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信州信濃の新芽摘み  行程・地図
 前回の更新から3年以上も経ってしまった.
 引きつづき,明治期の人情噺や新しく出版された落語速記にでてきた長野県の落語地名を補ってゆきたい.言ってみれば,落ち穂拾いならぬ,信州信濃の新芽摘みだ.
 この旅にでた2020年は,新型コロナウイルス禍のただ中で,外出しづらい雰囲気をひしひしと感じていた.GOTOトラベルはすでに始まっていたものの,自分も人混みにでるのは気が重かった.落語地名探訪は,不要不急の旅の最たるものだ.とはいえ,人に会うことが少ないのが取り柄だと言い聞かせて,出発することにした.
 今日は,沓掛宿から芦田宿までの中山道を順にたどるシンプルなルートになる.ちょうど,写真にうつっている3地点,塩名田宿,八幡宿,笠取峠がメインのポイントになる.


一気にルート表示
 軽井沢に向かう始発の新幹線は,まだまだ空いていた.2020年5月頃の空気輸送状態よりは,ずいぶんと乗客が増えてはいるようだが,この列車の乗車率は1割ほどだった.これから向かおうとする西の山には,いつ降り出してもおかしくないような黒雲が垂れこめている.
 軽井沢での乗り換え時間は8分しかなく,しかもきっぷを買わねばならない.新幹線の改札口から,急いでしなの鉄道の券売機に向かう.しかし,自分とせり合って競走してくれる人は誰もいない.あわてて乗りこんだ3両編成の車内には先客が一人いるだけで,結局,新幹線から乗り換えた人はいなかった.
 軽井沢の隣駅の中軽井沢で降りたのは,私一人.沓掛は中軽井沢という名前になっている.談洲楼燕枝の「西海屋騒動」に沓掛の地名が出てきたため,こうして再び沓掛の名を探しにやってくることになった.
 軽井沢にあやかろうと改称した効果はなく,中軽井沢駅前はがらんとしている.改称から60年以上たった今でも,こうやってイヤミを言われ続けている.駅前におみやげの沓掛堂,長倉八幡の裏手には長谷川伸の沓掛時次郎の碑,八幡入口に沓掛宿の新しい石柱が見つかった.脇本陣の桝屋は,最近まで旅館をやっていたという.しかし,今日来てみれば,脇本陣をしめす木札が玄関脇に掛けられてはいるものの,もう営業していない雰囲気だった.庭木に巻かれたピンクのテープが,この建物の行く末を暗示していた.
 30分の列車間合いを使って,沓掛の実踏を終えた.駅に戻ると,くつかけテラスという交流施設が目についた.あえてひらがな表記にするあたり,今度はいまどきの流行におもねている感じがする.ガランとしたホールをながめていると,これからホールの運営につくらしい人たちが2階から降りて来て,何か用ですかと誰何してきた.


最後の宿屋も廃業
 新しく出てきた落語地名,追分宿の油屋は,追分駅から2キロほど離れている.電車間合いの40分で戻ってくるには,片道を自動車移動するしかない.計画を立てるにあたって,ここが難しかった.うまいことにコミュニティバスの路線が見つかった.ただし,乗り換え時間はわずか4分しかなく,好接続というより,むしろ乗り逃がしの方が心配だ.今日の行程の成否は、この乗り継ぎにかかっている.
 電車のドアに張りついて外を注視していると,駅に入る手前,改札口とは反対側のロータリーにマイクロバスが1台停まっているのが見えた.変だなと思いつつ跨線橋に走る.すると,バス利用者はホームの反対へ行くように掲示がある.この掲示が自分の乗るバスのことだと信じるか,改札口に行くべきか,一瞬迷った.掲示に賭けて,跨線橋から元のホームを逆に戻った.
 ホームの端にはスロープが切ってあって,改札も通らずに外に出られるようになっている.停まっていたバスの運転手に,追分へ行くか尋ねると,ここが追分だと返された.あわてて,8時25分発のバスですねと聞くと,そうだと答える.今度は,改札口の方にもバス停があるのか尋ねると,バス停はここだけだ,外に時刻表があるからそれを見るようにと言われた.
 発車時間が迫っている.やむを得ずバスを降りた.反対側の改札口に行けるはずもない.
 これで行程が崩れたとうなだれていると,別のマイクロバスがやってきた.聞けば,このバスは確かに追分に行くという.前方の運転手も,心配げにこっちにやってきてくれた.毎日同時刻に,ここで鉢合わせしているのに,なぜ教えてくれないのだろう.
 帰ってから調べて,ようやくわかった.どちらも軽井沢町のコミュニティバスだが,かたや千曲バス,かたや草軽交通に運行を委託している.そのため,両者は不干渉なのだった.片方の会社のHPには,自社の路線しか書いていない.あー,これでは,旅行者には使えない.
 いつもは無人で出発するバスは,私一人を乗せて追分公民館に着いた.運賃を尋ねると,整理券はと返された.あわてていて全く気づかなかった.ここを訪れる観光客はもっぱら駅から乗るはずだが,運転手さんは駅からの運賃はそらんじていなかった.観光客の利用など,とうから想定していない路線だった.


廃業した油屋は再生
 予定どおり油屋を見た帰りは,徒歩で駅へ戻る.途中でバスルートをはずれ,林間の別荘地をつらぬく一直線の道を,気分よく駅に向けて歩いた.線路手前を左に曲がれば,すぐにも駅舎があるように地図には描かれている.しかし,道は畑を行くだけで,まったく駅がありそうな気配がない.最後はアップダウンのある道を必死に走った.きっぷは買えず,乗車証明書を握りしめ,ようやく予定の電車の最前部に飛び乗った.
 無札のままやって来た岩村田は,2003年以来の再訪になる.芸はないが,バスの待ち時間で,前回と同じく,武田信玄の廟所を回ってこよう.ところが風景に全く見覚えがない.学生さんたちが行く方向についていったら,彼らの通う高校に出てしまった.歩きだしから方向を間違えたらしい.官公庁や学生向けアパートなど,およそ城下町にふさわしくない町なみを抜けて,ようやく曹洞宗龍雲寺にたどり着いた.大田山の額があがる山門には,武田菱が描かれている.自らの死を3年間秘すように言い残した武田信玄なので,甲州周辺には信玄の墓所がいくつもある.ここでは,発掘によって遺骨が掘り出されたという.
 岩村田駅前から乗った年季の入ったバスには,私を含めて3人の客が座っている.2人は早くも新幹線の佐久平駅で降りてしまい,あとは運転手とふたりきり.荷重のかかっていないバスは,新幹線の高架を左に見ながら,西へ向けて快走した.


龍雲寺山門
 ポツリポツリと雨粒がバスのフロントガラスを叩きはじめた.天気予報では午後から雨のはずだったのだが…….間もなく,はげしく動くワイパーも効きめがないような土砂降りになってしまった.
 さいわい,塩名田バス停には待合所があった.傘をさすひまもなく,数メートルの距離の待合所に駆けこんだ.かび臭い建屋だ.まだ10時半だが,岩村田で買っておいた握り飯を食べて雨宿りをする.地域おこしのポスターをぼんやりと眺めているうちに,雨はまばらな大粒になってきた.
 塩名田の見どころは,明治時代に千曲川に架けられた舟橋の名残り,舟つなぎ石だ.あいにくと石は川の中にある.ぬらぬらする川石の上を一歩ずつ探りながら,先っぽに穴の開いた勾玉のような形をした巨石に近づいた.この穴に綱をかけ,舟を固定するアンカーとしたという.舟橋だった期間は短く,明治25年には永久橋が架橋されている.雨が弱まったからか,ポケットのたくさん付いたベストを着こんだ釣り客が2人,また釣りに向かうらしく,川に出てきた.
 傘をたたみ,高く架けられた中津橋を渡る.雨上がりの道は,とたんにムッと蒸してくる.「三人旅」を聴きながら,2キロ離れた八幡宿をめざした.


舟つなぎ石と中津橋
 八幡宿の入口には,その名の由来となった八幡社が鎮座している.以前,ここを訪れた時には,巨大な楼門に圧倒された記憶がある.天保年間に建立された随神門は健在で,今も狭い参道をふさぐように,いっぱいに建っていた.見上げれば,"止戈為武"の扁額が上層に掲げられている.戈を止めることこそが,武(の文字)になるとの意味だ.門をくぐった参道奥の高良社は,八幡神社の旧本殿で,延徳3(1491)年の建立になる.小ぶりながら,重文に指定されている.高良社の祭神は武内宿祢で,八幡社の祭神である神功皇后の家臣にあたる.
 前回の訪問では,ここでバスを降り,再びバスで望月宿に向かった.その時は40分ほどの間合いで,次のバスが来たが,今日のダイヤでは3時間に1本へと減便されている.とてもあと2時間も待っていられない.八幡のバス待合所の壁は,ペンキで書かれた広告で埋めつくされていた.パーマネントウェーブの文字が時代を感じさせる.バスの本数は減ったが,この広告は当時と変わっていないだろう.


八幡神社前バス待合所
 八幡宿から先も,ひたすら旧道を歩く.
 ここまで,中部北陸自然歩道の丁寧な案内にしたがって,旧道をたどってきた.ついに案内標は舗装道を離れ,山道の方をさし示している.一歩踏み込めば,たちまち下草の露で靴が,そしてズボンが濡れてくる.とうとう,行く手がヤブになってしまった.ちょっと整備の手をゆるめると,人の通らない道は,たちまち夏草が覆ってしまうのだ.
 雨上がりのヤブはつらい.先ほどたたんだ折りたたみ傘を再び伸ばした.傘で露を払い,枝を押さえつけながら,そろそろと進む.さいわいなことに100mも歩かないうちに,舗装路にでられた.
 この先,中山道をたどりたければ,国道を渡って瓜生坂の方へ行けと指示している.私は瓜生坂の下を掘り抜いたトンネルを選んで,ショートカットすることにした.
 

中山道はヤブの中
 望月トンネルの長さは300mほどしかない.しかし,照明は薄暗く,歩道は設けられていない.親切にも,「歩行者・自転車の方はタスキをかけましょう」と,鉄の箱が用意されている.箱にフタはなく,肝心のタスキは見当たらない.
 車のライトに自分が照らされるよう,車道の右側を歩く.車が来るたびに,傘を振り回して人が歩いていることをアピールする.今日は,傘が大活躍する.ご丁寧なことに,2台つながって補助灯しかつけていない車もやってきた.肝を冷やしながらトンネルを抜け,ふり返ると,そちら側の箱にもタスキはかかっていなかった.
 トンネルを過ぎると,間もなく瓜生坂を越えてきた旧街道が右手に現れる.ここで合流すれば,望月宿の奇祭,榊祭りで,川の中に松明を投げこむ望月橋に出るはずだが,そのままバス道路を下って行く.17年前に鹿曲川のポイントとして訪れた弁天窟を再訪したかったからだ.
 あの時は,冬枯れの雪曇りの日だった.こんな所に長居したら二度と里に戻れないような気がした.残暑きびしい今日来てみれば,鹿曲川の流れは豊かで,あの時のわびしい印象とはだいぶ違っている.もっとも,今回はさらに奥まで行く覚悟で来ているからでもあるが.


タスキはどこ?
 時間がまだ余っているので,望月の歴史民俗資料館を見学する.お定まりの発掘土器や民具,和宮関係の史料などをながめる.さきほど,前から知っていたかのように書いたけれども,火祭りの榊祭りについては,ここではじめて知った.時間をつぶすために,結局展示を2度見てしてしまった.資料館の入口では,コロナ対策として電話番号まで書かされたが,終始客は私だけだった.
 望月バスターミナルは,だたっ広い土間になっていた.以前は,券売所か何かの設備があったような造りだが,すべて撤去されてしまっている.さまざまなバス路線が描かれた路線図が掲示されている.しかし,時刻表とは呼応しない.多くの路線は廃線になってしまったようだ.
 自分が待っているバスも本当に来るのかといぶかっていると,数分遅れでバスがやってきた.先客は,日曜日なのに数学の参考書を開いた女子高生が1人.終点の芦田宿,立科町役場までの5キロあまりを,15分ほど同道した.家から家族が迎えに来るのだろう.彼女は,バスを降りても待合室にとどまったままだった.
 最後のポイントは笠取峠になる.圓朝の手記に書かれた地名で,作品中には出てこないため,これまで訪問したことがなかった.峠までは,往復6キロほどなので,本気になれば2時間のバス間合いで行ってこられる.しかし,峠の頂部は切り通しになっているだけだとわかっているし,自粛生活でなまった体はもう歩きたくないと訴えている.そこで,中山道のうちで一番保存のよいといわれる笠取峠の松並木を訪れることにする.
 歩きはじめて1キロあまり,傾斜が急になると,遊歩道の両側がアカマツの並木になった.ふり返ると,浅間山が正面に見えた.大正時代には300本ほどの老松が残っていたというが,次第に衰退し,現在は100本ほど.若木が植え継がれ,すでに古木と見まがうほどに育っているようだった.


笠取峠の松並木
 これで今日の目的はすべて果たすことができた.
 帰りのバスを待つ間に,まだ落語に出てきていない芦田宿を予習しておこう.現役の旅籠や老舗の味噌屋も残る味わい深い町なみではあるのだが,芦田が未来の落語に登場しても,もう一度来なくてよいように.
 思い返せば,今日これまで話をしたのは,親切なような横柄なような"くつかけ"の管理人,観光客慣れしていない追分のコミュニティバスの2人の運転手,岩村田で他社の運賃精算した小海線の駅員さん,レジ袋が要るか聞いてきた岩村田のコンビニ店員,コロナ警戒中の資料館の女性の6人だった.一人の観光客にも出会うことがなかった.山あいの宿場に,政府肝いりの観光振興策の恩恵は及んでいなかった.


芦田宿は出るのか
2020年9月

初 日     紀行
6:34 上野 7:34 軽井沢 はくたか551  
7:42 軽井沢 7:46 中軽井沢 しなの鉄道
沓掛宿
8:17 中軽井沢 8:21 信濃追分 しなの鉄道
8:25 信濃追分駅 8:34 追分公民館 軽井沢町コミュニテイバス
追分宿
9:01 信濃追分 9:15 小諸 しなの鉄道
9:20 小諸 9:37 岩村田 小海線
岩村田宿
10:12 岩村田駅前 10:31 塩名田 千曲バス
塩名田宿・八幡宿・望月宿
13:45 望月バスセンター 13:59 立科町役場 千曲バス
笠取峠・芦田宿
15:54 立科町役場 16:33 佐久平駅 千曲バス
16:46 佐久平 18:06 上野 あさま626
 
 

掲載 230501

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