湖水一目なり。左右の山には梛、檜木、榧、明日檜(あすなろう)の三かかへ五かかへある大樹のみ繁茂して、日中もくらき深山なれば

   鳥でさへ一羽は越えず秋の山

 金精峠は湯平より西北の間にて金精沢と唱へる渓間の徑(こみち)の其嶮隘の路を伝ひ往く事一里余(傍点)をへて峠に至る。金精社あり、 社まで又一里登る 小祠にして祭神は知れざれど、往古何者が納めたるや鍍金の男根をもて神体となせり。中古自然男女交合の形に出来たる古木ありといふ。

   金精もとんだおやまの木うつりに
     折々あれる山の神さん

 是より下る 二里余 道巾少し広くなり五町の間 平地になり、丸木橋あり。下を流るる水に咽をうるほしけるに、清水なれば氷の如くその味よきまま再度飲みぬ、

   まよはねば来る道でなし苔清水

 とよみて笑ひつつ又山に登る 一里余 。傳吉は大よわり、前に申せしには二十里は歩行(ある)くと云ひし故、くたびれしとも云ひかね木の根にどっかと腰うち掛、空腹になりし故弁当を食ひ度きと申すに、案内人背負ひし竹の皮包を下ろさせて、包を開き見るに、赤子の頭程ある握飯に梅干と沢庵の香の物なり、空腹ゆゑ手づかみにて食へど、茶も水もなければ案内者に何れの家になりと頼み、茶なり湯なり貰ひ来給へと申せば、 案内 山には家も寺もあらず、山上には水もなし、是より 二里たらず 下れば谷川あればこれに行きて水を飲みませうと申すに、是非なく乞食の如く素飯(すめし)にて山を下る時、右手の雑木山に夫婦にて薪木を積み居たる山人あり、脱捨てたる腰蓑敷莚(しきむしろ)あり、其側に鉄瓶ある故、むしんを云うてぬるき茶をもらふ。莚の上に腰かけて休み、三人ともに人に出合たれば気強く成りたり。其山人を見るに歳は四十にちかく、もぐさ縞の筒袖を着て、あらき縞の立附袴(たっつけばかま)に鉈造りの山刀をさし、手づくねの藁履(わらぐつ)をはきたり、其女房は木綿細縞の単衣(ひとえもの)に巾狭き帯を前に結び、両裾の端折を高くとり、黒髪を藁にて結ひあげ、わら草履にて真木をからげ、夫の手伝ひを致して居る有様は、かかる山村に住む人々の夫婦の親しみも深くぞ見えける。其人の腰蓑のいかにも清く編みたる故、何をもて製造(つくり)しと問へば山菅なりといふ。又冠りし笠を問へば谷地草(やちぐさ)をさらして編みたるなり。又臑当は山葡萄の皮を晒し置くに、日数にして黒赤き色になり しゅろ縄より強くなる 是を編みて着ると云ふ。また此所に真木切りて積み置くは、馬の背につみて君の家に持ち帰られるやと問へば、山人云ふ、否此山路は人も一人立にてやうやう通ふ所なれば、馬は下り坂にて足を痛め、通ふことならぬば、前なる谷川へ真木をかたく結びて、投込みて置く時は我家の前川に明日の夕がた流れ附くと申すに、我等の村は 是より一里半 はるかに下(しも)にて小川村と申す処なりといふに、其村に温泉場ありやと尋ぬれば、それは小川より 十八町 手前なる山の沢より湧すなり、二軒家なりしが今は只一軒なり、と聞くより、山人に礼をのべ往かんとする時、

   落栗や土地の人さへ知らぬ路

是より谷川に添うて 一里余 下る。道、草の花多し。

   咲過ぎて淋しう見ゆる花野かな

 早くも温泉場に着きぬ。此の家は山村の農民なれど、夏は近村の人々湯治に来る故家を貸すなり。湯浴に来る人は、親子または夫婦連にて、馬の背に麦、味噌等積みて上り、只寝所(しんじょ)を借りて煮焼(にたき)は自分にて致すなり。土間より入れば七八人 宿の夫婦共 地炉(いろり) 一間四方 の大きさあり、其の辺(ほとり)取廻(とりま)きて居れり。太き自在の竹に大やかんを釣り、焚火して各々持参の食物を煮焼する様子なり。先に泊りを申し入れ、洗足(せんそく)の水をもとめたるに、宿の女房申すに、前の川にて洗ひ来るべしと云ふ。其の質朴なる事感じたり。足を洗ひ上に通れば畳を敷かず、根太板の上の所に米俵麦のかますなどあり、莚(ござ)を敷きて是へ居られよと申すにまかせ、たばこ火をもとむるに、破火鉢に焼落(たきおとし)の火を持る。風呂場を問へば前の川原なりと云ふ。往きて見るに川の岸より湯出づる所に大丸太をもて四角(しほう)囲ひに、流の中に造り、杉丸太の柱に垂木の上に板を並べ、其の上に沢石を数十(かずかず)置きたり。中に入れば川中の地砂を掘りて入浴する。浅き故上向(あおむき)にしてやうやう胸のあたりまで湯の付く故余程心よからぬものなり。其の折蛇のたりて温泉に入りて心よげにあたたまり居る。驚き飛上りて

   穴に入る支度か蛇の這廻り

 傳吉はこれを見て、温泉に入らず。直に飯を出して呉れと頼めば、女房は東京者と知りて米の飯を炊き、有の香の物に岩奈の焼きたるを出せど、炉の上に釣り置く藁苞にさしたる故、いぶりくさくして喰ひかねたり。玉子焼を誂へたれどわからぬ様子故、いり玉子と申せどこれも解らぬ故、湯で玉子と申すに早々玉子をとりに出し跡にて、酒をもとむれば、会津より送る酒なりとて出せし故飲みて見るに、其味甘く渋味あり。又奥州より送る石首魚(いしもち)の干物を焼きて出す。此の魚幾十年以前に儲しかその塩からくしてかたき事、真の石もちなり。其の内玉子を手提笊の小さきに入れて使の男帰る故、明朝も味噌汁の中に落してくれと頼めば、小川の村中尋ねたれど玉子は五ツよりなしといふに、実に東京の自由なるを有難くおもふ。使の者はせいせいと息をきって居りしが、わづかの使賃にて 半道余の 此の山路をかけて往きしは気の毒なれば、

   かけさせて鶏の卵を買うたれば
     早くも飛んでかへるひな人

 合宿の夫婦は、男五十歳女房四十五六歳なり。八ヶ年の年月を此村におくれど出生(うまれ)は東京なり。芝居は久しう見ずとの言葉も上州なまりになり、江戸は何処に御住ひなされしと問へば、板橋の清水といひしはをかしく、其の夜は地炉(いろり)の辺(ほとり)にて四方八まの話、拙子(それがし)日記帳に聞く毎に書取りし故、合宿の人々顔と顔見合せたるは、拙子(それがし)を官の探索方と思ひし様子なり。亭主も心の中うすきみ悪く思ひしや叮嚀(ていねい)に取扱ひ、茄子にうづ麩のつゆものに、胡瓜もみの中へ腐れし白魚干(しらすぼし)の馳走にて酔を催し、四布(よの)布団を借りて莚(ござ)の上に着た形(なり)にてふしぬ。

   蟋や崩かかりし壁の中
   山里や隣で打つも遠砧

 翌(傍点)七日霧深くして向うの山さへ見え分かず。案内の男に賃金の外手当して此所より帰し、沼田の町まで 九里 馬を雇ひしが 一疋一円半 それでもよろしくと申せど、小川村まで往かねば居らずと聞くに、是非なく傳吉に荷物を持たせ、 半道余り 山を下りて小川村に出でたり。

   鉈の刃を辷るや竹の露(雫カ)時

 とよみて 小川村の名主 の家に入りて馬を頼めど、秋なれば山に出で、馬なく、是より参歩(さんぽ)して須賀川村より平川に出で千鳥村まで来る。此の道一筋にて左右とも細谷川の流なり。それより逢貝(おっかい)村に来る。左右高山嵯峨として一条(ひとすじ)の谷川山の裾を繞(めぐ)り、此の奥山なる大泉小泉(おおいずみこいずみ)の切割りたる所より出水して、池の中たる岩上に浮島の観音あり。此源水は文殊ヶ嶽より落つる高科川(たかしながわ)と加流して利根川に落す急流なり。丸木橋の先に赤松八九本緑をなし其側に翁の碑あり

   夏来てもただ一つ葉のひとつかな

 此地は深山路なれば水霜早く下りて、谷川をへだて、向山の岩間にちらちら木々の染めたるを見て、

   日のささぬ谷間にも此の紅葉かな

 是従高鳥(たかとり)村の山道を越え、大原村に休みけるに 午後一時 空腹なれば其家にて中食(ちゅうじき)せんと思ひしが、飯を売店ならず。家婆(ばば)が麦飯はあれどさかなはなしといふに、すのこに釣りてありし塩引の鮭を二切もらひ焼喰ふ。塩からくホロホロとして東京なれば一口も咽に通らぬ物なれど、空腹なり、其の味今に覚えぬ程すすみたる故、四杯の飯を喰う事は我ながらをかしく、又後に梨実二ツ喰しゆるゆる休み居たり。其の向うの森は諏訪明神の社なり 祭礼旧の七月廿日 祭礼にて村々の男女の参詣に来る様子は面白くありける。此家は馬の売買の周旋を業とする九兵衛と申す人なり、門口より 歳四十五六の 農民(ひゃくしょう)りて九兵衛の馬を曳出して、馬の頭を撫で口を開きて歯の数を見定め、青爪より背をさすりつつ誉めたり。其の馬の良を問へば、馬は南部か仙台が上馬なり、三歳を過ると出して売る 昔は金五両にて極上等也 、当今は四十より百円もあり 四十年は使ふものなり。荷を積むに米俵は四斗俵(びょう) 十六〆目 を二俵積むが普通なり。女馬は十二ヶ月めに一疋子産むものなり、馬ないら 馬の病気 (おこ)れば嚔のやうにぶうぶう云ふものなり。鉄焼(かねやき) 馬の足に焼がね当る人の灸なり は一ヶ年三度すると馬病治(じ)すと云ふ。馬草(まぐさ)は茅草とて(図略す)此(かく)の如きもの許り茹て食すとの話を聞き居たるに、早 二時半 、時間のおくれたれば其家を出でて数坂峠(かずさかとうげ)にかかる。南は赤城山、北は火打山(ひうちやま)、西は保高山(ほたかさん)、東は荒山(あらやま)なり。実に山また山の数坂道にして小山には畑を開き粟、稗、黍、大豆、小豆、蕎麦なり。そばの花所々に見ゆる其の風景尤よし。

   彼処へはどうして蒔いて蕎麦の花

  半道余 山を下りて生井(なまい)村に休み、高平(たかひら)村に来村戸数二三十戸 。是より平地にて花の原の歩行(あゆみ)に足も進みしが 半道 往けば原中の右の方に赤松の大樹あり。 古昔戦争の時は此松に登りて物見たると云ふ 物見松とも馬つなぎ松とも 塩原多助が馬つなぎし 伝ふ。横塚村 此所は家□軒あり 小休みせし時は、早日は西にかたむきたれば心せき立出でて、関根村に小休して 一里十八丁 道を急ぎ、沼田駅の大竹屋に着たる時は夜に入りたれど、宿(しゅく)の手当好く、早く風呂に行き板間の流に踏込まんとする時、辷りて上向(あおむけ)様に倒れたり。驚きよくよく見るに流しの板間はぬるぬる苔むしたり。気味わるく早々に風呂場を出て、座敷に通り、まづ衣類を着替へて

   青苔に辷る沼田の旅籠屋で
     扨甚きめにあふ竹やなり

と笑ひつつ茶代を宿に遣はし、主人を呼びて、当宿に塩原多助の本家は何方にありやと尋ねたれば、宿の女房暫く首をひねりて、聞いた事はなけれど、原町と申す所に塩原て云ふ油屋あり、其の者を尋ね呼寄せますが、今晩は間に合ひませぬ故明日御滞留(おとどまり)はいかがと申して下り往く。茶代の礼として菓子と松茸を贈りければ、其茸をさかなに酒を一本付けよと云ひて

   松茸やあとの肴は宿まかせ

 其のうち膳を運ぶ。鮎うづふなど数々出る。食事も果てて床に入る。虫の音を聞きてよめる、

   蟋や曳込んである豆の中
   付きまとふ枕の元や茶立蟲

 翌(傍点)八日朝飯(あさはん)果て市中を見物に往かんとする折から、宿の女房原町の塩原金右衛門来られしとて、案内にて連る人を見るに、 歳頃六十二人品賤しからざる男なり。羽織の裾をかい遣りて座につき、何処(いずこ)の御人なるやと叮嚀(ていねい)に挨拶されて、拙子(それがし)少し困れど答て私は東京長谷川 五代目塩原多助の女房の家 梅廼家の親類の者なり、少し御尋ね申度き事ありと、先づ日記の手帳を膝の元に置き、初代多助の出生(しゅっしょう)の所跡(あと)は依然として在りやなど様々深く問ひけるに、其の老人は不審(いぶかしげ)に思ひしか恐る恐る申様に、初代塩原の家は当処より北の方へ 三里余 隔たりし下新田村と申すなり、と細々と物語り、私初代の甥にあたる金右衛門と申者にて、下新田を出でて当今は当駅原町にて油屋を業として居ると聞き、略々(あらあら)事情も解りしが猶委細聞かまほしく思へど、其の老人は用事ありと云ひて急ぎ帰りし故是非なく、支度をなして 午前十時 人力車に乗り、沼田を出立して岩本村の 新道を左りに 新橋 橋銭八十文 渡り棚下村より佃村にて中食(ちゅうじき)村より白井まで一里 是より猫(ねこ)村、宮田村まで 一里 (たる)村、鉢崎(はっさき)村にて小休み、此時にしら雨降出して雷鳴音凄じく此駅は 戸数は少なけれど 升屋と申休み茶屋は宿も致す 手広の家なり。其のうち雨はれ雷も止みたる故、真壁より箱田(はこだ)村に来て休み、此処より榛名山、男子(おのこ)、子持(こもち)の両山を見、利根川の急流を前に、風景よろしければ、煙草くゆらせて、

   はつ秋の光り持ちけり山の雲
   家ちらりほらり花野のはいり口

 是より荒巻村、上小出村より岩上(いわがみ)村にて休みぬ。川岸の方見上れば岩の上に小祠を安置し、小松蔦かつら大岩に纏ひ面白き所なり。其下に掛茶屋ありて五丁 手前は大松十七八本茂り、根府川石にて正観音と彫たる塚あり。利根の枝川にて裏の方を流る。水勢早し。 前橋県庁の御用水なりと云ふ 右手の川辺りに秋草茂りて虫のしきりと啼きければ、又一ぷくして、

   わけて聞くむしあり虫のすだく中

 左りの方田畑にて螽の飛つくに驚き、又蜻蛉を見て、

   振って行く袂にすがるいなごかな
   一がひに何処から出たり赤蜻蛉

 向町(むこうまち) 前橋入口 当りて左りに往く 群馬県名和郡 前橋駅とあり。其の夜は駅の勝手知らねば白井屋に着きけるに、旅商人(あきんど)の宿にて泊客多人数なり、やうやうふしぬ。
 九日 六さいの市日なり 本町(ほんちょう)の北裏なる紺屋町(こんやちょう)の藤本 うなぎ料理 に尋ね往きて妹おはやに面会す。妹は涙を落して暫く言葉も出かねたる有様に、拙子(それがし)も共に胸ふさがりて居たる折りから、藤本の夫婦ならびにおふで 柳ばしの芸者 出て饗応され、東京より着きたる式鯛と云ふ上酒なり。是家の抱への子供七八名にて取し故酔うてふしぬ。暫にして気分悪くなりて脳なやみ吐気なれば早く銅盥(かなだらい)を持てと云ふに、妹驚き盥を持ち来るも間に合ぬ程、婦女子多人数在るとはいひ乍ら小間物見世を出したり。これは残暑の時の旅といひ、是迄山路にて悪酒計りのみてなれたる折、急に下りの上酒を飲みし故、酒にあたりしならん。平常(つね)麁食の人たまたま滋養の物を食せば、身体(からだ)の害となる事ありと聞きたり。

   市日とて小間物見世をはき出せば
     内の掃除もとどくさいはひ

 十日暁より支度ととのひ妹其他の人々に別を告げ立る折、妹は袖を顔にあてて暇乞ひも云かねる様子に

   朝露に袖をふるふや別れ路

 是より駒形まで 二里 道を走らせ車夫(くるまや)も汗しぼりて伊勢崎(いせさき)の棒ばな迄来りて小休 駒形より銭屋の通りまで二里なり 合計是迄四里 少し早けれど大橋方にて中食(ちゅうじき)をして、又人力車にて保泉(ほずみ)与久(よく) 板橋を渡りて 雉子間(きじま)、百々(どうどう)村より堺町の駅に入りて藤屋と云ふ泊宿に休む。 是迄伊勢崎より二里余 秋葉の神社あり。社殿雲龍の彫刻(ほりもの)は精巧なり。此処より 日光、木崎、太田伊勢崎、前橋 別道の石杭あり。駅の出はづれに芭蕉翁の碑あり。

   時鳥まねくや麦のむら尾花

 是より女塚(おんなづか) 新田郡 三ツ木村より小角田(こつのだ)村はなれ高尾村、中江田村 江田判官の領地 木崎(きざき)駅にて休み、 高尾より八町 此所旧幕の頃は旗本領なり 水野甚兵衛殿領分 貸座敷は今にあり 中林、斎藤や金川等宿上等は宿の中程なり 高砂屋、よし田や、 天台宗 東光山医王寺 駅の入口 薬師堂あり、 鎮守は祭日九月廿九日 木崎大明神 大黒天なり 。板橋を渡り、人力車にて 三十町 れば太田駅なり、はせを屋翁助方に泊まりぬ。直側に大門あり。呑龍上人の堂に参詣す、義重山大光院新田寺 呑龍上人開山なり 八町程金山の方に入る。赤松山見ゆる。鐘楼(しゅろう)堂あり。中門の傍に臥龍松は 右の方也 。新田義貞の御霊殿は山の中央にあり 此処の唄の文句

   私は太田の金山でほかに木はない松ばかり

 戻りて先風呂に入り、夕飯出る。其の夜は静なればはやくふしぬ。此家は内井戸にて車井の音あらく早くさめたり。

   古井戸に釣瓶飛込む水音に
     客のおきなも早いばせを屋
   松茸の籠を覗くや旅の人

 十一日早朝より出で、駅の出はづれより左に入る。空曇りて風涼し。道を踏みちがひ 十町余 足を労したり。やうやう東金井村より植木野村、大町村に休 太田より一里半 借宿(かりやど)村より市場村 左桐生 右足利 別道あり。堤に登り渡良瀬川を渡り足利(あしかが)町に入り 栄町五十一番 原田与左衛門方へ尋往けば、老人夫婦悦び饗応(もてな)して駅見物の案内す。 多宝山 法恩寺前の坂を登れば 前名二重坂 桐生に通ふ道 切通新道に出る。石の地蔵塚あり、其側の石杭に 右大岩毘沙門へ廿八町廿四間 左桐生へ四里 大間々へ六里 七町目の観音坂へ登る  町余 観世音と彫たる額は 安永二閏三月 古額なり。駅中渡良瀬川一目に見下す。それより 浄土宗 法源寺境内に入る。石の燈籠あり 周防之産足利の住佐々木古志祐庵□延四年九月□日数石三十二間二尺 掉石に彫たり。其側を雪輪小路と云ふ。旧陣屋前なり。大日堂は 惣鎮守なり 祭日は九月廿八日 市中の実地を見物して帰りて風呂に入り、飯すみて蚊帳に入りてふしける。

   新蚊帳も匂ひのぬけし別れかな

 十二日早朝老夫婦始め原田氏に暇を告げて立しが、原田氏川舟の案内せんと 一里余 猿田(さるた)川岸まで送る。早川といふ出舟宿に来れば、只今出舟なりといふに、堤伝ひに 十町 往けば舟を見たり。呼止めて乗りたれば原田氏安心して別れ、川口と云ふ所にて、高瀬ともいふ大舟に乗出舟となり、木の間がくれに原田氏の見送るを、

   高根まで目の行く秋の名残かな
   水明りして秋の立つ木の間かな

 此舟は栗橋に着、また堺川岸より関宿に泊り舟となる。蚊多く出る。舟の艫の方に積上げたる莚(こも)包みの荷の上に登りてふしたれど、釜の下を焼く煙りには困り乍眠りぬ。
 十三日流山(ながれやま)、野田、やうやう東京深川扇ばしに着く。扇橋の茶見世にて休み、是より人力車を雇ひ宅に帰りぬ。家内中旅中無恙を悦び、祝の酒宴をなしたりけり。

   風すれもなくて目出度葡萄かな  母
   雨風に打たれて稲の実のりかな  拙子

      ○

 かかる困難の旅寝をなせしは、此年七月 幾日なるや日はわすれたり 初の頃、浅草石切川岸(いしきりがし)の画工柴田是真(しばたぜしん)翁の宅を音づれければ、翁悦びて五合の酒に松の鮓などとりよせて饗応(もてな)されたる時に、翁の物語りに、昔寛政文化の頃盛んなりし、本所相生町に住みし塩原多助といへる炭問屋あり、其家の事柄、多助氏の艱難困苦を忍び一代に豪商となりし経済の注意と貯蓄法も、他と異るのみならず、忠孝の道正しく其の行ひ感服のあまりなれば、是話(これ)を著作して和(やわ)らかに演述(えんじ)なば、尠(いささか)聴衆の為にもならんと、心の中に其の道筋の組立を発(おこ)し、翁の家を出でて直ぐに本所相生町に往き、種々(いろいろ)手づるをもとめ聞しらべたるに、いかにも年限過ぎたれば委細(くわしき)をしらべかねたり。時に六十余歳の老人来りて申すに、塩原の寺は浅草八間寺町(はちけんじまち)の禅宗にて東陽寺なりと聞くより、好(よ)き手がかりなりと思ひて、早夕景なれば帰宅致し、明朝東陽寺に往きて香花(こうげ)をもとめ、寺男に案内を頼み、墓所(はかしょ)に来り、先づ香花を手向け、石塔の法名を見るに、四方の三面に十五名彫付けたり。なれど何れなるが多助の法名なるや不分(わからず)、ふと石塔の後ろに新しき塔婆立てあるを見る 徹外義秀居士六月廿七日施主梅廼家(うめのや)とあり。それより玄関に至れば、庫裏の方に立てたる襖には白地に紺上にて□*2(くつわ)の紋ぢらしなり。住僧に面会して、我は塩原家の縁類の者にて御回向を願ふと心ざしを包みて差せば、只今読経(どくきょう)致すといふに、就(つい)ては法名の分らぬなり過去帳を拝見致し度と云ふに、和尚帳を持せば、我手帳に法名を写とりし折に、長谷川町梅廼家の団扇を見るに、塔婆に梅廼家の施主名あり、又此団扇も梅廼家とあり。梅廼家は塩原に縁ありやと尋問へば、されば長谷川町の梅廼家の母は五代目多助の妻なり。此家にて跡かた追善供養を致して居る事、又五代目塩原秀之助(ひでのすけ)殿は明年が七回忌なれど取越して先月法事をいとなみし事を聞くに、心中にて悦びしは梅廼家は我社会の寄合茶屋なれば事情を尋ぬるに心易しと、直に寺を出て、急ぎ浜町の花屋敷の相鉄(あいてつ)に来りて梅廼家の母を呼びに遣はし、昼飯を誂へ待程に、早くも梅廼家入りて、何用なるかと不思議相(そう)に申すに右の事柄を委細(こまか)に申せば、私は嫁の身なれば深くは覚えず、夫 五代目 の話に、先祖は上州沼田より出し人にて山口屋に奉公せし事、計炭を売弘めし事の物語は是真翁の話に違(たが)はざれば、事実なるを知りて心の中に悦び、昼飯を済せ、母と共に梅廼家に往き、仏間の過去帳を見るに俗名あり、多助実父塩原角右衛門養父塩原角右衛門とあるは不審なりと問へど、母にも委細を知らず、初代多助の木像と、黒羽二重に轡の紋の羽織を出して、是は先祖に着せんと二代目が仕立てたれど、初代は一度も袖を通さずとて今に残りあるなり、書物も種々(いろいろ)ありしが先年の出火に焼失したりとの物語を、聞くなり、過去帳を写し、俗名と年月日を合せ略(ほぼ)とりしらべて帰宅の上、急に多助の出生せし上州沼田へ往き、実際を聞調は其地の人情風俗と実景を見尋(けんじん)せばやと思ひたち、支度整ひければ、八月廿九日出立して、遠からぬ上州野州の旅枕も十四日間中にあらあら実調の上、東京に帰りし後、塩原多助一代記と外題(えんだい)して十五巻 席上で十五日続 の物となる。其(もと)は柴田より栽培(うえつけ)たる尠(すこ)しの種より、培養の実際を梅廼家の母よりうけ、自分は好きから作男、菅笠に雨除(あめしのぎ)の莞莚(ござ)を着て脚半鞋に足を痛め、寝食を忘るるまでの丹誠ありし其の甲斐こそ有りて、一作の実入も他に優り、今学校にて小学読本の中に書入れ、生徒に是を教授するまでの種となり、猶劇場にては寺嶋(てらじま)の菊の畠に植付け、農夫商家の導となれり。是全く多助が忠孝義心の道にかなひ、その道徳なる善良(よき)種蒔をなせしも、今世に至り一粒万倍となりて生ぜしなるべし。

                     三遊亭圓朝記

   風にふし雨にうたれて稲の出来
   斯うなるも蔓の力や種瓢



(注記)
 底本は,鈴木行三 校訂編纂,『圓朝全集』 第十二巻,春陽堂(1927)
 原文は旧漢字,旧仮名遣い,総ルビつき

=原文からの変更点=
 ・旧漢字を新漢字に変更した.
 ・2段組の割注は,小文字1段組に改めた.
 ・踊り字については,"々"を除き,書き下した.
 ・ルビは括弧内に記した.大部分のルビは省略した.
 ・一部の送りがなをルビから追い出し,書き下した.また,一部の読点を補った.これらの変更点については,文字色を灰色としている.
 ・以下の2つの記号は表記できなかった.
  □*1:山型の下に縦線三本
  □*2:○の中に+の轡紋