『歌舞伎新報』などに掲載された初代談洲楼燕枝の小噺・三題噺を掲載.一部表記変更
一口噺
○次も菅原と千本のお話しでチトお目蒼蠅(うるさく)ハ思し召ませうが、弊社の彦作(ひこさく)が新富座へ出勤中、過日さるやんごとなき御方(おんかた)と共に芝居見物に参られし例の落語家柳亭燕枝大哥(あにい)が、狂言を見ながらの即席ばなしを二ツ三ツ筆豆(ふでまめ)の端紙(はがみ)に認(したた)め、こんなものが出来たから御一笑と彦作の許へ寄せられましたが、其の儘反古に致すのも勿体なしと新聞記者の一癖(夫とも商法づくか)、左(さ)にのせてお笑ひに供します
○道明寺の場「太郎の役ハ毎日替ると云ふが毎例(いつも)團洲(だんしう)と梅幸(ばいかう)莚(えん)升丈の持切(もちきり)だが堂云(だういふ)訳だ「夫だから勤人(して)が宿禰(すくね)へ
○車引の場「けふ末廣屋が時平(しへい)をしたとき「オイオイ今車の中(うち)から出た俳優(やくしゃ)ハいつか紙屋治兵衛をした人の兄弟か「ナゼナゼ「夫でも梅王が疑(うたがひ)もなき治兵衛が弟(をとと)だと言つた
○寺子屋の場「小(こ)一に居る客ハ序幕から寺子屋のまくまで弁当計り喰つてゐるのをアレ見な、役者衆が気にして玄蕃(げんば)が思はず「弁当よく喰つた (あとハ次号のお笑ひ種(ぐさ))
歌舞伎新報,125号(明治14年2月20日)
○柳亭燕枝丈が一口噺し(前号の続)「千本桜椎の木の場」「おいらハ小金吾(こきんご)の討死ハ家橘(かきち)のが一番いい「其筈ヨ、いぜんの苗字が上市村(かみいちむら)だ「すしやの場」すしやの弥助ハお里と枕らを並べただけか夫共(それとも)とうから能中(いいなか)になつてゐるのか「ナアニ手を握ツた計りだ「御殿の場」忠信をする日に菅原の源蔵を勤めるハ苦労だらふナ「さうヨそれゆゑ狐になつて源苦労(げんくろう)といふ。なぞチト化されたやうな寝言ながら片隅へ出して頂戴云々(しかじか)とありましたが、当意即妙はなしが出来て作意のあるハ実に鬼に鉄棒(かなぼう)と謂(いつ)ツべしとハ出社張(でしやばつ)てゐる彦作が添筆(そへふで)にござります
歌舞伎新報,126号(明治14年2月26日)
切落しばなし
東京噺の作者 談洲楼燕枝
○春木座の上方芝居を見たか。 アノ芝居を見物仕ねへ奴が有る者か、実に役者ハ皆達者揃いの奇麗首そして一切毛色が違つて珍ら敷く、木戸が一人前六銭の追込で、早く行きやァ負けの切符を呉れるし、場所ハ勝手に近い所を取るだらう、先(まづ)第一朝飯の喰置(くひおき)を仕て行けバ一日喰はずとよし、茶腹も一時と言ふが茶ハ向ふから幕毎の間についで廻る、はね前に成ると下駄の鼻緒を詰めてささくれを取つてそうじ迄して持つて来て呉(くれ)る勉強芝居と噂を鳥熊(とりくま)と言ふ太夫元にハ恐れ入るぜ○而(さう)してぬしハ景物ハ貰はなかつたか○馬鹿を言ひなせえ、彼様(あんな)に安く見せて誰が景物迄呉れるものか○自(おい)らハ又朝から晩迄芝居の幕毎に接待の茶をがぶがぶ呑んで帰り掛けに小便を沢山して遣つた故、大根を一把取つて来た
歌舞伎新報,547号(明治18年5月22日)
無題(東京噺の作者)
談洲楼燕枝
○又本郷の咄かと言ふだらうが、不景気の向ふを春木座上景気、此の次の替りめにハ御礼の為として一番目ハ先代、萩二番目が小栗、調度一番目の飯焚(ままたき)が正午(どん)時分で爰(ここ)が鳥熊の膽玉を見せる所サ、平舞台へ大釜を据ゑ附けて、政岡沖の井松島を始め奥女中の役者惣出で充分に飯拵らへをして大板(おおはん)ぎりへ移し、鶴喜代千松の子役も手伝い、切落しの客へ煮染附きの弁当を銘々へ出すと言ふ大趣向ハ実に憤発、是でハ栄御前の栄へにさかへ八汐に増て大入ハ仁木(につき)の術の鼠木戸迄爪も立たぬハ請合と、只の鼠じやァねへ茶屋の男之助が咄したが、そこへ気が附きヤア外記(げき)の本名実説に伊達秋迄ハ打通すぜ○嘘を言ひねへ、毎日二千人も三千人もは入(いる)見物に飯を喰はしてたまる者か、併し非常な事をする太夫元故何とも言へぬが、十銭位に値揚げでもするのか○ナアニ其の上に今迄より一銭下る○ヘエどふ言ふ事で○ハテ飯焚ハ五銭場(ごせんば)だ
歌舞伎新報,550号(明治18年5月30日)
扇の風大入はなし
談洲楼燕枝演
千歳(○○せんねん)功へし各座にもおとらぬ座長が非常の尽力是ハ是ハと計り吉野(○○よしの)の花櫓(○○はなやぐら)代物(○○だいもの)の船櫓(○○せんろ)も高からぬ勉強芝居茂る青葉の千本桜(○○○せんぼんざくら)千歳(ちとせ)の千に千本の千を合はせて二千(ふたせん)三千重扇(○○かさねあふぎ)に招れて一番目の后午(ごご)一時より押し寄せて来る客足ハ夕立雲(○○○いうだちぐも)の二番目まで蝙蝠(○○かふもり)むれる浜町河岸に与(○よ)三郎の興行ゆゑ納涼(すずみ)芝居の風入(かざいり)と倶に実入りも重分な切らレお富(○○おとみ)の富をなすハ赤間(○○あかま)も及ばぬ侠客(○○けふかく)の腕競べ上下(うへした)共に俳優(やくしゃ)衆ハ欲を放れて無給同様大立者も皆原(○○みなもと)方がよし経(○○○つね)に成るにふと忠信イヤ只の分(○○○ただのぶ)で御出勤とハ大奮発民百姓(○○○たみひやくしやう)より出方の喜び実に初音(○○はつね)を菊(○きく)旦那○ナニ静(しずか)に言へトイエ是計りハポンポン言ひ升初日から側連(○○かはつれ)が立つて飛鳥(○○あすか)らハ客留と四天王ハ確判(○○かくばん)を押して保証する所さ僕(やつがれ)ハ此の納涼(○○すずみ)芝居を賛成して安値(○○やすね)の涼みと名附タモタモ[くの字]
狐にあらぬ夢野の鹿の
談洲楼燕枝演
歌舞伎新報,567号(明治18年7月22日)
追善手向の噺
談洲楼燕枝述
尾張の国名古屋の旅宿定紋の鶴屋が許に友人高助(たかすけ)丈の身まかりしと聞きて、ひゐき連中打ち寄りて 甲「私しハ諸新聞に助高屋(すけたかや)が死んだと出て居り升ても嘘だと思つて居り升たが、歌舞伎新報に委細(くはしく)書いてあつたので○にいの字とちぢめ升た 乙「もとの小づちへ帰らふとハ夢のやうだ 甲「手向の観世水(かんぜみず)も氷(こほ)る思ひで御座(ごぜ)へ升ねへ 乙「ひゐきと云者ハ格別なもので、去年出立前に暇乞に来た時に己(おれ)が心に浮んだハ、父が終焉の土地ゆゑ墓参かたがた下るなら、前名(ぜんみょう)澤村訥升(とつしょう)で行きなさいと進めたのを助高屋高助で往たから、永い別れに成つた 「ソリヤアどういふ訳で御座り升へ 「考がへて見なさい先(せん)高賀(○○かうが)消たところだ
聞馴染(なれ)て聞かぬ夜淋しむら千鳥 談洲楼
香(か)にむせて袖ぬらしけり雨の梅 柳 枝
当る名ハきえても残る巨燵(こたつ)かな 小さん
歌舞伎新報,631号(明治19年2月14日)
大入はなし
談洲楼燕枝演
「新富座の夢物語りに團洲師が崋山(くわざん)先生の役にて舞台にて扇面二本へ染筆の画(ゑ)ハ、得意の牡丹と竹を画(ゑが)かれるので、日々乞ふ者の沢山ある中に、左團次丈にも何か画いてとひゐきの客に迫られるゆゑ、小崋(せうくわ)先生の門に入つて画を習ひ、長栄(ちやうえい)宅の場にて扇面を認(したた)める事にするさふサ 「やはり牡丹や竹か子 「イイエ蘭医気(らんゐき)を入れてゐるとサ
歌舞伎新報,673号(明治19年6月22日)
吉例おとし玉
談洲楼燕枝諜
「時にお爺さん、おまへさんハお道の方じやァ大先生だし、夫に木場の親玉から当時の堀越先生迄代々市川贔屓の講元故、今度市村座の教言(けうげん)ハ初日から詰切で厶へ升ふネ 「私し斗りじやァない、日本全国の人ハ貴賤となく見物仕ない者ハ有るまい、三日間開場式の景況でも大入ハ知れた事だ 「私しも座主善四郎氏(さん)の招待を請けて参り升たが、三番叟といひ会稽(かいけい)源氏の対面実に面白い事で有り升た、アノ中幕ハ引続ひて見せ氏[升カ]ふが梅田神垣(うめだのかみがき)ハ出揃つてから見物仕様(しやう)と思ひ升が、八日目か九日目当りが能(よう)厶い升ふかな 「吐普加美(とふかみ)見たまへ、吐普加美見たまへ
歌舞伎新報,859号(明治21年1月14日)
一月
談洲老人講
「門口や柳も客を松の内ト反故菴白猿(ほごあんはくえん)の名吟にあるが、 新年第壱番の礼者は百花園主人だ、目出たい目出たい[くの字]、二番ハ誰が来るで有らう
「ヘイ燕枝の御祝儀を申上升
百花園,17号(明治23年1月)
勧進帳・安珍・鞘当
(早稲田野生寄題)
甲「コウ観さん、歌舞伎座で道成寺で大入を〆た成田屋が、 また今度新富座で例の勧進帳だ、これも初日から大入りは請合だぜ
観「アノ道成寺の狂言は、安珍と云ふ美しい山伏を清姫と云ふ女が追駆けて日高の川を渡る所、大蛇に化(な)ッたと云ふが、山伏と云ふ者は総て人に追駆けられるものか子
甲「何故何故[くの字]
観「デモ安珍は清姫、義経主従も追駆けられて安宅へ逃げて来たではないか
甲「あれは弁慶の策で、山伏姿とやつして奥州の秀衡の許へ落ちるのサ
観「夫れでも安宅の関の木戸〆めて、安珍帳を読むぢやァないか
甲「エゝ悪い洒落を云ひなさんナ
観「甲さん、安宅の関と云ふのは尾州の城下だ子
甲「何故何故[くの字]
観「それでも頼朝義経が不破だから、名護屋の訳だ
玉藻前・俊寛の鏡・いつまで草(くさ)の鉢植
(浅草山猿寄題)
○「モシ旦那、今度珍しい盆栽を大分お求めに成つたと聞きました故、友達を大勢連れて拝見に出ました
主「ムヽ左様か、まづ大勢は待たし置いて貴様だけ這入るが宜い、一時にごたごた[くの字]されては困る、サァ是れを見やれ
○「ヘイ是は珍しい藻の様でござい升ナ
主「此の草は天竺から唐に渡つて、此の日本へ来てから玉藻と云つて美しい草サ、真白な花の色が段々黄いろく化けると葉が九ツに裂けるヨ
○「ヘーイそれは不思議な草でござい升、シテ此の竹は
主「是か、是は洞が竹と云ふのだ、此の葉に縞があるが、是は器械で拵へるから器械が縞と云ふはサ、裏の方に植添へてあるのが天下一品の南天だ
○「此の薩摩の鉢へ植ゑてある草は
主「これがいつまで草サ
○「これかヘーイ始めて拝見致し升、オイオイ皆な此方(こっち)へ来て拝見しな拝見しな[くの字]
主「コレサコレサ[くの字]、外の友を呼ぶのは宜いが、後は四人よりならないヨ
○「旦那何故でござり升
主「ハテ、いつまで草だから五人ぎり(○○)だ
土龍(もぐら)の天昇(てんじょう)・太公望の花見・撥のない三絃(さみせん)
(在大坂西言彦寄題)
甲「乙さん、今お前の話しを聞き囓つたら土龍で天上したとは何んな事だネ
乙「イヽエサ、今私しが丙さんや丁さんに話し掛たのはむぐら(○○○)の宿に閉居して居た太公望も周の文王に見出されて昇天した噺サ、併し賢人でも聖人でも出世すると少しは贅沢気が発するもので、花見に出かけ様と酒肴(さけさかな)から三絃まで馬車の中へ趣向して押出すと、途中に居た女乞食が物を乞ふと馬車の内を覗いて見ると、分れて程へた夫が高位の人になつた様子故に急になつかしくなり何卒(どうぞ)元々に戻して呉れと頼むと、太公望は何とも云はす三絃計り取出して女に渡したと云ふが分るか
甲「その位の事が分らなくつてサ、夫れは馬氏(ばし)(撥)を捨てたと云ふのだ
百花園,25号(明治23年5月)
三代記・歌祭文・黄鳥塚(うぐいすづか)
柳亭燕枝述
さゝ啼(なき)と言は因(ちなみ)も奥深き呉竹の根岸なる初音の里に永らくお住居(すまい)なさる所から、永らくと申すべきを誤つて名柄(ながら)の長者と俗に呼ぶ縉士(おれきれき)が厶り升たが、至極遊芸がお好きで種々(いろいろ)な芸人達が立入る事で有りましたが、今年も新年早々一時油屋をして幇間(たいこもち)ほど儲からぬと言た愛嬌者の吉原の序作(じょさく)と善六がスツトお次まで通り、ヘイ油屋で厶り升ト言つたか胴だか、ヘイ善六で厶り升 (御前)オゝ誰かと思へば序作に善六、恰度宜い所へ参つた、只今久松町からお染も来て母と風呂へ浴入(はいり)てをる、序作といふてのお腹立と言つたか胴だか 「エゝ夏蠅(うるさ)い奴ぢや、コリヤ忠大夫、妻の梅ヶ枝を呼べとの仰せに、家扶忠太夫立上る時、今そこへいくよ 「オゝ二人名柄久し振りぢや、何しろ源吾(げんご)で重畳(ちやうじやう)ぢや (御前)イヤ奥が大分鶯塚で洒落るの、オヽ夫れに付て思出(おもいだ)したが、市村座は今度此の狂言ぢやそうだが、外(ほか)には何を致す「ヘイ中幕(なかまく)は此方(こなた)で御贔屓の播磨屋の出し物、鎌倉三代記 「シテ三浦は誰かスルノ、夫は無論親方で厶り升、ハヽア夫れでは今度の芝居も亦時(とき)しめ(○○○)か
紅葉館の能・侠気(おとこぎ)の芸妓(げいしゃ)・士族の車夫
柳亭燕枝述
ちよッと聞きたまへ、昨日芝の紅葉館から金春の芸者を乗せて来たところ、其の芸者が「モシ車夫(くるまや)さん私も今迄随分達者な車にも乗つたがお前の様に早い車に乗つた事はないよ実に上手だそ[とカ]いふから、「ナンノ早いどこで御在ません誠(まこ)とにお気の毒です、幾ら急いで来(まゐ)らうと存じましても、根が士族の零落(おちぶれ)だけおそくつて嘸(さぞ)姉さん方は焦(じれ)ッたう御在ませうといふと、直(すぐ)に車から飛び下りて、士族と聞いてはお気の毒にそんじます、余り少ないがと言つて二円紙へ包んで呉(くれ)たァ 「ムゝ其奴(そいつ)ァ甘(うめ)へ事を仕たが、一体其の芸者の内は何所だッた 「観世新造(くわんぜじんみち)ヨ 「そりやァ手前の謡込(うたひこみ)が宜かつたのだ
土龍(むぐら)の天上・太公望の花見・撥のない三味線
(上記『百花園』参照)
官員の山巡・職人の花見・商人(あきんど)の橋普清(はしぶしん)
(下記『三遊れん新作落ばなし』参照)
勧進帳・安珍・鞘当
(上記『百花園』参照)
玉藻の前・俊寛の鏡・いつまで草(くさ)の鉢植
(上記『百花園』参照)
新作滑稽落し噺,井上勝五郎(明治23年)
人真似猿
談洲楼燕枝講述
今年は申年とて華族を始め伸士(しんし)豪商方より猿曳(さるしき)をお招きなされて猿舞を御覧になる故、暮れの内から猿曳方へ御使が来るを、猿共は聞込みて中にも功を経し年古大猿、時こそ来たれと中間の猿へ廻状を発し、日吉山王の山へ大勢集め、大猿議長席に立上り
扨て今晩諸猴(しょこう)をお招き申したは外ならず、知らるる如く本年は甲乙(えと)に当る年なり、一体我党は人間に三本の毛が不足して居る故畜生道に産まる、彼の落語に白犬は人間に近いとて八幡宮を祈りて追(つい)に人間に成りしと言ふ、我か祖先(せんそ)は猿若勘三に舞を教へ、其の后(のち)の祖父は中村伝九郎に朝比奈の申隈(さるくま)を伝へ、代々技芸をもつて生活を立つる年頃祈誓(きせい)を掛けし当日、日吉の神の加護に因て当年こそ人間界に入り、一個の俳優となり、白猿(はくえん)の息(そく)團洲の上に立たずとも、三猿猿之助と肩を並べ得意の腕を震ひ、猿か人真似なぞと暴言(ばり)せし奴等の膽を冷やして呉れん、諸猴も御由断なく一日も早く人間にならん事を希望すトの発言に、満上(まんじう)キャッキャット賛成の声拍手と共にひびき渡り、一言の原(もと)に決し、めいめい[くの字]退散す、其の日は即ち明治廿九申年の元日、一陽来復の世間賑しく、いつもの通り大猿は、猿曳の肩に乗つて市に出、得意廻りをなせしが、前日より御約束の門(かど)多きゆへ、猿も舞ひ草臥(くたび)れ猿曳も常より番数の多きに逆上(のぼせ)あがり
猿引「お猿は目出たやめでたやな………ト唄ひかけると鼻血が出て、たまらず懐より紙を出して押さへも押へ切れず困り入るるを見て、其の家の下婢が
女中「モシモシ[くの字]私しが鼻血の留まる呪(まじない)を仕て上げ升せうト猿曳の后ろへ廻り、襟の毛を三本抜いて捨てるを、大猿ゑたりと拾ひ取り、立上がつてあたりを伺ひ、三本の毛を頂き
猿「大願成就忝じけねへ
都にしき,1号(明治29年1月)
大森彦七
談洲楼燕枝 投
大森の御前と申し上ぐればツイ此の頃御帰国遊ばせし堀越贔屓の尊き御方、大森に住居(すまひ)して彦七の名演劇を見物せぬ事あるやと思召し立たれしが、芸妓(げいぎ)幇間(たいこもち)なぞ同行するは他の劇場なり、團洲翁の技芸を観るなれバ紳士豪商を誘引し妻君令嬢を募り、明治座を一日買切にして見物なさんと、神速廻状を発せしに、各々主人公妻君とも当日参観の報を返書なすに、令嬢方は誰一人(いちにん)承知の由の通ぜぬ故、御傍(おそば)の者は不審に思ひ (近臣)令嬢方は如何遊ばす御つもりで厶りませう (御前)債主が大森で劇が彦七だから貴女はおんぶで行くのであらう
芝居,2号(明治30年10月)
箱庭の雨・汽車の丸呑・勧進帳
甲「オイ新富町へ行つたといふが、どうだつたい 乙「イヤ一番目の細川の奥方といひ、勧進帳(●●●)でついに泣かぬ弁慶がといふところナンカ、いつも乍ら成田屋のおはこ(●●)(得意)には(●●)涙の雨(●)を催したよ、処が後ろの方に新聞社の連中が来て居て、頻りに堀越の事を悪くいつたから、大切(おほぎり)まで見ないで飛出してしまつた 甲「どうしたんだ 乙「ナニ汽車(●●)(記者)にあて(●●●)(中)られた(●●●)のよ
歌舞伎,3号 (明治33年3月)
職人の花見
團柳楼燕枝
ヤアヤア[くの字]酒をつがせて来たバつかりに一ト船乗りおくれた 「マヽヨ仕かたがねへいつぷくやろふト三人連の大工さんハ土堤(どて)の出茶やへ腰をかけ 「トキニ爰(ここ)の下のつりぼりハたいそうつれてさかなのかたがよそのよりすてきにいゝぜ 「おらァつりよりかすしがめつぽう味(うま)かつた 「ソヲヨ花見のすしにやァ上等すぎるくれへだ 「上等といやァ此景色ハなんと上等じやァねへか 「ソヲヨ向じまハ竹屋の川岸(かし)を見わたした所が一ばんだといふがどふもすてきだナア 「そうよ爰だナアかさゝぎやなぜ橋かけぬ隅田川トワ名句だナア 「ヘン吉松めおつう洒落やァがつたナ 「そこハ吉五郎先生だ 「おきやァがれ 「コヲコヲ[くの字]そりやァいゝが今吉松がはしといつたんで思ひだしたがこんど永代のはしハはしぐいなしに長イはしがかゝるとよ 「ソウそいつァごうぎだが持ばなしにかゝる木口があるめへ 「そりやァ天朝のことだものを木曾山へ木口見分(けんぶん)の官員方が御立になつているとよ夫よりごうぎなのハ其橋を一時間しつたいの請負をした者があるとよ 「ヘエヽそりやァどこの者だ 「ナニつい永代向ふのちくまだとよ 「そいつァちくまだろふがだれだろふができッこハありやァしめへ 「イヤちくまなら出きるだろう 「ナゼナゼ[くの字] 「夫でも乳熊(●●ちくま)一時(●●)の橋といふわサ
三遊れん新作落ばなし,三友書房 (明治34年)
加賀の千代・山王祭・春日局 三題話
談洲楼燕枝口述
○「モシ圓中(えんちう)師匠、山王祭りも二日続(つづけ)の雨天で、新橋芸妓(げいしゃ)も気抜けが仕た様だが、君は歌舞伎座で大商法を仕たと言ふ評判だが、旦那は何処の人だエ △「一席遊子聞いて呉れたまへ、旦那は竹川町の竹さんサ、妓(ぎ)は加賀町のお千代さんサ ○「アヽ加賀の千代が一緒かエ △「竹さんが贅沢者ゆゑ、東の下の四五六と三間物に僕(わたくし)共三名と云ふのだから、起(たつ)て見たり寝て見たり、実に歌舞伎の広さ哉と加賀のお千代には適当サ ○「それでは取巻は君一名で、竹さんとお千代さんきりかエ △「成田屋の旦那を当て込んで、私が竹千代(○○○)のお守役サ (をはり)
三遊落語 福笑ひ,春江堂 (明治41年)
蚤の力持ち・李鴻章の昼寝・韓信
「僕は支那より、この日本国へ渡来せし蚤じゃが、日本の蚤は柔弱じゃ、僕の力などは実に強気なものじゃて」
「ほゝう、それでは、先生の力自慢のお手柄の話を承りたいて」
「ウム、まず僕が力は日本まで雷鳴轟く彼の李鴻章先生の昼寝をさまさせたが、僕の売り出しゞゃて」
「それは,えらいお力でござります」
「ついては、日本の蚤は夏季ばかりで秋の末からは、とんと跡を絶つが、我が国の蚤は冬も勉強するて」
「あの、冬の夜もお稼ぎになりますか」
「僕の先祖などは、漢(寒)の夜で股をくゞった」
民族芸能,261号(昭和63年1月)
(注記)
=原文からの変更点=
・『百花園』連載の三題噺については,3題のみ本文を掲載した.
・旧漢字を新漢字に変更した.
・踊り字については,"々","ゝ","ヽ"を除き,原則として書き下した.
・ルビ及び傍点は括弧内に記した.大部分のルビは省略した.
・一部の送りがなをルビから追い出し,書き下した.また,一部の句読点を補った.これらの変更点については,文字色を灰色としている.