ロシア語版 『牡丹燈籠』 序文
(徳利旅 訳) 
  ロシア語版牡丹燈籠書影  Pionovyi Fonari, Khdozhestvennaia Literatula, Moscow (1976)

 日本の小説家,三遊亭圓朝(1839-1900)は東洋のすぐれた語り手の一人である.彼は“シャフラザダ”[「千夜一夜物語」の語り手である娘の名]の弟である.
 語り手や歌い手の口から発せられる聞く言葉は,見る言葉より先行していた.しかし,文学が生まれ,開花した後になっても,“聞く本”は,あらゆる年齢の人に愛された.話芸は不滅である.芸術的な朗読家ウラジミル・ヤホントフは話芸についてこう語った.「人はほとんど何も必要としないほど完全なものです.時にスカーフ,時にろうそく,声,手,広場のじゅうたん…….世界を包み人々に与えるためには全部かもしれないが.」1)
 文学史上,才能ある作家がすばらしい朗読者であった例は多数ある.ゴーゴリ,ディケンズ,マーク・トウェインの名をあげれば十分だろう.ディケンズは自分の小説をもとに,舞台上演用の作品を特に作った.このように著作は口唱作品になっていった.
 しかし,その逆もよくある.三遊亭圓朝の最高傑作である『牡丹燈籠』は,“聞く本”として誕生し,その後文学になった.しかし,『牡丹燈籠』が誕生するには,日本には高度に発達した小説と同時に,古くて豊かな話芸文化が存在せねばならなかった.
 話芸は文学と演劇と関係がある.複雑で起伏に富む筋立てと多数の登場人物を持つ面白い作品を三遊亭圓朝は自ら案出し演目とした.彼の“聞く本”は真の演劇性を有していた.三遊亭圓朝は対話形式の創作に優れており,悲劇的な場面と喜劇的な場面とを交互に展開させることができた.彼は,ある時は客を恐怖で震わせ,またある時は抑えようもなく笑わせた.
 俳優はそれぞれ,ある劇の役から別の役へと新しく表現をして行かねばならないが,通常は芝居から別の芝居へとそれを行う.“一人芝居”では,転換は不意に行なわれる.対照的な気分の場面を,情感あふれるきっかけで手早く転換する必要がある.語り手は,伴奏の助けを受けずに,最も簡単な方法で任意の役の調子を出さねばならない.技量が頂点に達した三遊亭圓朝は,すべての外的な芝居道具や音曲を放棄した.
 小さいひ弱な人間が扇を手に高座に現れた.低い書見台を前に座って,こみ入った続き物を編み上げ始めた.観客の前には,堂々とした武士,優美な娘,街道筋の追い剥ぎが,それぞれ独特の話し方で,生きているように現れた.軽やかな手振り,書見台を打つ扇子…….寄席はむせび泣きでふるえる.目下,『塩原多助一代記』の主人公は愛馬,青と別れを告げている.この出し物の短い場面で,三遊亭圓朝はみごとに両方の役を演じた.多助は馬の首を抱いてじっとうつむいていた.すると突然涙のひとしずくが彼の手に落ちたのを感じた.馬が寂しがっているのだな.

      「おらの気持ちを察してわれは泣くのか?」

 19世紀末の日本で最も優れた3人の役者の一人,5世尾上菊五郎は,三遊亭圓朝の芸についてこう語っている.
 「圓朝さん2)には,手にもった扇子1本と自分の声しかない.ですが,一人でもってすべての登場人物や風景までもはっきりと,まるで何もかも自分の目で見ているかのように演じられる.こいつは芝居では一座全員でやる仕事ですよ.多助は私の当たり役の一つですが,誰一人として圓朝がやるように見事に馬を演じられやしません.かりに私が馬の役を引き受けたとしても,今度は多助の役を演る役者が見つからない.」
 声から速記法で記録された三遊亭圓朝の噺は,新聞のコラム小説として掲載され,独立した本として出版され,また歌舞伎に脚色された.これらは常に好評を博した.
 『牡丹燈籠』は1880年代の中ごろに出版された.日本は急激な変革を遂行したばかりであった.1868年の明治維新の際,(完全ではないものの)過去の封建的な秩序は打破され,日本は西欧的なブルジョア国家を築いた.新時代の若い日本文学は,小冊子や教科書で啓蒙的な創作を始めた.先進的な社会は,近代小説の誕生を待っていた.しかし,通念となっていた文語は,遠い過去の遺物であり,ひどく硬直した融通性や活力を失ったものであった.新しい文学は,新しいことばで語られねばならなかった.もし,ツルゲーネフが古代スラブ語で,また,モーパッサンがラテン語で執筆するように強制されたらどんな結果になったか想像できよう.
 三遊亭圓朝の話中の人々は自然に流暢に喋った.農夫の方言,職人言葉,泥棒の隠語など耳慣れない巷間の話しぶりを絶えず聞かせてくれた.これは,民衆の生きた会話が豊かに蓄えられた倉庫である.
 日本の近代小説の創始者,二葉亭四迷(1864-1908[ママ])と山田美妙(1868-1910)は,自分と同時代の人々が話すような書き方を求めて闘っていた.書き言葉を話し言葉に接近させようとして,彼らは三遊亭圓朝の作品を注意深く学びはじめた.
 このように噺家は作家が新しい文学の言葉を作り出す役に立った.

 三遊亭圓朝(彼の本名は出淵次郎吉)は,維新前の鎖国中の封建的日本に生まれた.当時,日本の古い伝統芸術の形態は,西欧の影響をまだ経験していなかった.江戸(現在の東京)では歌舞伎が盛んで,種々の流派や分野の歌い手や語り手がたいへん人気があった.江戸市民は,面白い言葉を使って,冗談や洒落をふんだんに織り込み,意外な結末を持つ滑稽な物語“落語”を愛した.時としてこのような噺は,真の民衆の風刺文学にまで発達した.
 17,8世紀,“落語”の最初の演者たちは,聴衆を小屋に集めたり,むしろを広げて地面にじかに座らせたりした.“三遊亭”の名前は,ある流派に所属していることを意味する.この流派の創始者で,高名な噺家,初代三遊亭圓生(1768-1839)は,芝居がかりの芸を作りだした.彼は,豪華な芝居道具を使用した.感動的でよく目立つ演出は,聴衆の好評をえた.
 古くからのしきたり通り,日本の世襲的な役者の名前は,遺産として師匠から弟子へと伝わった.名前の後には,ヨーロッパの王を識別するように代数を表す番号がつけられる.
 初代圓生の後継者2代目圓生は,既成の伝統に従い,さらに,自分の弟子へとその伝統を引き継いでいった.弟子の中には三遊亭圓朝の父がおり,後には圓朝自身が弟子となった.三遊亭圓朝は自己の厳格な芸の流儀を作りあげ,(まぎれもない根拠のある)弟子に3代目圓生の名と一切の芝居道具を譲った.
 役者の家庭では,子供が幼い年で観客の前に出演していた.
 三遊亭圓朝が初めて高座に上がったのは5歳[ママ]の時であった.しかし,その後,長いこと中断してしまった.父の親族の僧侶が,少年にそのような「ふまじめな仕事」を教えることに反対し蜂起した.12年後,すでに青年の三遊亭圓朝は再び好きな芸に戻った.この間,彼はいくつかの職業に就いた.紙屋に奉公したり,彩色版画絵師のもとで学んだりしたが,結局は自分を呼びだすものに忠実になった.
 初め三遊亭圓朝は2代目圓生と一緒に出演した.彼が休演した時は,彼の代理を勤めたりもした.しかし,不幸にも古参の噺家に職業上の妬みが目覚めた.彼は自分のライバルの演目をもぎ取ろうとしたり,さまざまないやがらせを行った.
 そして,三遊亭圓朝は自己の責任において独立することを決意した.しかし,それはすべての演目を失うことを意味した.自分で創作することになったのだ.最初の試みは成功であった.青年圓朝の豊かな創作能力が明らかになり,寄席の話芸を前代未聞の高さに向上させ,さらに新しい言葉を喋って日本文学に取り入れさせることさえ可能にした.
 実に起伏に富みファンタスティックな噺を三遊亭圓朝は作った.彼は見事に“狂言を回す”ことができた.まったく予期せぬ所で突然噺を中断してしまい,ひょうきんに観客に尋ねた.「さて,この続きはいかになりましょうか.」
 三遊亭圓朝の2作目である『牡丹燈籠』は,1870年代[1860年代]の初頭に初演された.当時は過去の封建的なものに敬意が払われていた.
 若い知性は貪欲に啓蒙思想や西欧の科学に向かっていた.三遊亭圓朝は芸術的な空想と古い慣習に対する愛好心を忠実に貫いていった.
 自分の噺の1つに彼はこんな巻頭言を前置きとして書いた.
 「今日では私は“怪談噺”を作って皆様の注目を集めております.今日ではこんな噺はすでに敬意を受けません.愛好者が細々と収集している程度です.幽霊は存在しない,こんな恐怖は神経のなせる業だと人は言います.教養の高い人々は,現在こんな噺を軽蔑するでしょう.私は思うのですが,いま,新規に聞くことができることを彼らはずっと以前からすでに語ろうとしないのです.今日では誰もすでに超自然的なことをまともに信じません.だからこそ私は『まあこんな古くさい怪談噺を喋るのも悪くはないでしょう』と考えるのです.」
 『牡丹燈籠』の筋は明朝の作家ツュイ・ユー[瞿佑]の『牡丹燈記』(約1379年)から借用されたと一般に言われている.彼の短編小説集『剪燈新話』は16世紀には早くも日本に伝わり,その後何度となく再版された.この本は非常に簡単なテキストなので漢文の学習用に使われた.『牡丹燈記』は日本語としても,傑作怪異小説集の中に再三姿を見せた.
 三遊亭圓朝もまた,この中国の小説を翻訳あるいは原文で知っていた.しかし,日本の研究者,奥野信太郎は,圓朝が借用した部分は非常に少なく,個々のモチーフだけであると指摘している.彼の『牡丹燈籠』は,豊かな創作力に基づく虚構と数個の入り組んだ筋立てを持つ明らかに別個の作品である.
 晩期封建時代の日本文学には,喜劇小説,恋愛に関する“感傷的な”小説,冒険小説など種々の分野の小説が存在した.『牡丹燈籠』は,既成の分野の枠を打破し,素朴な民衆のユーモアとパトスに満ちた“感傷性”を組み合わせた点に独創性があった.
 三遊亭圓朝はきめ細かい心理的な計算により,できごとを準備している.私たちは,なぜお露という女性が死んだかを知らないが,病弱で無力な彼女を見て,もう先が長くないと感じるようになっている.三遊亭圓朝は寄席の「心理的音響効果」を正確に計算して,自分の噺を作り出す(スタニスラフスキー).
 中国の物語では,初めから娘の幽霊が燈籠を手にして登場し,自分の不幸な愛と死の経歴について語る.娘の下女は,単に土人形でしかない.もし,周囲に不気味な光を反射する神秘的な牡丹燈籠という小道具がなければ,この物語は水準以下のものである.
 三遊亭圓朝はこの小道具にすべての意味を付与した.それは,後に歌舞伎で見事に使いこなされた.牡丹燈籠は,説得力のある物質性と同時に不気味な非現実性とを幽霊に与えた.架空と現実の両世界を一体化したのだ.総じて彼の噺はいつもこれらの場面が共存し,交錯している.あの世の幽霊は生きた人のようにふるまう.恐喝したり人の金をゆすったりするのだ.幽霊が登場することで,時として月並みな日々の生活感覚がさらに強まる.
 プーシキンの『スペードの女王』,第5章の皮肉な題辞にこんな件がある.
 「その夜私のもとに,死んだ男爵夫人フォン・V某が白づくめで現れた.彼女は言った,『ご機嫌よう参事殿!』.」
 『牡丹燈籠』は18世紀を発端とする過去を舞台にした噺である.当時の暗い時代色がよく主題と調和している.
 日本の封建時代の末期には,社会における金銭の権威は,軽々と幻想を持たせるほど大きくなっていた.この破滅的な力は,『牡丹燈籠』の中でも有効に働いている.仇討の習慣といった封建社会の規範もそれに劣らず恐ろしものである.“武士の名誉”のためには,血の雨が降ることも辞さない.主人への忠誠,主人の生命と名誉を守ること,これこそが武士の倫理の基盤であり,確固たる教条である.
 しかし,人は常に人である.そこに争点が生じる.揺るぎない名誉の規範が支配するところでは,スペインの劇でも日本のものでも同じである.『牡丹燈籠』の主たる事件は,主人公の孝助が自分の愛する主人が実は仇敵であると知らないことに基づいている.孝助は惜しみない真の思いやりをもっており,仇討を断念する覚悟がある.彼と主人飯島との間に,気高さの競争が生じる.飯島は名誉への義務感と自分の“業”に従い,自ら下男の槍の一撃のもとに身をさらす.
 噺の中の多くの事情は宿命的につながっており,仏教にそのつながりの理由づけがある.すべての事件のなりゆきは仏教によって運命づけられている.人の宿命は深い因縁によって決定される.強い愛も憎悪も生命と共には終わらず,いくつもの生を貫いて受け継がれる.善行悪行は必ず己れに報いる.こうして,“業”が生じ,人の宿命が存在する.しかし,因果関係は時として解決しない謎を生じる.『牡丹燈籠』で絶えず起こる有り得そうにない出会いと符合を著者はこれによって正当化する.彼は神秘的な運命の手を引き合いに出して「実際にはそんなことはない」という批判を否定する.
 三遊亭圓朝はできる限り,あらゆるところで古い伝説を集めていた.もし,たまさか遠い所で奇異な言い伝えがあると聞いたならば,遠方でもそれを調べに出かけた.
 かくして,塩原家の幽霊に関する話を聞いた三遊亭圓朝は,まだ猪や熊のいる僻遠の地に徒歩で出かけた.彼は,確かな理由があって語った.「どんな芸術に対しても自分の命を惜しんではならない.」
 『牡丹燈籠』の内容には,日本の古い伝統がかなり編み込まれている.
 三遊亭圓朝はある友人からこんな話を聞いた.ある武士と若い下男が不倶戴天の敵であるとわかった.下男は偶然主人を死ぬほど槍で傷つけた.その時,彼がずっと以前に若者の父を殺したことがわかった.主人は死に際に,自分が当然の報いを蒙ったことを思いつつ,自分を誤って殺した者を許した.古い日本にはこうした運命を打ち明けない話が多く伝わっていた.
 別の友人から,江戸郊外の米卸商,飯島喜左衛門の家庭劇について知った.彼の次男源次郎が茶商人の娘お露を愛し,結婚を望んだが,突然娘は病死してしまった.そこで,彼女の妹と結婚することに決まったが,この婚約者も死んでしまう.二重の打撃におののいた源次郎は,上野の池のほとり[池之端]に一人で住みついた.そこに,非業の死を遂げた二人の娘の幽霊が,愛する人を求めて夜毎さまよい歩くという噂が突然広まった.
 三遊亭圓朝は主人公の家族の姻戚関係を利用して両方の伝説を一つにした.娘お露は,自分の下男に殺される旗本の娘である.『牡丹燈籠』は謎にみちた小説である.謎の答を引き延ばすために,2つの主題が必要だった.そうでないとあまりに早く謎が明かされてしまうから.1つの主人公の運命についての話を中断して,三遊亭圓朝は突然別の続きを語りはじめた.それによって観客をいつもの緊張に引き込んだ.観客は飯島が死の前に何を書いたか知りたくてたまらない.しかし,違うのだ.まず,お聞きなさい.幽霊に夢中になった若者に何が起こったのか.彼は生きているのか.扉は開かれた.太陽の光が部屋の中に降り注いでいる.すべての立会人は集まった…….しかし,ここで飯島の遺言がはじまる.
 『牡丹燈籠』の構成は卓越している.ただ,現代映画の続編の冒頭に前作を思い出させるための字幕と同様な繰り返しが随所に現れる.語りものに必要な技法である.
 噺には,昔の日本の魅力的な情景が詳しく描かれている.ロマンチックな調子が強調されているが,三遊亭圓朝は非日常的なものさえ信頼できるものにする能力がある.
 幽霊が家に入り込む際,入り口に貼ってあった護符を見ないよう袖で隠すときは,芸術家が何らかの真に説得力のある部品を見つけたときのスタニフラスキーの言葉のように,観客は「私は信じます!」と言いたくなる.
 三遊亭圓朝の主人公は“演技”しない.彼らは本当に生きている.
 『牡丹燈籠』は三遊亭圓朝の青年期の作品で,その比類なき創作が頂点に位置した時期であった.
 1882年,日本語速記の体系が考案された.その後まもなく二人の速記者が三遊亭圓朝口演の『牡丹燈籠』を速記することにした.筆記は15晩にわたった.小説として1884年に出版され,ただちに多くの層の読者に受け入れられた.また,日本の劇場の興味を引いた.
 19世紀最高の劇作家,河竹黙阿弥(1816-1893)と福地桜痴(1841-1906)が『牡丹燈籠』の脚色を行った.彼らはさらに事件の演劇性を強めた.戯曲では,娘たちは自殺したのだ.5世尾上菊五郎はそれを舞台に取り入れた.
 『牡丹燈籠』は歌舞伎演目としてさらに広く知られた.慣行として夏の炎暑の最中に催される.なぜなら,舞台の上に幽霊が現れると,見物の背中に寒気が走るからである.古くからの日本の迷信によると,しばしば幽霊には足がない.お露と彼女の女中は,灰色の人影のように,垂れ下がっている春の柳の枝の後ろ,舞台上をすべるように動いて行く.お露の亡霊が最愛の人の家にはいるとき,牡丹燈籠はひとりでに空中を走り去り,舞台奥に消えて行く.観客に寒気を浴びせかけるのも道理である.
 『牡丹燈籠』の後も三遊亭圓朝は飽くことなく日本の迷信や伝説を集め,さらに多くのすばらしい噺を作った.晩年の著作では,時代の流れに従い,西欧の文学作品,たとえばモーパッサン,また,ヨーロッパの歴史(『女王イリザベス伝』)にテーマを求めた.
 三遊亭圓朝の評判は絶えることなく高まっていった.圓朝が出演するとどんな寄席の番組でも彼が評判を取った.
 このすばらしい大家が観客の前に最後に登場したのは1899年10月であった.圓朝は『牡丹燈籠』の抜き読みを行った.翌年,満62歳[ママ]で三遊亭圓朝は没した.

B.マルコフ

著者注
 1) V.ヤホントフ,『一人芝居』,モスクワ,イスクーストバ,1958,p.88.
 2) さん:日本人の名につける丁寧な接頭辞[ママ].三遊亭圓朝を指す.


訳者注は[ ]内に記した.辞書舐め舐めの拙訳 ひらにご容赦

掲載 040803