「上州沼田 下新田日記」:演藝世界,23〜28 (1903) を一部表記変更
この一篇は先頃所載の『沼田の道の記』の後日とも見るべきものにて同く塩原多助の事について実地探検の為圓朝が弟子を随へ多助の出生地へ赴きし時の日記なり(記者)
_明治廿六年九月十八日午前九時の発車にて、上野の停車場(ステーション)より圓花(えんか)と倶に下等室に乗り込みしが、前橋高崎往きはツト先の室なり。乗客は平常(いつも)と異りてバレ下かかりの話しなり。言葉の訛りにては武州浦和近在の人々ならんとおもふに違はず、此の四、五人は赤羽より上陸したり(十分余待つ)。これより大宮に来たりし頃は(十時十分)、空晴れてあたたかなり。餡パンに鮓を売る者多く、宇都宮奥州乗り替へ。此のあたりは一昨日の雨さえ少し降りてうるほひなし。其のうち熊谷に着く頃は(十一時十五分)、少し空腹に成りし故、持参のパンと半熟の玉子二ツづつ食う。早くも高崎に着き、長野信州直江津は乗り替への声耳にひびく。人々あはてて下りるもあり、またかけ上がるもあり。此の間(十五分)待つ。やうやう前橋に着き(十二時三十分)、上陸して馬車会社まで人力車(くるま)にて走らせしが、発車は(二時過ぎ迄)遅れると聞きて、向ふの和泉屋原三代吉(はらみよきち)といふ饂飩屋に休みて馬車の出を待ちたり。此の家は鮓、水菓子もあり。梨をむきて食う時、圓花は亭主に此の梨は何処で出来るや、と尋ねしに、ハイ此梨(これ)は大島村(おおしまむら)とまたはいばら木村より卸しに来ますと云ふ。吾は沼田道の事を問えば、亭主いふ。旧は岩上村より鉢崎(はっさき)まで、(三里)又白井(しろい)駅に出るまで一里なり。昔は十八阪峠(じゅうはちさかとうげ)ありて至極難所なり。小川原(おがわはら)村より登りて峠の重畳(ちょうじょう)に休み茶や在るのみ。それより岩本村に出て、戸鹿の橋(とがのはし)を渡りて(三十丁)往けば、沼田の入口に出でるといふ。また鉢崎に茶釜を惣銅壺(そうどうこ)に掛けたる茶屋は無かりしや、と尋ねたれば、それは丸本屋とて坂の登り口にあり。旅籠やは(左)に塩野や、(右)は中島やあれど、今は新道が開(でき)てより二十年以前に開業(でき)し升や一軒と成り、鉢崎は甚々敷(はなはだしく)衰微せしとの話し。其のうち(二時)と成れば、馬車に乗り込み発したり。小出(こいで)村不止(たてず)、田口村に止(たて)る。それより箱田村にて馬を次ぎ替えるなり。掛店(かけちゃ)の鳳仙花を見て、
蒔きもせぬ庭一はいや鳳仙花
_是より戸根川を渡り、中村に馬止(たて)る。其の時、掛茶店(かけちゃや)に腰かけし人の印半天の背中に、熊手にもあらず汐かきにもあらず、おかしき形ちの物を染め出したるを着てゐるは、何者とおもふ折、此方を向くを見れば、半天の襟に伯州稲こきと白抜に染めたり。稲こきを売る人にて伯州が宜敷きといふ事はじめて知りぬ。早くも渋川駅に着きし故、下車して福田やに小休みする時、(四時)少し前なり。それより両人(ふたり)して荷物を提げ参歩(あるき)て、山田屋喜平治方に入り泊る事に成りたり。此の家は座敷も新らしく、唐紙戸は旅画師の花鳥山水なり。床の間象山(ぞうさん)の書とある一幅を掛けたり。庭のやうすをながめ居たる折、下碑(おんな)浴衣を持ち来たりて、御風呂が出来ましたとの知らせに、浴衣と成りて風呂に入れば、一間四方にてせまく、早々あがり圓花を遣る。其のあとへ下碑菓子折と書面一通を添えて御隣の御客様とて出したれば、其の書面を開き見れば、文に、
例之通り御作(おんさく)ものにて沼田辺へ御探求と被存候
旅情□□(記者いふ、爰の二字難判)懐かしき物なる故に
隣こしで業わひ探る夜長哉
出淵圓朝さま むら井貞吉
とあり。とりあへず其の菓子折にのせたる紙に、
隣席におはせしとはおもひかけなくうれしさのまま
合宿に此親しみや秋の旅
して送りぬ。其のうち夕飯の膳持ち来たる。汁豆腐、椀鯉こく、皿鮎の塩焼なり。煮豆を入れたる猪口の上に香の物茄子、酒一合、圓花と両人(ふたり)にて飲み、晏食(やしょく)を済ませしが、火入れの火消へたれは、火のきえぬやうにして持て来よと申せしが、やがて、火入れの中に太きうづまきの線香に火をうつして持ち出だしたり。疎忽の人は蚯蚓と見違ひさうなり。可笑しく、
□*1のとぎれを繋くや啼く蚯蚓
と跡は笑ひのみ、こころよくふしぬ。
_翌十九日、空晴れて風冷やかなり。先づ朝茶を飲みて、
初秋の光り持ちけり山の雲
_朝飯は汁実なし、椀茗荷の玉子とぢ、皿生鶏卵二ツなり。此の地の市日は二七日なり。鎮守須賀神社にて、毎年九月一日、二日祭礼にて、旅俳優(やくしゃ)来たり、劇場(しばいごや)たつといふ。だし十本を引き出すと自まんらしく下婢(おんな)の話し。人力車を雇ひ北の方へ登る。左右桑畑を往く路わるし。中郷村(なかさとむら)、家まばらにて淋しき所(ち)なり。又登りて上白井の倉沢山にかかりて、堀建の出茶屋あり。車夫は清水を飲み休む。是より下る道なり。やうやう棚下村まで来たり。戸根川の分流に新橋を架けて橋銭をとる。また車を走らせて綾戸橋を渡りて、出茶屋(おかめや)に休む。此の綾戸橋は、明治廿五年五月渡り初めありしと云ふ。西の方は子持山の山脉(さんみゃく)にして、旧道も所々(しょしょ)にトンネルありて、岩山に掛橋数箇所見ゆる。見下ろす流れは戸根の川上にして、岩本村字綾戸と云ふ。此所より岩本までいそぎ、戸鹿野橋を渡るに、此の川は北瀬田郡糸の瀬村の川つづきにて、日光の片品川より流れ、又一筋は越後川赤岩川と加流して戸根川に落つるなり。是より十丁余、高き坂を登る路は新開なれば幅広く、赤松の大樹所々に在りて四方に山々を見て風景よし。此の地は沼田分にして上の町(かみのまち)にいでるが本道なれど路遠しとて、上の町の間を通る所を馬喰町(ばくろまち)と申すなり。やうやうと十二時に沼田市(いち)仲丁(なかちょう)の大竹屋と云ふ旅籠屋に着きたり。直ぐに昼飯(ひるはん)を誂へ、衣類を着替へて座につきしは、三階なれど残暑厳敷(きびしく)して堪えかたければ、左右の障子を開放(あけはな)して見下ろしければ、南は赤城山、西に子持山、北の方に清水越の新道を見て、東は保高山なり。其のうちに膳をはこぶ。四角なこん炉に鶏とねぎを入れたる鍋を持ち出して、御急ぎ故マアこれで差上げますと小鉢に茄子の香の物を差置きたるまま下へ往き、やや、飯器(はんき)を持ち来たるは東京風なりと圓花は誉めたり。吾は山々をなかめて、
伸上り見るや高根の秋日和
_と一句を書きて出せば、圓花もまけぬ気に成りて、
沼田なら畑ちがひとおもひしに
鶏鍋は葱香々は茄子
_とよみたり。大出来成りと笑ひたり。喰後(しょくご)宿の老婆出でて、茶代の礼を厚く申せば、少し尋ねたき事と申すは、吾八、九年前に当家に二泊りして原町の塩原左兵衛と申す人(じん)を呼びに遣して、此宿(こなた)の座敷にて面会(あい)し老人は無事在りや、と尋ねしが、宿の老母は不審相に考へ居たりしが、ハハア御まゑさまは久しい跡に御泊まり被成(なさっ)た御方でありますか。やうやう思ひ出しましたが、其の原町の塩原と云ふ人は奈(ど)う成りましたか忘れました、と申すに左様(そん)なら直(じき)尋ねに参らふ、と是から圓花を同行して上の町へ往きて、半紙を十帖程買(とり)、これを遣ひ物に進上せんと原町に入りて、油屋の塩原と尋ねしが少しも手かかりなし。それより下町に往き捜せば、北側に紙糸商にて油も売る店あり。其の家に入りて腰をかけたり。女房(かない)は何か買ひに来たる人とおもひ、愛想を云ふもおかしけれど、此方(こなた)は至極真顔に成りて、塩原多助の親類の事を尋ねたれば、奥の方より林近助(はやしきんすけ)と申す此の家の主人出でて申す様、其の事は拙者(てまい)父が存じております。只今呼びに遣します、と雇人(おとこ)を走らせ、父藤助と申す七十四歳の老人、迎ひの者と同道にて帰り来たりて申す様、愚老(わたくし)は沼田在の羽場村(はばむら)と申す所の出生(うまれ)なり。其の羽場村の下新田に、今に多助の産まれました家あり。当今(ただいま)は塩原角太郎と申して、以前の通り家土蔵(いえくら)も昔のままで在りますとおしえたれば、有かたしと重々の礼を演(のべ)て其の店(や)を出でて、馬出(うまだし)といふ横町に入りたり。此(その)所は旧城より御乗馬を引き出だしたる故名とす。それより鎮守の社に入る。石の鳥居をくぐり敷石伝ひに往く。正面に四間四面の社殿あり。前には唐戸四枚、額面に雨宝殿(うほうでん)とあり。頼知(よりとも)書とあるは何人なるや不知。此の社は旧は歓喜天なりといふ。又馬出しには神明の社ありて大樹七、八本茂り、鳥居燈籠見えたり。倉内町(くらうちまち)へ入れば、旧幕の頃は重役奉行所、又下役の屋舗(やしき)ありし所なりといふ。旧大手の有りし所を大手町と云ひ、御城と申さず御殿と云ふは土肥(とき)(記者いふ、肥(傍点)の字にき(傍点)と傍訓あり原文の儘)公の在られたる所也。当今尋常高等学校と成りたり。それより材木町を通れば警察署あり。鍛冶町(かじまち)より袋町(ふくろまち)、馬食町(ばくろまち)、餌差町(えさしまち)は材木町(ざいもくちょう)の分なり。其の他、坊新田町(ぼうしんでんちょう)、柳町(やなぎまち)、高橋場町(たかはしばまち)、原新町(はらしんまち)と見物致し、やうやう大竹屋に帰りたり。此の地の総鎮守は榛名神社なり。故に榛名町(はるなまち)といふは大手町を西にとりて、坂を下りて馬庭村(まにわむら)に往く道なり。当地の寺院は、浄土宗にて正覚院(しょうがくいん)は鍛冶町に在り。柳町(やなぎまち)を入れば天台宗にて三光院あり。中島には天桂寺とて禅寺あり。原新町には入口に平等寺といふ門土寺あり。柳町の坂傍(ぎわ)に常楽院、餌さしまちに光清寺、浄林寺、長寿院等あり。是は仔細(こさい)にしらべざりしは残念なり。旧足軽組の者は、原町と倉内町の所々に住居したりと云ふ。又当地の古き家屋は柱建てにて荒壁つけ、したみ板を不打、屋根上に厚き板を並べ、木割(こわり)を押ぶちに打ち付け、棟に沢石を三尺間に乗せたり。或は茅屋根もありしが、近頃土蔵(くら)を建て、瓦屋根もあれどたまたま見たり。又冬は雪日々降りつづきて寒き程風はふかぬといふ。是より宿に帰りて風呂に入りて二階にて休足(やす)む中、圓花も又湯浴みに行く。吾一人座して、
また元の柱に寄りぬ秋の夕
_其のうち晏食(やしょく)の膳出でる。さび鮎の塩焼、汁菜、椀玉子に椎茸に糸三つ葉、二の膳にけんちん椀を出して、実に何も無へでと宿の老母挨拶に来たりて云ふ。御客がたて込んで下婢(おんな)が御給事に参る事が出来ねエから、此の姉へは東京者だから御酒の御合手に連れて来やしたとて、一人婦人(おんな)を座敷へ出したり。此婦(これ)は此の地の芸妓屋女房にて、歳齢(とし)は三十二、三、ちょと小いきな女なり。以前、東京浅草の者にて、調子は好けれどおつな素性なり。圓花は風呂より上り、帳場の前を通れば、宿の老母(ばば)は用あり気に呼び止めたれば、圓花、何用と座れば老母は笑ひながら云ふ。貴所(あんた)の旦那様は市川九蔵(くぞう)様だんべいと申すに、圓花は可笑しきを堪へて、何に其様(そん)なものではなひと申せど、なかなか聞不入。否々見覚へがありやす、なにも秘さねへでもやうすで知れやす、と老母は吾を市川九蔵成りと思ひしは不思議なりと、圓花は笑ひながら二階に帰りて小声で云ふ故、吾もおもはず笑ひだしたり。
九蔵とは市川辺でいふべきを
此所は戸根川坂東太郎
其人と見て往き過ぬ秋の夕
_とよみて酒を飲めば、近き辺(わた)りの地廻り酒なれどかなりに呑めたり。夕飯すめば早くも九時なり。早々床に入りて伏したれども、此駅(このち)は糸市は三八にて糸商人は隣席に三、四名泊り居りて、時ならぬ花にうかれ居りて、夜通しへたへたとさはがしければ、眠りかねたり。
長き夜を何に更して朝寝哉
_廿日、小雨降りては折々旭(ひ)のさしたるに、圓花と共に人力車に乗りて宿を出でて、馬出しより大手前の方より西に入りて、榛名神社の前より坂を下りる。四、五丁往けば細川あり。旧道を通らず馬庭村に休む。此処まで沼田より一里四丁なり。此の村に心清寺(しんせいじ)と云ふ禅寺あり。旧名主は甚左衛門、今の村長を馬庭幾之助と云ふ。旅籠屋は角岡屋(かどおかや)師田鯛助(しだたいすけ)と申す由聞きぬ。此の村を出でて半道ばかり、臼根川を渡ると五観(ごかん)村也。又半道程走らせたり。戸根川の上に月夜野橋を架けたり。是の橋を渡りて行けば三国道なり。橋手前より真直に行けば清水道の新道なり。三国道の長井迄五里、清水道の湯美増(ゆみます)村迄も五里といふ。また昔沼田村より下新田(羽場村)迄往くには、滝坂を下りて、今の往来の上道を通り、臼根川を渡りて五観村に出たる也。当今道路開らけて車の通行よければ、月夜野橋を渡りて三、四丁往けば両側に戸数七十五戸、当今は九十戸余の戸数軒を並べ、商家、料理店或は旅籠屋等ありて繁盛の地なり。泊まり宿は青柳国助(あおやぎくにすけ)が一等なる由、旧名主は五観村の龍之助氏なり。鎮守は熊野神社、如意輪寺といふ禅寺あり。毎年十二月に歳の市ありて群集するといふ、掛茶(ちゃや)の話しなり。其の折、雨ホツホツと振り出しければ、
雨の日はひるも碪(きぬた)の山路(家)哉
(記者いふ右の句の山路の側に家(傍点)の字を書きたり直したりとは見ゆれど路(傍点)の字に消しの印なきゆゑ両様とも記置けり)
_是より小山をなだれに登れば、右の方山手にて松杉繁茂(しげ)りて、其の間に所々畠あり。左の方は岩石嵯峨として峰に赤松数百本は下を流るる谷川をのぞくかと思ふ。枝振りさまざまにして面白く、此の川は三国の赤岩より流れる水なれば赤岩川と申すなり。右の方の一段高き処に古き石塚あり。年号に宝暦四年とあり。庚申塚、横に埋づまりしを見たりしが、塩原多助を原丹治が待ちぶせしてをりしは此処ならんと見て過ぎぬ。其の処よりして下る道あり。川岸の谷に田畑を作りて細き道あり。此処は多助が円次郎にをくれて下へ往く近道なるべしとおもひあてたり。是より少々(すこし)の登り下りはあれど、やうやうにして羽場村に入る。又一田甫を越ゆれば下新田なり。その畑中に、杉垣を結ひ廻したる処に立札あり。見るに筆太にて東京本所相生町塩原多助墓と書きたり。扨は多助の実家に程近しと車夫に申し付け、下車して下新田に入りて見るに、右の方の三戸目(さんげんめ)に丸十の紋を棟瓦に附けたる土蔵、畑の向かふに見えたれば、其の家の門に立ち止まりて名札を見るに、塩原角太郎とありし故、案内を乞ふ。奥より妻出て来たりて何方(どなた)かと問ふ。ハイ拙者(わたくし)は東京久松町の塩原の六代目に当たります孝太郎と申すものの縁類の者で、此の度沼田迄参りました故、祖代(しょだい)の墓参も致し度く、曽つ皆々様御変はりなきや承り度く御尋ね申しました、と云ふを奥のかたより主人角太郎(四十八歳)をはじめ、長男安太郎(二十六)、二男栄次郎、娘お庄(二十三)と皆々口を揃えてまづまづ此方(こなた)へ御昇(あが)りなせへと饗応(もてなさ)れ、其の言葉に従ひ座敷に通れば、八畳の間一間の床の間に次は一間の床脇あり。次の間は六畳にて前は四尺巾の椽側あり。南の方は一間に六間の板間あり。先を土間口広くとりて大地炉(いろり)あり。此の家屋の建様は畳を敷くべき所は八畳と十二畳の処、皆板間にして、如何にも経済の建築法なれば、此の御建築は幾年頃に建てられしと問えば、角太郎氏の申す様、此家(これ)は元祖の家焼失後、多助様が参られて再興の時は茅屋(かやや)なりしが又其の後、御先祖の年回忌の時、瓦屋根に建て直をしたる時のままでありますと申せしなり。是にて多助が経済に長じたる事を知るべし。初代多助再建の社は山王権現(日枝神社)なり。羽場村の鎮守なり。
_羽場村百三十戸、字下新田三十五戸、旧名主山口七郎兵衛。昔は天領なり。旗本千三百石須賀沼米吉(よねきち)殿支配地なり。
_羽場村は昔二百七十石斗、多助時代には原沢善右衛門名主役なり。原沢太七より金右衛門と云ふ、当今は祐次郎と云ふ。家号(いえな)を万屋(よろずや)といいし由。此の太七は塩原の縁りありて、初代多助と懇切の交はりあり。家に多助の書類ありと聞きし故、塩原の長男安太郎氏案内して原沢の家(筋向ふ)に至り、近づきになりて書物を見るに手紙あり(記者いふ、左の文中割註のあるは圓朝が附記せしなり)。
以手紙啓上仕候此間は御出被下候所早々仕合に奉存候然ば御道中つつがなく御かへり可被成と奉存候其砌りはかん中と申をも荷をゑんほうの処御頼申上候段まこと以ありがたき仕合に奉存候はは事もみなみな様万事ゆだんなく御くへほう(介抱ならん)に預り段々よろしくと平右衛門様御出手紙御はなしにて家内一同に大よろこび殊に今日は御同前としこし(年越歟)にてよろこびのあまりに
おやの手にあまつて江戸へおひだされ
またてににぎる年こしのまめ
おにはそと福は内ぢうまめだらけ
目出たいやこゑやひらめのだい所 内物
志ろみすながすよろすよまでも
と申て家内一同に目出度ははをゆわへ(祝ひ歟)申候御わらゑもかへり見ず申上候ますますはは事をゆだんなくかゑほういたしくれ候やうにおませ小太郎方へも御きをつけ被下候やう奉頼上候万事は此間御頼申上候通りよろしく頼み上候右参上仕目出度御礼申度と存候と□□(何かわからず)御座候以上
十二月廿三日 塩原太助
原沢太七様 親
同 源次様 忰なるべし
人々御中
_此の手紙は太助の実筆なれば、仮名ちがひ落字も其のままに写し置き、其の他は丹ざく数枚(かずかず)を見るに、
□*2のしるしを□*3に成りたるうたにて
江戸中のすみから炭のうり初めは
けふ山口のくちをひらひて 川 面
両涼みを題したるにや
納涼 両国のすすみ舟より舟へふね 川 面
かせさえはしの下を通さず
たらちめの年賀をことほ喜よめる
鶴の千代亀のよろづよつきたさん
八十八を数とりにして
太助の俳名 寿 算
其歌の返し成るや寿賀
長生のかひもこそあれ耳も目も
見聞よろしき御代に暮して
原沢の二代目の狂歌あり題時鳥
から崎の松に今宵の時鳥 原の細道
音をききによる雨のふるさと
同三代目題寄水鶏恋 広 望
晴れぬ間は雨とおもひし卯の花に
風のわたれば雪ぞちりぬる
_これを見れば此の家には似ぬ原沢氏は代々狂歌好歟。
四代目原沢氏題旅宿嵐
ふる里をへたつ枕にかりかねの 繁 樹
たよりも更にあらし成りけり
_それより一度(ひとたび)塩原の家に帰り、二男栄次郎氏を案内に頼み、太助の菩提寺に往かんとする折、雨振り出だしたり。二男は半沓をはき、蝙蝠傘をさして先にたち、裏山に登り杉の林の下路を往く。此処は山王の神社なり。樹木の影に石坂と社殿見ゆる所より二町下れば田畑あり。中道を往く事五、六町、山道なれば殊更遠く思はれたり。またまた西の方の石坂を登るに、左の方に苔むしたる戒断石あり。石面に葷酒不許入山門と深く彫刻(ほり)付けたるは月秀(げっしゅう)書とあり。大門を入れば、正面本堂にて東谷山(とうこくざん)の額を掛けたり(此の寺の石坂の下に、馬頭(左角)観世音の石塚あり。太助の飼馬(かいうま)、青を葬りたる跡なる也)。唐戸を開けて内に這入れば、九間の板間は惣朱塗にて、なかなか立派なる建築(ふしん)なり。本尊は釈迦如来、左りに達磨の像、右維摩居士の像なり。壁観の額、護法の額あり。惣本寺は白井村の総林寺(そうりんじ)末、下牧(しもまき)村なる玉泉寺末にして、広福寺とて曹洞宗の禅林なり。開山は天文四未年十一月廿日早世、透津元俊(とうしんげんしゅん)大和尚なり。二世は明暦二年七月三日早世、興学庵長芸(こうがくあんちょうげい)大和尚とあり。天明年間には鉈翁鉄眼(だおうてつがん)和尚なり。太助が別懇なるは鉄眼和尚なるよし聞きぬ。鉄眼僧は十一世物外春暁(ぶつがいしゅんきょう)和尚は知識にて文化十一年甲戌年十二月廿五日早去(しきょ)ありし故、太助が老年再度国へ往き、親しく会ひたるは此の物外和尚也。其の弟子にして物外春暁和尚は、江戸の塩原の宅へ招待されし時には、鉄眼和尚は十一歳の時にして、柏餅を製造する手伝ひをせし事ありとの事にふれては物語られしといふ。太助が本所にて一家を立てて再度(ふたたび)帰国せしは、安永五丙申年とあれば、其の時の住僧は広福寺の十世にして、寰海龍堂(かんかいりゅうどう)大和尚なりと当住八木素遵(やぎそじゅん)和尚の云ふ所なり。又当寺に太助が寄附せし十六羅漢の画幅十六幅あり。是は太助が出入屋敷の大名隠居の画なりといふ。又本堂の丸柱に掛ける、紺地に雲龍を金襴織なしたる旗四巻あり。裏地の白木綿地に寛政二正月三朝、上州利根郡羽場村広福寺什具、十一世紺地金襴水引垂四本ノ内、施主塩原氏親類原沢氏とあり。是物外春暁和尚の筆なり。欄間には当住の師、禅翁仏山(ぜんおうぶつさん)和尚書きたる大額をかけたり。是より和尚の居間に通りて元祖太助の回向を頼み、心ざしの布施を出だしたれど、法名を和尚は知らずといふ故、拙子書きて出せば、是より本堂にて読経ありて懇ろの回向なり。其の中に高き膳に大きなる本椀をのせて出だしたり。何の馳走かと椀の蓋を開けて、圓花と顔見合はせ暫時箸をとりかねたるも可笑しく、椀の中には巾四寸、丈五寸の切餅二ツに茗荷たけ丸ごと三、四ツ入りし雑煮なり。なかなか見た計りにて満腹と云ふ大物(たいぶつ)なれど、せっかくの馳走なればヤット一切食うと御替りの椀出でる。これには困り入ったり。跡は圓花にさづけて、拙子は満腹なりと申して断れば、圓花厭いや食う様子は余程可笑しかりし。やかて広福寺を出て、塩原の宅に帰れば、いつの間にやら酒肴の用意あり。此の家よりの知らせと見へ、親族(しんるい)集まり居たり。第一に荒巻村の下条善十郎(下新田より七町)、来たりて正席に座したり(六十二歳)。此の人は多助の老婆の親族(三代目太助の)、父は善之助と申せし由なり。今一人は吾妻郡(大字分家)岡崎新田荒木彦六(五十一歳)。此の人は塩原彦六とて五代目にて、父彦六は血筋なりとの由。今一人は(七十七歳にて)関小三郎、本姓惣兵衛とて、五代目の塩原の従弟(いとこ)にあたり、娘は(惣兵衛の姉は)塩原に嫁すと云ふ。下条善十郎の嫁は、後閑村の櫛淵(くしぶち)太左衛門(八弥長男也)。神刀一心流の剣術指南を致し、後に一つ橋公の御馬屋をつとめ、嫡子長太郎は江戸市谷柳町或は山伏町の横町に住みしともいふ。此の櫛淵太左衛門の娘が、下条善十郎忰善二郎方へ嫁に入るといふなり。初代太助は実子なりとも貰はれ子とも云ふ。継母に実子産まれてより家出をせしといふ。また馬をつなぎし場所は、吾妻郡香才村(こうさいむら)(小高き処)雨の宮の前なる松に馬を繋ぎ置きて逃げ去りしともいふなり。また太助は江戸へ出でて薩摩公の馬屋の別当に使はれし故、定紋は□*4なりしを□*5を紋に付けたりとも云ふ。多助再度(ふたたび)国へ帰りし時、横堀村と中山峠の中間(あいだ)に掛茶屋ありて、其の休茶屋の爺父婆(じじばば)を憐みて銅(からかね)の茶釜を鋳させて接待茶を出だす。それより往来(いきき)の人、茶屋が松といふて名高くなりしとの噺し、此の釜は水四升入りにして、前□*5の紋を付け、江戸鹽原と左右に鋳抜きたりとも云ふ、時世変はりて往来(いきき)年々に無く、後世の茶屋此の釜を金三両の質に入れたり、臼根村大字恩田村の高橋又右衛門(質店)方にあり(当今は三十円にても売らざるとのはなし)。
_長太郎は東京(旧江戸)市谷柳町とも云ひ、又山伏町の横町とも云ふ。櫛淵の家は、(幾代目にや)太左衛門の三女(むすめ)おかく、三代目塩原太三郎の妻と成り、(或は妾とも云ふ)、姉娘お長(二代目彦助の姉也)の為に非道にされて、鎖釣瓶の内井戸に入水して死す(十九歳の時なりといふ。天保九年三月九日の事)
記者いふ此処に三国道等の里程あり略す
なりと塩原親族の咄しなり。
_其の中に広蓋へ茄子と椎茸に芋、茗荷等を煮つけ、菜のしたしものに平椀に焼豆腐、菜、椎茸、茗荷に、いつの頃とりしや鮎の干からびたるをのせて出だしたり。主人角太郎氏、酒を徳利に入れて持ち出だし進めたれど、拙子酒は不飲(のまず)と申せば、越後の味淋酒をとり出だしての饗応(もてなし)に、無余義(よぎなく)盃をとりて差し出だせば、亭主の杓にて盃の中へ味淋をつぎ入れたるに、中より蠅の死んだるが三疋出でたり。是はと心中に驚きたれど、直ぐに其の徳利を取りて亭主に一盃つぎ入れたれば、また蠅は四疋出たり。亭主は其の蠅を子指にてかき出して呑みてさしたる時に、拙子(われ)心中にて、西洋医が見たら此の地の人々は長生きはあるまひと云ふべし、実に何事にも物に習慣(なれ)る時は害にもならぬもの也と考案(かんがえ)が発(おこ)りしと、後に圓花に申したり。是より暇乞ひして立ち出でたれば、塩原角太郎氏の妻君おとも(四十四才)は、今日は彼岸の入りなりとて団子を重箱に入れて出だし、御帰りかけに墓参なさるなら石碑へ手向けて被下(くだされ)とて、二男に持たせ、親族は不残連れ立ちて帰り道なる(一町半)墓所に来たりて見るに、此処は畑中に杉垣にて囲ひ、中には三段に墓碑あり。前に五碑(ごほん)、中に五碑、後ろに五碑、前右の角が初代多助の墓にて、後の右の角は塩原彦六(今荒木氏なり)の墓なり。東向きなりといふ。其の時、彦六氏が吾は塩原の初代の血筋なりと云ふて、日記帳出されよ、吾実印をすべしといふに、拙子懐中より日記帳を出せば、図の如き(記者いふ、図には丸の内に稍四角形をなしたる唐草模様あり其中に隷書にて鹽(傍点)の字ある是れ一個と其の下に四隅を丸めたる角の中に隷書の原(傍点)の字あるものと都合二個の印影を筆写して記したり)印ををしたり。いかにも正直律儀の人々なりと感服なしたり。其の時、持参の団子を三ツ五ツ墓碑(はか)の台石に乗せ、土瓶の水を石碑の頭(かしら)よりかけたり。皆々共に拝して道に出で、親族に別れて人力車(くるま)に乗りて立ち出でたり。雨ふる中を急ぎ、大竹屋助右衛門宿に帰りしは七時過ぎなり。早々風呂に入りて、鮎にて夕飯すみ、後按摩を呼びて草臥足をもませながら、当地の事を尋ねしに、此の按摩は沼田産まれにて、加藤某(それがし)と呼び、諸所の事柄を宜く知る者なり。近年東入りの小川村の温泉の北の方の山より銅山を発見したり。銀分多くありて、四分とれるとて、道路日光の方まで開き、馬の通ふ事は日々七十頭に過ぎるといふ。又沼田には城閣なし。御殿といふて柵を打廻し、今の学校の有る処が御殿なり。此処を大手といふて、左の方に家老、右之方に用人住す。其の前の通りに役人の長家ありしなり(当今の倉内町)。其処に御勘定奉行と裁判の奉行所あり。御目附の住居(すまい)し其の横町に百人組を置きて、此処(これ)に足軽小頭等住居したりとの咄し。
_当地の産物は、一、真綿 一、蕨(丈五、六尺) 一、本葛、一、かち栗(四、五斗入位は子供がひらふと云ふ)馬に三、四駄、廿四、五円の相場と云ふ、 一、山独活を雪割といふて、雪中に頭を出だして(丈三尺余)真白にして和らかなり。
_土肥公の家来下役の内職は(江戸屋敷にても) 一、巣底とて、馬の毛にてすいのふの底を作るなり。 榊原公、牧野公、土肥公、三家ともに製造(つく)る故に高田底、上田底、沼田底と云ふ由。
_又、塩原多助の咄し出でたり。多助は、碓氷峠の熊野権現の別当曽根采女方へ申し入れて、馬の飼馬接待を出だせし事ありとの咄しに、二人前の療治を致し、遅く成りて按摩は帰りしあとにて、雨の音聞きて、
二度雨は晴れて長き夜成りけり(記者いふ一字落字あるべし)
_隣席の客三、四名、早立ちとて此の家を十二時に立って十二時の汽車に乗らんとて、大騒ぎにて椽側バタバタにて共に起き出でたり。
_廿一日、朝霧深く、雨の如く露けきに、
雨と見て立をくれたり朝の霧
_朝飯を急ぎ、出用事を日記に書きとめ、出立の用意をする折、宿の老母(六十三歳)は、大きな籠に渋鮎を入れたるを土産にとて贈られければ、是を人力車につみ入れて、
渋るたけ身の重々し鮎の形り
_此の家を出でて、棚下まで来たる。昨日の雨にて路はわるく、谷川の水増して、音高く聞こえたり。川向ふは岩石屏風を立てたる如く、峰には赤松の枝振り面白く、山々の樹々紅葉染めかかる有様、言葉に尽くしがたく、これより少しづつ登る路に成り、やうやう桜の木迄来る。是からは下りと成りて、長坂村の藤本屋に休みたり。此村(ここ)より渋川迄一里十四町、此の家に村の人三、四名居り合はせしが、拙子(おのれ)が下駄がけに大き成る旅持の煙草入を提げたるを見て、角力とりと見たるや、三、四人の者コソコソと角力の噂さする故、わざと肩を張らせどす声にて、圓花を行司のつもりにて話したれば、猶々角力取とおもひしは可笑しく、
よわさふに見えても何こ歟角力取
_是より渋川の馬車会社に入る。此の鉄道は碓氷峠のレールを敷きたる故、乗りはづす事なく、飯塚とあら町の停車場まで通車するとは便利なり。(十二時三十分)発車まで間(あい)だもあれば、丸万坂田孫次郎といふ中喰(ちゅうじき)場所に入りて休み居たるうち、発車と成り、早くも青梨に立てる。それより金古村にて馬つぎ替へと成る。此の所は高崎より来る馬車と往き違ひに成る所故、向ふより馬車の来るやと待てども待てども来ず、(一時間余)待ちあぐみたり。乗客の中には横浜まで帰られずとぼやくもあり。或は会社に掛け合ひて、賃銀を取り返して人力車にのらんとするものもあり。さまさまに御車(ぎょしゃ)に掛け合ふ。馬車会社の者、しきりと詫を云ふ折から、向ふより二頭引の馬車見えたり。跡の馬は怪我せしならんと云ふに、一人の別当肌馬(はだかうま)にまたがりて、むち打って見に往く有様面白く、拙子(おのれ)と圓花は下車して掛茶屋に休みゐたり。其のうち馬車時間にはづれしとて発車と成り、四、五丁往くと、向ふより一疋馬車来たるよりレール一筋なれば、乗客(のりきゃく)皆下車して乗り替へ、やうやうと高崎に来たり。此の馬車の為に(二時三十分)の汽車の出とまでをくれたり。此の馬車は碓氷峠の鉄道を引きたりと聞きて、
細ひのはしほん二本の鉄道も
元(本)が碓氷の馬車会社なり
_汽車室に乗り込み、弁当と鮓を買ふて食ふ。是は食はぬもよかりしと圓花は云ふはよくよくなり。其の日は熊谷に下りて、本間兵衛(ほんまへいえ)氏を尋ねたれば、老母初めおとみも悦び、まづまづと座敷に通しての饗応(もてなし)浅からず。其の折、青柳氏より鮎を贈りたり。夕飯の馳走に其の夜は宜くふしぬ。
_廿二日、朝霧深し。馬士は歌を唄ふて通るを聞きて、
張りあげし馬士の古唄や霧の中
_朝飯の後、ゆるゆると支度して、十時二十四分の発車に乗りて帰らんと、人力車を停車場まで雇ひ、皆々に別れて熊谷の停車場まで来たる。下等の切符にて乗り込めば、乗客(のりきゃく)は商人のみにて、股引に日和下駄をはき、織色の風呂敷包みに木綿真田の中結ひをせしを片手に提げたるもあり。或は伊勢崎織の羽織に蝙蝠傘を持ったる人のみ多し。其のうちに、桶川より大宮と走り、早くも赤羽にて乗り替へ、五分間のうちにたちまち板橋、目白と早や新宿に着きたれば、いつもの茶屋にて腕車(くるま)を雇ひ、やうやう帰宅して昼飯をする支度の間、足を延ばして、
日数ほと瓢育つや旅の留主
(注記)
底本は,演芸世界社, 演藝世界, 23〜28 (1903)
原文は旧漢字,旧仮名遣い,総ルビつき,句点なし
=原文からの変更点=
・旧漢字を新漢字に変更した.
・踊り字については,"々"を除き,書き下した.
・ルビは括弧内に記した.大部分のルビは省略した.
・一部の送りがなをルビから追い出し,書き下した.また,一部の読点を補い,一部の読点を句点に改めた.これらの変更点については,文字色を灰色としている.
・文頭の字下げを行った.
・以下の5つの文字・記号は表記できなかった.
□*1:こおろぎ.虫偏に車
□*2:カネ(右上隅角)の中に+
□*3:山形(屋根冠)の下に口
□*4:二重になった菱形の紋
□*5:○の中に+の轡紋
・原文にある無記名の記者註については,著作権の消滅が確認できないが,圓朝筆の部分と異なり,削除・改変を加えずそのまま掲載した.