「上州沼田 下新田日記」:演藝世界,2328 (1903) を一部表記変更



上州沼田 下新田日記
              三遊亭圓朝

 この一篇は先頃所載の『沼田の道の記』の後日とも見るべきものにて同く塩原多助の事について実地探検の為圓朝が弟子を随へ多助の出生地へ赴きし時の日記なり(記者)

_明治廿六年九月十八日午前九時の発車にて、上野の停車場(ステーション)より圓花(えんか)と倶に下等室に乗り込みしが、前橋高崎往きはツト先の室なり乗客は平常(いつも)と異りてバレ下かかりの話しなり言葉の訛りにては武州浦和近在の人々ならんとおもふに違はず、此五人は赤羽より上陸したり(十分余待これより大宮に来りし頃は(十時十分)空晴れてあたたかなり餡パンに鮓を売る者多く宇都宮奥州乗り替へあたりは一昨日の雨さえ少し降りてうるほひなしうち熊谷に着く頃は(十一時十五分)少し空腹に成りし故持参のパンと半熟の玉子二ツづつ食う早くも高崎に着き長野信州直江津は乗の声耳にひびく人々あはてて下るもありまたかけ上るもあり間(十五分)待つやうやう前橋に着き(十二時三十分)上陸して馬車会社まで人力車(くるま)にて走らせしが、発車は(二時過迄)遅れると聞きて向ふの和泉屋原三代吉(はらみよきち)といふ饂飩屋に休みて馬車の出を待たり家は鮓水菓子もあり梨をむきて食う時、圓花は亭主に此梨は何処で出来るやと尋ねしに、ハイ此梨(これ)は大島村(おおしまむら)とまたはいばら木村より卸しに来ますと云ふ吾は沼田道の事を問えば亭主いふ旧は岩上村より鉢崎(はっさき)まで、(三里)又白井(しろい)駅に出るまで一里なり昔は十八阪峠(じゅうはちさかとうげ)ありて至極難所なり小川原(おがわはら)村より登りて峠の重畳(ちょうじょう)に休み茶や在るのみそれより岩本村に出て戸鹿の橋(とがのはし)を渡りて(三十丁)往けば沼田の入口に出るといふまた鉢崎に茶釜を惣銅壺(そうどうこ)に掛たる茶屋は無かりしやと尋ねたれば、それは丸本屋とて坂の登り口にあり旅籠やは(左)に塩野や、(右)は中島やあれど、今は新道が開(でき)てより二十年以前に開業(でき)し升や一軒と成り、鉢崎は甚々敷(はなはだしく)衰微せしとの話しうち(二時)と成れば馬車に乗込み発したり小出(こいで)村不止(たてず)田口村に止(たて)それより箱田村にて馬を次るなり掛店(かけちゃ)の鳳仙花を見て

   蒔きもせぬ庭一はいや鳳仙花

_是より戸根川を渡り中村に馬止(たて)掛茶店(かけちゃや)に腰かけし人の印半天の背中に、熊手にもあらず汐かきにもあらずおかしき形ちの物を染出したるを着てゐるは、何者とおもふ折此方を向くを見れば、半天の襟に伯州稲こきと白抜に染たり稲こきを売る人にて伯州が宜敷きといふ事はじめて知りぬ早くも渋川駅に着し故下車して福田やに小休みする時(四時)少し前なりそれより両人(ふたり)して荷物を提げ参歩(あるき)山田屋喜平治方に入泊る事に成りたり家は座敷も新らしく唐紙戸は旅画師の花鳥山水なり床の間象山(ぞうさん)の書とある一幅を掛たり庭のやうすをながめ居たる折下碑(おんな)浴衣を持ち来たりて、御風呂が出来ましたとの知らせに、浴衣と成りて風呂に入れば一間四方にてせまく早々あがり圓花を遣るあとへ下碑菓子折と書面一通を添えて御隣の御客様とて出したれば、其書面を開き見れば文に

  例之通り御作(おんさく)ものにて沼田辺へ御探求と被存候
  旅情□□(記者いふ、爰の二字難判)懐かしき物なる故に
    隣こしで業わひ探る夜長哉
  出淵圓朝さま  むら井貞吉
  
とありとりあへず其菓子折にのせたる紙に

  隣席におはせしとはおもひかけなくうれしさのまま
    合宿に此親しみや秋の旅

して送りぬうち夕飯の膳持ち来汁豆腐椀鯉こく皿鮎の塩焼なり煮豆を入れたる猪口の上に香の物茄子、酒一合圓花と両人(ふたり)にて飲み晏食(やしょく)を済せしが、火入の火消へたれは火のきえぬやうにして持て来よと申せしがやがて、火入の中に太きうづまきの線香に火をうつして持ち出したり疎忽の人は蚯蚓と見違ひさうなり可笑

   □*1のとぎれを繋くや啼く蚯蚓

と跡は笑ひのみこころよくふしぬ

_翌十九日空晴て風冷やかなり朝茶を飲みて

   初秋の光り持ちけり山の雲

_朝飯は汁実なし椀茗荷の玉子とぢ皿生鶏卵二ツなり地の市日は二七日なり鎮守須賀神社にて毎年九月一日二日祭礼にて旅俳優(やくしゃ)劇場(しばいごや)たつといふだし十本を引き出すと自まんらしく下婢(おんな)の話し人力車を雇ひ北の方へ登る左右桑畑を往く路わるし中郷村(なかさとむら)家まばらにて淋しき所(ち)なり又登りて上白井の倉沢山にかかりて、堀建の出茶屋あり車夫は清水を飲み休む是より下る道なりやうやう棚下村まで来たり戸根川の分流に新橋を架て橋銭をとるまた車を走らせて綾戸橋を渡りて出茶屋(おかめや)に休む綾戸橋は明治廿五年五月渡り初めありしと云ふ西の方は子持山の山脉(さんみゃく)にして旧道も所々(しょしょ)にトンネルありて岩山に掛橋数箇所見ゆる見下す流は戸根の川上にして岩本村字綾戸と云ふ此所より岩本までいそぎ戸鹿野橋を渡るに川は北瀬田郡糸の瀬村の川つづきにて、日光の片品川より流れ又一筋は越後川赤岩川と加流して戸根川に落るなり是より十丁余高き坂を登る路は新開なれば幅広く、赤松の大樹所々に在て四方に山々を見て風景よし地は沼田分にして上の町(かみのまち)にいでるが本道なれど路遠しとて、上の町の間を通る所を馬喰町(ばくろまち)と申すなりやうやうと十二時に沼田市(いち)仲丁(なかちょう)の大竹屋と云ふ旅籠屋に着たりに昼飯(ひるはん)を誂へ衣類を着替へて座につきしは、三階なれど残暑厳敷(きびしく)して堪かたければ左右の障子を開放(あけはな)して見下しければ、南は赤城山西に子持山北の方に清水越の新道を見て東は保高山なりうちに膳をはこぶ四角なこん炉に鶏とねぎを入たる鍋を持出して御急ぎ故マアこれで差上げますと小鉢に茄子の香の物を差置たるまま下へ往き、やや飯器(はんき)を持るは東京風なりと圓花は誉たり吾は山々をなかめて

   伸上り見るや高根の秋日和

_と一句を書て出せば圓花もまけぬ気に成

   沼田なら畑ちがひとおもひしに
     鶏鍋は葱香々は茄子

_とよみたり大出来成りと笑ひたり喰後(しょくご)宿の老婆出でて茶代の礼を厚く申せば、少し尋ねたき事と申すは吾八九年前に当家に二泊りして原町の塩原左兵衛と申す人(じん)を呼びに遣して此宿(こなた)の座敷にて面会(あい)し老人は無事在りや、と尋ねしが宿の老母は不審相に考へ居たりしが、ハハア御まゑさまは久い跡に御泊り被成(なさっ)た御方でありますかやうやう思ひ出しましたが、其原町の塩原と云ふ人は奈(ど)う成りましたか忘れました、と申すに左様(そん)なら直(じき)尋ねに参らふ、と是から圓花を同行して上の町へ往きて、半紙を十帖程買(とり)、これを遣ひ物に進上せんと原町に入りて油屋の塩原と尋ねしが少しも手かかりなしそれより下町に往き捜せば北側に紙糸商にて油も売る店あり家に入りて腰をかけたり女房(かない)は何か買ひに来る人とおもひ愛想を云ふもおかしけれど、此方(こなた)は至極真顔に成りて塩原多助の親類の事を尋ねたれば、奥の方より林近助(はやしきんすけ)と申家の主人出て申す様、其事は拙者(てまい)父が存じております只今呼びに遣します、と雇人(おとこ)を走らせ父藤助と申す七十四歳の老人迎ひの者と同道にて帰り来りて申す様、愚老(わたくし)は沼田在の羽場村(はばむら)と申す所の出生(うまれ)なり羽場村の下新田に今に多助の産れました家あり当今(ただいま)は塩原角太郎と申して以前の通り家土蔵(いえくら)も昔のままで在りますとおしえたれば、有かたしと重々の礼を演(のべ)て其(や)を出馬出(うまだし)といふ横町に入たり(その)所は旧城より御乗馬を引したる故名とすそれより鎮守の社に入る石の鳥居をくぐり敷石伝ひに往く正面に四間四面の社殿あり前には唐戸四枚額面に雨宝殿(うほうでん)とあり頼知(よりとも)書とあるは何人なるや不知社は旧は歓喜天なりといふ又馬出しには神明の社ありて大樹七八本茂り鳥居燈籠見えたり倉内町(くらうちまち)へ入れば旧幕の頃は重役奉行所又下役の屋舗(やしき)ありし所なりといふ旧大手の有りし所を大手町と云ひ御城と申さず御殿と云ふは土肥(とき)(記者いふ、肥(傍点)の字にき(傍点)と傍訓あり原文の儘)公の在られたる所也当今尋常高等学校と成りたりそれより材木町を通れば警察署あり鍛冶町(かじまち)より袋町(ふくろまち)、馬食町(ばくろまち)、餌差町(えさしまち)は材木町(ざいもくちょう)の分なり坊新田町(ぼうしんでんちょう)、柳町(やなぎまち)、高橋場町(たかはしばまち)、原新町(はらしんまち)と見物致しやうやう大竹屋に帰りたり。此地の総鎮守は榛名神社なり故に榛名町(はるなまち)といふは大手町を西にとりて坂を下りて馬庭村(まにわむら)に往く道なり当地の寺院は浄土宗にて正覚院(しょうがくいん)は鍛冶町に在り柳町(やなぎまち)を入れば天台宗にて三光院あり中島には天桂寺とて禅寺あり原新町には入口に平等寺といふ門土寺あり柳町の坂傍(ぎわ)に常楽院、餌さしまちに光清寺浄林寺長寿院等あり是は仔細(こさい)にしらべざりしは残念なり旧足軽組の者は原町と倉内町の所々に住居したりと云ふ又当地の古き家屋は柱建にて荒壁つけしたみ板を不打、屋根上に厚き板を並べ、木割(こわり)を押ぶちに打付け棟に沢石を三尺間に乗せたり或は茅屋根もありしが近頃土蔵(くら)を建て、瓦屋根もあれどたまたま見たり又冬は雪日々降つづきて寒き程風はふかぬといふ是より宿に帰りて風呂に入りて二階にて休足(やす)む中圓花も又湯浴みに行く吾一人座して

   また元の柱に寄りぬ秋の夕

_うち晏食(やしょく)の膳出さび鮎の塩焼汁菜椀玉子に椎茸に糸三つ葉二の膳にけんちん椀を出して、実に何も無へでと宿の老母挨拶に来たりて云ふ御客がたて込んで下婢(おんな)が御給事に参る事が出来ねエから、此姉へは東京者だから御酒の御合手に連れて来やしたとて一人婦人(おんな)を座敷へ出したり此婦(これ)は此地の芸妓屋女房にて歳齢(とし)は三十二ちょと小いきな女なり以前東京浅草の者にて調子は好けれどおつな素性なり圓花は風呂より上り帳場の前を通れば宿の老母(ばば)は用あり気に呼止めたれば、圓花何用と座れば老母は笑ひながら云ふ貴所(あんた)の旦那様は市川九蔵(くぞう)様だんべいと申すに圓花は可笑しきを堪て、何に其様(そん)なものではなひと申せどなかなか聞不入否々見覚へがありやすなにも秘さねへでもやうすで知れやす、と老母は吾を市川九蔵成りと思ひしは不思議なりと圓花は笑ながら二階に帰りて小声で云ふ故吾もおもはず笑ひだしたり

   九蔵とは市川辺でいふべきを
    此所は戸根川坂東太郎
   其人と見て往き過ぬ秋の夕

_とよみて酒を飲めば近き辺(わた)りの地廻り酒なれどかなりに呑たり夕飯すめば早くも九時なり早々床に入りて伏したれども、此駅(このち)は糸市は三八にて糸商人は隣席に三四名泊り居りて、時ならぬ花にうかれ居りて夜通しへたへたとさはがしければ眠りかねたり

   長き夜を何に更して朝寝哉

_廿日小雨降りては折々旭(ひ)のさしたるに圓花と共に人力車に乗りて宿を出て、馬出しより大手前の方より西に入りて榛名神社の前より坂を下五丁往けば細川あり旧道を通らず馬庭村に休む此処まで沼田より一里四丁なり村に心清寺(しんせいじ)と云ふ禅寺あり旧名主は甚左衛門今の村長を馬庭幾之助と云ふ旅籠屋は角岡屋(かどおかや)師田鯛助(しだたいすけ)と申す由聞きぬ村を出て半道ばかり臼根川を渡ると五観(ごかん)村也又半道程走らせたり戸根川の上に月夜野橋を架たり橋を渡りて行けば三国道なり橋手前より真直に行けば清水道の新道なり三国道の長井迄五里清水道の湯美増(ゆみます)村迄も五里といふまた昔沼田村より下新田(羽場村)迄往くには滝坂を下りて今の往来の上道を通り臼根川を渡りて五観村に出たる也当今道路開らけて車の通行よければ月夜野橋を渡りて三四丁往けば両側に戸数七十五戸、当今は九十戸余の戸数軒を並べ商家料理店或は旅籠屋等ありて繁盛の地なりり宿は青柳国助(あおやぎくにすけ)が一等なる由、旧名主は五観村の龍之助氏なり鎮守は熊野神社如意輪寺といふ禅寺あり毎年十二月に歳の市ありて群集するといふ掛茶(ちゃや)の話しなり雨ホツホツと振出しければ

   雨の日はひるも碪(きぬた)の山路(家)哉

(記者いふ右の句の山路の側に家(傍点)の字を書きたり直したりとは見ゆれど路(傍点)の字に消しの印なきゆゑ両様とも記置けり)
_是より小山をなだれに登右の方山手にて松杉繁茂(しげ)りて間に所々畠あり左の方は岩石嵯峨として峰に赤松数百本は下を流る谷川をのぞくかと思ふ枝振さまざまにして面白く、此川は三国の赤岩より流る水なれば赤岩川と申なり右の方の一段高き処に古き石塚あり年号に宝暦四年とあり庚申塚横に埋まりしを見たりしが、塩原多助を原丹治が待ぶせしてをりしは此処ならんと見て過処よりして下る道あり川岸の谷に田畑を作りて細き道あり此処は多助が円次郎にをくれて下へ往く近道なるべしとおもひあてたり是より少々(すこし)の登り下りはあれどやうやうにして羽場村に入る又一田甫を越ゆれば下新田なりその畑中に杉垣を結ひ廻したる処に立札あり見るに筆太にて東京本所相生町塩原多助墓と書たり扨は多助の実家に程近しと車夫に申し付け、下車して下新田に入りて見るに、右の方の三戸目(さんげんめ)に丸十の紋を棟瓦に附たる土蔵畑の向ふに見えたれば家の門に立りて名札を見るに、塩原角太郎とありし故案内を乞ふ奥より妻出て来りて何方(どなた)かと問ふハイ拙者(わたくし)は東京久松町の塩原の六代目に当ります孝太郎と申すものの縁類の者で、此度沼田迄参りました故祖代(しょだい)の墓参も致し度く皆々様御変りなきや承り度く御尋ね申しました、と云ふを奥のかたより主人角太郎(四十八歳)をはじめ長男安太郎(二十六)二男栄次郎娘お庄(二十三)と皆々口を揃えてまづまづ此方(こなた)へ御昇(あが)りなせへと饗応(もてなさ)言葉に従ひ座敷に通れば、八畳の間一間の床の間に次は一間の床脇あり次の間は六畳にて前は四尺巾の椽側あり南の方は一間に六間の板間あり先を土間口広くとりて大地炉(いろり)あり家屋の建様は畳を敷べき所は八畳と十二畳の処皆板間にして、如何にも経済の建築法なれば、此御建築は幾年頃に建られしと問えば角太郎氏の申す様、此家(これ)は元祖の家焼失後多助様が参られて再興の時は茅屋(かやや)なりしが又其後、御先祖の年回忌の時瓦屋根に建直をしたる時のままでありますと申せしなり是にて多助が経済に長じたる事を知るべし初代多助再建の社は山王権現(日枝神社)なり羽場村の鎮守なり
_羽場村百三十戸、字下新田三十五戸、旧名主山口七郎兵衛昔は天領なり旗本千三百石須賀沼米吉(よねきち)殿支配地なり
_羽場村は昔二百七十石斗、多助時代には原沢善右衛門名主役なり原沢太七より金右衛門と云ふ、当今は祐次郎と云ふ家号(いえな)を万屋(よろずや)といいし由太七は塩原の縁りありて初代多助と懇切の交りあり家に多助の書類ありと聞きし故塩原の長男安太郎氏案内して原沢の家(筋向ふ)に至り近づきになりて書物を見るに手紙あり(記者いふ、左の文中割註のあるは圓朝が附記せしなり)

以手紙啓上仕候此間は御出被下候所早々仕合に奉存候然ば御道中つつがなく御かへり可被成と奉存候其砌りはかん中と申をも荷をゑんほうの処御頼申上候段まこと以ありがたき仕合に奉存候はは事もみなみな様万事ゆだんなく御くへほう(介抱ならん)に預り段々よろしくと平右衛門様御出手紙御はなしにて家内一同に大よろこび殊に今日は御同前としこし(年越歟)にてよろこびのあまりに

   おやの手にあまつて江戸へおひだされ
    またてににぎる年こしのまめ
   おにはそと福は内ぢうまめだらけ
   目出たいやこゑやひらめのだい所   内物
    志ろみすながすよろすよまでも

と申て家内一同に目出度ははをゆわへ(祝ひ歟)申候御わらゑもかへり見ず申上候ますますはは事をゆだんなくかゑほういたしくれ候やうにおませ小太郎方へも御きをつけ被下候やう奉頼上候万事は此間御頼申上候通りよろしく頼み上候右参上仕目出度御礼申度と存候と□□(何かわからず)御座候以上
   十二月廿三日       塩原太助
  原沢太七様  親
  同 源次様  忰なるべし
    人々御中

_手紙は太助の実筆なれば仮名ちがひ落字も其ままに写し置き他は丹ざく数枚(かずかず)を見るに

    □*2のしるしを□*3に成りたるうたにて
   江戸中のすみから炭のうり初めは
     けふ山口のくちをひらひて   川 面

    両涼みを題したるにや
納涼 両国のすすみ舟より舟へふね    川 面
     かせさえはしの下を通さず

    たらちめの年賀をことほ喜よめる
   鶴の千代亀のよろづよつきたさん
     八十八を数とりにして
              太助の俳名 寿 算

    其歌の返し成るや寿賀
   長生のかひもこそあれ耳も目も
     見聞よろしき御代に暮して

    原沢の二代目の狂歌あり題時鳥
   から崎の松に今宵の時鳥     原の細道
     音をききによる雨のふるさと

    同三代目題寄水鶏恋      広 望
   晴れぬ間は雨とおもひし卯の花に
     風のわたれば雪ぞちりぬる

_これを見れば此家には似ぬ原沢氏は代々狂歌好歟

    四代目原沢氏題旅宿嵐
   ふる里をへたつ枕にかりかねの  繁 樹
     たよりも更にあらし成りけり

_それより一度(ひとたび)塩原の家に帰り二男栄次郎氏を案内に頼み太助の菩提寺に往んとする折雨振したり二男は半沓をはき蝙蝠傘をさして先にたち裏山に登り杉の林の下路を往く此処は山王の神社なり樹木の影に石坂と社殿見ゆる所より二町下れば田畑あり中道を往く事五六町山道なれば殊更遠く思はれたりまたまた西の方の石坂を登るに左の方に苔むしたる戒断石あり石面に葷酒不許入山門と深く彫刻(ほり)たるは月秀(げっしゅう)書とあり大門を入れば正面本堂にて東谷山(とうこくざん)の額を掛たり(此寺の石坂の下に馬頭(左角)観世音の石塚あり太助の飼馬(かいうま)青を葬りたる跡なる也)唐戸を開けて内に這入れば九間の板間は惣朱塗にてなかなか立派なる建築(ふしん)なり本尊は釈迦如来左りに達磨の像右維摩居士の像なり壁観の額護法の額あり惣本寺は白井村の総林寺(そうりんじ)下牧(しもまき)村なる玉泉寺末にして広福寺とて曹洞宗の禅林なり開山は天文四未年十一月廿日早世透津元俊(とうしんげんしゅん)大和尚なり二世は明暦二年七月三日早世興学庵長芸(こうがくあんちょうげい)大和尚とあり天明年間には鉈翁鉄眼(だおうてつがん)和尚なり太助が別懇なるは鉄眼和尚なるよし聞きぬ鉄眼僧は十一世物外春暁(ぶつがいしゅんきょう)和尚は知識にて文化十一年甲戌年十二月廿五日早去(しきょ)ありし故太助が老年再度国へ往き親しく会たるは此物外和尚也弟子にして物外春暁和尚は江戸の塩原の宅へ招待されし時には鉄眼和尚は十一歳の時にして柏餅を製造する手伝ひをせし事ありとの事にふれては物語られしといふ太助が本所にて一家を立てて再度(ふたたび)帰国せしは安永五丙申年とあれば時の住僧は広福寺の十世にして寰海龍堂(かんかいりゅうどう)大和尚なりと当住八木素遵(やぎそじゅん)和尚の云ふ所なり又当寺に太助が寄附せし十六羅漢の画幅十六幅あり是は太助が出入屋敷の大名隠居の画なりといふ又本堂の丸柱に掛紺地に雲龍を金襴織なしたる旗四巻あり裏地の白木綿地に寛政二正月三朝上州利根郡羽場村広福寺什具十一世紺地金襴水引垂四本ノ内施主塩原氏親類原沢氏とあり是物外春暁和尚の筆なり欄間には当住の師禅翁仏山(ぜんおうぶつさん)和尚書たる大額をかけたり是より和尚の居間に通りて元祖太助の回向を頼み心ざしの布施を出したれど法名を和尚は知らずといふ故、拙子書て出せば是より本堂にて読経ありて懇の回向なり中に高き膳に大きなる本椀をのせて出したり何の馳走かと椀の蓋を開圓花と顔見合せ暫時箸をとりかねたるも可笑しく、椀の中には巾四寸丈五寸の切餅二ツに茗荷たけ丸ごと三四ツ入りし雑煮なりなかなか見た計りにて満腹と云ふ大物(たいぶつ)なれどせっかくの馳走なればヤット一切食と御替の椀出これには困り入たり跡は圓花にさづけて拙子は満腹なりと申して断れば、圓花厭いや食う様子は余程可笑かりしやかて広福寺を出て塩原の宅に帰ればいつの間にやら酒肴の用意あり家よりの知らせと見へ親族(しんるい)り居たり第一に荒巻村の下条善十郎(下新田より七町)りて正席に座したり(六十二歳)人は多助の老婆の親族(三代目太助の)父は善之助と申せし由なり今一人は吾妻郡(大字分家)岡崎新田荒木彦六(五十一歳)人は塩原彦六とて五代目にて父彦六は血筋なりとの由今一人は(七十七歳にて)関小三郎本姓惣兵衛とて五代目の塩原の従弟(いとこ)にあたり娘は(惣兵衛の姉は)塩原に嫁すと云ふ下条善十郎の嫁は後閑村の櫛淵(くしぶち)太左衛門(八弥長男也)神刀一心流の剣術指南を致し後に一つ橋公の御馬屋をつとめ嫡子長太郎は江戸市谷柳町或は山伏町の横町に住しともいふ櫛淵太左衛門の娘が下条善十郎忰善二郎方へ嫁に入るといふなり初代太助は実子なりとも貰はれ子とも云ふ継母に実子産れてより家出をせしといふまた馬をつなぎし場所は吾妻郡香才村(こうさいむら)(小高き処)雨の宮の前なる松に馬を繋置きて逃しともいふなりまた太助は江戸へ出て薩摩公の馬屋の別当に使はれし故、定紋は□*4なりしを□*5を紋に付けたりとも云ふ多助再度(ふたたび)国へ帰りし時横堀村と中山峠の中間(あいだ)に掛茶屋ありて休茶屋の爺父婆(じじばば)を憐みて銅(からかね)の茶釜を鋳させて接待茶を出それより往来(いきき)の人茶屋が松といふて名高くなりしとの噺し、此釜は水四升入りにして前□*5の紋を付け江戸鹽原と左右に鋳抜きたりとも云ふ、時世変りて往来(いきき)年々に無く後世の茶屋此釜を金三両の質に入たり、臼根村大字恩田村の高橋又右衛門(質店)方にあり(当今は三十円にても売らざるとのはなし)
_長太郎は東京(旧江戸)市谷柳町とも云ひ又山伏町の横町とも云ふ櫛淵の家は(幾代目にや)太左衛門の三女(むすめ)おかく三代目塩原太三郎の妻と成り、(或は妾とも云姉娘お長(二代目彦助の姉也)の為に非道にされて鎖釣瓶の内井戸に入水して死す(十九歳の時なりといふ天保九年三月九日の事)
 記者いふ此処に三国道等の里程あり略す
なりと塩原親族の咄しなり

_中に広蓋へ茄子と椎茸に芋茗荷等を煮つけ菜のしたしものに平椀に焼豆腐椎茸茗荷にいつの頃とりしや鮎の干からびたるをのせて出したり主人角太郎氏酒を徳利に入れて持し進めたれど拙子酒は不飲(のまず)と申せば、越後の味淋酒をとり出しての饗応(もてなし)無余義(よぎなく)盃をとりて差せば、亭主の杓にて盃の中へ味淋をつぎ入たるに中より蠅の死だるが三疋出たり是はと心中に驚きたれど直ぐに其徳利を取りて亭主に一盃つぎ入れたればまた蠅は四疋出たり亭主は其蠅を子指にてかき出して呑みてさしたる時に拙子(われ)心中にて西洋医が見たら此地の人々は長生はあるまひと云ふべし実に何事にも物に習慣(なれ)る時は害にもならぬもの也と考案(かんがえ)が発(おこ)りしと後に圓花に申したり是より暇乞ひして立たれば塩原角太郎氏の妻君おとも(四十四才)は今日は彼岸の入りなりとて団子を重箱に入れて出御帰りかけに墓参なさるなら石碑へ手向けて被下(くだされ)とて二男に持親族は不残連立ちて帰り道なる(一町半)墓所に来たりて見るに此処は畑中に杉垣にて囲、中には三段に墓碑あり前に五碑(ごほん)中に五碑後ろに五碑前右の角が初代多助の墓にて後の右の角は塩原彦六(今荒木氏なり)の墓なり東向きなりといふ彦六氏が吾は塩原の初代の血筋なりと云ふて日記帳出されよ吾実印をすべしといふに拙子懐中より日記帳を出せば図の如き(記者いふ、図には丸の内に稍四角形をなしたる唐草模様あり其中に隷書にて鹽(傍点)の字ある是れ一個と其の下に四隅を丸めたる角の中に隷書の原(傍点)の字あるものと都合二個の印影を筆写して記したり)印ををしたりいかにも正直律儀の人々なりと感服なしたり持参の団子を三ツ五ツ墓碑(はか)の台石に乗せ土瓶の水を石碑の頭(かしら)よりかけたり皆々共に拝して道に出で、親族に別れて人力車(くるま)に乗りて立たり雨ふる中を急ぎ大竹屋助右衛門宿に帰りしは七時過ぎなり早々風呂に入りて鮎にて夕飯すみ後按摩を呼びて草臥足をもませながら当地の事を尋ねしに、此按摩は沼田産れにて加藤某(それがし)と呼び諸所の事柄を宜く知る者なり近年東入りの小川村の温泉の北の方の山より銅山を発見したり銀分多くありて四分とれるとて道路日光の方まで開き馬の通ふ事は日々七十頭に過るといふ又沼田には城閣なし御殿といふて柵を打廻し今の学校の有る処が御殿なり此処を大手といふて左の方に家老右之方に用人住す前の通りに役人の長家ありしなり(当今の倉内町)其処に御勘定奉行と裁判の奉行所あり御目附の住居(すまい)し其横町に百人組を置きて此処(これ)に足軽小頭等住居したりとの咄し
_当地の産物は真綿 一蕨(丈五六尺) 一本葛かち栗(四五斗入位は子供がひらふと云)馬に三四駄廿四五円の相場と云ふ、 一山独活を雪割といふて雪中に頭を出して(丈三尺余)真白にして和らかなり
_土肥公の家来下役の内職は(江戸屋敷にても) 一巣底とて馬の毛にてすいのふの底を作るなり 榊原公、牧野公、土肥公、三家ともに製造(つく)る故に高田底、上田底、沼田底と云ふ由
_塩原多助の咄し出たり多助は碓氷峠の熊野権現の別当曽根采女方へ申し入れて馬の飼馬接待を出せし事ありとの咄しに二人前の療治を致し遅く成りて按摩は帰りしあとにて雨の音聞

   二度雨は晴れて長き夜成りけり(記者いふ一字落字あるべし)

_隣席の客三四名早立とて此家を十二時に立て十二時の汽車に乗らんとて大騒ぎにて椽側バタバタにて共に起たり

_廿一日朝霧深く雨の如く露けきに

   雨と見て立をくれたり朝の霧

_朝飯を急ぎ出用事を日記に書とめ出立の用意をする折宿の老母(六十三歳)は大きな籠に渋鮎を入たるを土産にとて贈られければ是を人力車につみ入れて

   渋るたけ身の重々し鮎の形り

_家を出棚下まで来昨日の雨にて路はわるく谷川の水増して音高く聞えたり川向ふは岩石屏風を立てたる如く峰には赤松の枝振り面白く山々の樹々紅葉染かかる有様言葉に尽しがたくこれより少しづつ登る路に成りやうやう桜の木迄来る是からは下りと成りて長坂村の藤本屋に休みたり此村(ここ)より渋川迄一里十四町、此家に村の人三四名居り合せしが拙子(おのれ)が下駄がけに大き成る旅持の煙草入を提たるを見て角力とりと見たるや四人の者コソコソと角力の噂さする故わざと肩を張らせどす声にて圓花を行司のつもりにて話したれば猶々角力取とおもひしは可笑しく

   よわさふに見えても何こ歟角力取

_是より渋川の馬車会社に入る鉄道は碓氷峠のレールを敷きたる故乗りはづす事なく、飯塚とあら町の停車場まで通車するとは便利なり(十二時三十分)発車まで間(あい)だもあれば丸万坂田孫次郎といふ中喰(ちゅうじき)場所に入りて休み居たるうち発車と成り早くも青梨に立それより金古村にて馬つぎ替へと成る所は高崎より来る馬車と往違ひに成る所故向ふより馬車の来るやと待てども待てども来ず(一時間余)待ちあぐみたり乗客の中には横浜まで帰られずとぼやくもあり或は会社に掛賃銀を取返して人力車にのらんとするものもありさまさまに御車(ぎょしゃ)に掛合ふ馬車会社の者しきりと詫を云ふ折から向ふより二頭引の馬車見えたり跡の馬は怪我せしならんと云ふに、一人の別当肌馬(はだかうま)にまたがりてむち打って見に往く有様面白く拙子(おのれ)と圓花は下車して掛茶屋に休みゐたりうち馬車時間にはづれしとて発車と成り五丁往くと向ふより一疋馬車来るよりレール一筋なれば乗客(のりきゃく)皆下車して乗替へやうやうと高崎に来たり馬車の為に(二時三十分)の汽車の出とまでをくれたり馬車は碓氷峠の鉄道を引きたりと聞

   細ひのはしほん二本の鉄道も
    元(本)が碓氷の馬車会社なり

_汽車室に乗込み弁当と鮓を買ふて食ふ是は食ぬもよかりしと圓花は云ふはよくよくなり日は熊谷に下りて本間兵衛(ほんまへいえ)氏を尋ねたれば老母初おとみも悦びまづまづと座敷に通しての饗応(もてなし)浅からず青柳氏より鮎を贈りたり夕飯の馳走に其夜は宜くふしぬ
_廿二日朝霧深し馬士は歌を唄ふて通るを聞きて

   張りあげし馬士の古唄や霧の中

_朝飯の後ゆるゆると支度して十時二十四分の発車に乗りて帰らんと人力車を停車場まで雇ひ皆々に別れて熊谷の停車場まで来たる下等の切符にて乗込めば乗客(のりきゃく)は商人のみにて股引に日和下駄をはき織色の風呂敷包みに木綿真田の中結ひをせしを片手に提げたるもあり或は伊勢崎織の羽織に蝙蝠傘を持たる人のみ多しうちに桶川より大宮と走り早くも赤羽にて乗替へ五分間のうちにたちまち板橋目白と早や新宿に着たればいつもの茶屋にて腕車(くるま)を雇ひやうやう帰宅して昼飯をする支度の間足を延して

   日数ほと瓢育つや旅の留主


(注記)
 底本は,演芸世界社, 演藝世界, 2328 (1903)
 原文は旧漢字,旧仮名遣い,総ルビつき,句点なし

=原文からの変更点=
 ・旧漢字を新漢字に変更した.
 ・踊り字については,"々"を除き,書き下した.
 ・ルビは括弧内に記した.大部分のルビは省略した.
 ・一部の送りがなをルビから追い出し,書き下した.また,一部の読点を補い,一部の読点を句点に改めた.これらの変更点については,文字色を灰色としている.
 ・文頭の字下げを行った.
 ・以下の5つの文字・記号は表記できなかった.
  □*1:こおろぎ.虫偏に車
  □*2:カネ(右上隅角)の中に+
  □*3:山形(屋根冠)の下に口
  □*4:二重になった菱形の紋
  □*5:○の中に+の轡紋
 ・原文にある無記名の記者註については,著作権の消滅が確認できないが,圓朝筆の部分と異なり,削除・改変を加えずそのまま掲載した.